この世の果て
ワームホールの中は、一言で言えば無秩序な世界だった。
探査艇の中にいるはずなのに、一部の奥行きが無限に伸びている。かと思えば、マリィ博士とユカリ二人の体積を明らかに下回るくらいに狭くもある。
マリィ博士に内蔵されている時計は既に40億年ほどが経過したことを指し示しているが、ユカリが身に付けている携帯端末の時計は止まったまま先に進まない。
そして二人の体感時間は、ワームホールに飲み込まれてからおよそ30秒程度しか経っていなかった。
そこでは、時間と空間に境目がなかった。
複数の自分たちがそこかしこに存在し、その全ては形を変え続けている。
ある時は腕が飴細工のように変形し、またある時は頭の中身が魚の干物のように開かれて、その詳細を他の自分の目からはっきりと観察することができた。
そこにいるはずのない人物が現れることもあった。ユカリの孫のリンや、その子孫たちが幽霊のように脈絡のない動きをしては消える。どうやら記憶と現実の境目もまた、曖昧になっているようだった。
声を発しても、それが聞こえるのはどこか別の場所からだった。
光の速度も常に変化しているのか、色が一定に定まるということがない。
因果がデタラメに組み替えられているかのような、無秩序な世界だった。
『外に出てみようか』
ユカリの頭の中に、マリィ博士からのメッセージが届いた。サーバーを介さない二人だけの直通回路が生きている。そのタイムスタンプを見ると、今から80時間後に送られたものだった。
『どうやって?』
『普通に出入り口から』
ユカリが短くメッセージを返信すると、その瞬間にマリィ博士からのメッセージが返ってきた。
探査艇はワームホールに飲み込まれた時に故障したのか、機能はほとんど停止しているように見えた。かろうじて室内の明かりが灯っているだけで、外の情報を得ようと操作コマンドを実行してもエラーが返ってくるだけだった。
窓の外は完全な闇で、歪んだ自分たちの姿が映っていたりいなかったりする。
こうなると、脱出するためには手動でハッチを開けなければならない。
非常ドアコックがある場所を特定したユカリは、グニャグニャととぐろを巻く自分の両腕を見て、その手を開いたり閉じたりした。
肉眼で見える通りの因果は存在しなくなったと考える必要がある。この無秩序な世界で大切なのは、自分が何をしたいかという意思だ。ユカリは早くもこの世界での動き方に順応し始めていた。
ユカリが手を伸ばすように意識を向けると、見当違いの方向にあるはずのドアコックの硬い感触と共に、慣れ親しんだマリィ博士の人工皮膚の手触りを感じた。
視界は相変わらず狂っている。マリィ博士は近くにも遠くにも存在している。しかし、今この瞬間ユカリの手は間違いなくマリィ博士の手と重なっていた。
長い時間と奇妙な因果を乗り越えてきた二人の意識は完全にシンクロし、声もメッセージも必要とすることなく、二人は全く同じタイミングでドアコックを引いた。
次の瞬間。
世界が創造された。
◆
そこは無限に続く草原だった。
空は青く晴れ渡り、雲ひとつない。
爽やかな風が吹く。
足の短い草がそよそよと揺れて波となり、見えないはずの風の姿を形づくる。
風が収まると、しん、と静寂が戻った。
柔らかな光が空気を温めている。
しかし、空のどこを探しても太陽は見当たらない。
ゆっくりと辺りを見回していた首がコキリと鳴り、そこでマリィ博士は、そう言えば太陽など存在するはずがないということを思い出した。
目に映るのは穏やかな景色なのに、そこには違和感しかない。
光源がないのにどこからか降り注ぐ光もおかしいが、足首が埋まる程度の高さに揃えられた草原も不自然だ。
感覚接続型のVRに似ている。しかし、リアリティの解像度が明らかに違う。
ここは現実の世界だと、マリィ博士の五感が告げていた。
「しかしまあ、これは……」
思わずマリィ博士の口から声が漏れる。
彼女の隣には、二人の人間がいた。
一人は、マリィ博士と同じように周囲をキョロキョロと観察している少女。
そしてもう一人は、草原に横たわり眠っている女性。
「これはちょっと、予想外の展開ですね」
中学生くらいの少女がマリィ博士を見上げながらそう言った。
「まったくだ。またその姿の君に会えるとは思わなかったよ、ユカリ」
マリィ博士は両腕を広げて、小さなユカリの体を抱き締めた。
「……あの頃から薄々思ってたんですけど、博士って
ユカリはマリィ博士の背中に手を回して、赤くなった自分の顔を見られないようにギュッと力を込めながら、とぼけた口調で呟く。
「……断じてロリコンではない。ユカリが特別なだけ」
「でも今、明らかに嬉しそうですよね」
「そりゃあ君だって同じじゃないか」
「……すみません。照れ隠しに野暮なことを言いました」
マリィ博士の体は、人間のそれに戻っていた。
骨の上に筋肉と脂肪と皮膚がくっついている肉体の体重は、ヒューマノイド用の義体と比べて格段に軽く、柔らかくて、温かい。
