第5話

 二人はようやく、北の霊峰にたどり着いた。

 そこは高く切り立った断崖や岩肌が目立つ荒涼とした山で、生き物の気配がほとんど感じられない。山を登ろうとした人間は誰一人帰ってこないため禁足地とされ、巡礼者であっても入れるのはふもとの祭壇までである。

 とはいえ、あらゆる巡礼の道の果てとあって、祭壇の周りにはそれなりに人の姿がある。アーシュカと青騎士の二人連れはやたらと目立ってしまうこともあり、アーシュカが祈りを捧げるのは、人気ひとけがなくなるだろう日没後まで待つことになった。


 静かな夜だった。

 祈りを済ませた巡礼者たちはおそらく、ここから一番近い村の宿で疲れを癒しているのだろう。アーシュカの耳には、聞き慣れた自分たちの足音と、びゅうびゅうと谷間を抜けていく風の音だけが響いていた。

 最後の祈りを捧げるのは、これまで巡ってきた石碑とは違い、巨大な浮彫レリーフで飾られた祭壇である。北の霊峰は、神々の住まう場所。浮彫には杯を交わし、睦み合い、殺し合う、様々な神の姿が描かれている。それはアーシュカの手で触れるには大き過ぎるので、青騎士がいくつかその様子を言葉で伝えた。

 その祭壇の前に膝をつき、アーシュカはまた手首に刃を当てる。同じ場所ばかり切ってはいけない、と青騎士に言われて、利き手の反対の腕や指先、様々な場所がもはや傷だらけだった。青騎士の処置のおかげで綺麗に治ったものも、自分の切り方が悪くてあとになってしまったものもある。それらはこの国で「巡礼痕じゅんれいこん」として名誉のあるものだが、アーシュカにとってそれが名誉となるかは、この呪いが解けるかどうかにかかっていた。

 幾人もの血を吸い赤黒くなった土の上に、自らのそれを垂らし、平伏へいふくする。


「アーシュカより御山おんやまこいねがう この血が清められるよう この地が御手みてかてとなるよう」


 山は変わらず静かだった。アーシュカは震えながら顔を上げ、その眼を開いた。

 暗い。

 あまりにも夜が深いだけかと思い、左右を見回す。

 暗い。

 空を見上げても、月や星の光は見えない。奇跡の気配は無い。


 アーシュカは短刀を振り上げ、自らの胸を刺そうとした。青騎士は咄嗟に剣を抜いてその刃をはじき飛ばし、短刀は暗がりに落ちて見えなくなった。


「なぜ止める! 止めるのならばお前の手で私を殺せ、それがお前の最後の役目だ!」


 青騎士は血を流し続ける手首を掴み、ぎゅうと締め付けた。アーシュカの血が、青騎士の甲冑を伝って落ちていく。


「殿下、あなたは死ぬために旅をしていたわけではないはず。あなたの心も体も、生きたいと叫んでいるように、私には見えます」

「そうだとして、どうしろと言うのだ! 私は呪われている、穢れている、私の生きる場所などない!」

「私があなたに生きていてほしいのです、殿下」


 青騎士の言葉に、暴れていたアーシュカは動きを止めた。


「この国にその場所がないのなら、別の国へ行きましょう。私をまだともと思ってくださるのならば、私がどこへでもお連れします」


 アーシュカは青騎士に向き直ると、その冑を手さぐりでぐりぐりと乱暴に脱がせた。青騎士の鼻や耳が引っかかって赤くなったが、アーシュカには見えない。


「ならば呼べ、私の名を」


 アーシュカは濁った碧眼から涙をひとすじ流した。


「私はもはや王子ではないのだから」


 それを聞いた青騎士は、かつて塔の中でしたように、跪きこうべを垂れた。


「アーシュカ、私と共に生きてほしい」


 アーシュカは月の光の下で、太陽のように眩しく微笑んだ。それから跪く男の左頬に、そっと接吻した。


「今こそお前に名をやろう。朝焼けアーシュカ朋輩ほうばい夜明けメルヒス。それがお前の名だ」




 そうして姿を消した朝焼けと夜明けの行方を、誰も知らない。 

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青騎士と呪われた王子 灰崎千尋 @chat_gris

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