それでいて、コアに搭載されていたストレージは脳と一体化してしまったのか、不思議なことにそのまま不都合なく運用できている。
「まるで夢でも見ているようだ。願いが叶う場所なのかな、ここは……」
マリィ博士がユカリから体を離すと、またしても景色が一変した。
草原だけだった世界に、木々が生えていた。
「まったくデタラメな世界ですね」
ユカリは近くの樹の下まで歩いていって、その滑らかな木肌に手を滑らせる。
ふと振り返ると、横になり眠ったままのマユの体に木漏れ日が差して、一枚の絵画のように見えた。
「……でもまあ、マユさんに体を返すことができてよかったです」
マユの体をよく見ると、胸がかすかに上下している。呼吸をしているが、しかし目覚める気配はない。生きている状態と、死んでいる状態のちょうど中間にあるようだとユカリは思った。
「さて、ここがコアのワームホールから通じている空間だとすると、この景色は我々の願いによって作られたものということになるが……」
「まあ、”あらゆる可能性”が私たちの願いを受け取った結果だと考えれば、一応辻褄は合いますね。博士は人間の体になっているし、私はマユさんに体を返せた。私が子供の姿になっている理由は……博士……?」
ユカリのジトッとした視線を受けて、マリィ博士は慌てたように両手をわちゃわちゃ動かしながら弁明する。
「ち、違うぞ。いや違わないか。私はユカリが大人になった姿を知らないからな、きっとそのせいだろう。断じて私の趣味とかそういうことではない」
「ではそういうことにしておきましょう。それで、これが死んだ後に見ている夢じゃないとしたら、博士の推測だとここには神様的な存在がいるはずなんですよね?」
「うん。コアという超常的な装置を作成して地球に置いていった者は必ず存在するはずなんだ。そしてそういう者がいるとしたら、コアから通じるワームホールの向こう側しかないと思ったんだが……」
マリィ博士は改めて周囲をキョロキョロと窺うが、いつの間にか生えていた木々がザワザワと葉を揺らす音が響くだけだった。
「何もいませんねえ……というか、私たちの願いがこの草原というか林というか、こういう景色を作ったということは、それ以前には何もなかったと考えるのが妥当なのでは? 神様的な存在とコンタクトを取るためには……神殿とか、そういうのが必要なんじゃないですか?」
「神殿か……お、ユカリくん、あっちを見てみたまえ」
マリィ博士が指差す方にユカリが目を向けると、木々の隙間を縫って遠くに白い柱だけで作られた建物のようなものが見えた。
「パルテノン神殿とはまた、古典的な……」
明らかに先程までは存在しなかった既視感のある神殿風の建物をジト目で見つつ、ユカリはこの世界の非常識さを認識して小さくため息をつく。
「神殿って言葉で私が真っ先に連想しちゃったからかな……まあとにかく、行ってみようか」
「そうですね。マユさんは……大丈夫か」
一瞬、眠ったままのマユを置いていくことに躊躇いを見せたユカリだったが、そもそもこの世界に外敵など存在しないことを思い出して、マリィ博士の後を追った。
無数の巨大な柱で構成された神殿は、近づくほどにその威容を明らかにする。
少し小高くなった丘の上、雲ひとつない澄み切った青空を背景に、真っ白な柱の列が美しく立ち並ぶ姿は壮観だった。
その巨大さは人間のスケールを遥かに超えており、まさに神を祀るのに相応しい場所のように見える。
「……というか、デカすぎますねこれ。高さも何十メートルあるんですか。本物のパルテノン神殿はもっと小さいですし、柱もこんな真っ白じゃないですよ。そもそも作られた当時はもっとカラフルだったという説もありますし」
「え、そうなの……? 完全に私のイメージだからなあ。まあ、大は小を兼ねるって言うし、細かいことはいいじゃないか」
「確かに、細かい部分も変ですね。円柱がエンタシスじゃないから見上げるとちょっと安定感が欠けた感じになります」
「なんだかユカリ、その姿になってから一気に昔の調子を取り戻してきたなあ」
「博士が適当な性格になっているからかもしれませんよ」
「私は昔も今もこういう性格だい」
軽口を言い合いながら、二人は神殿の中に足を踏み入れる。
神殿の屋根は何故か所々抜けており、光が降り注いで明るかった。
「アテーナー像は……ないですね。というか何もありませんけど」
「そういえば私、神殿の中がどうなっているかは知らなかったな」
「がらんとしていて、これはこれで静謐な感じはしますけど……神様を迎えるなら何か御神体というか、目印みたいなものがあった方がそれらしいのでは?」
「ふむ、目印ね」
一瞬、二人の視線が外れたタイミングで、神殿の奥に巨大な聖杯のようなものが出現していた。
白い大理石で作られたその彫刻は、25メートルプールの水くらいなら余裕で入りそうなほどの巨大さだった。
「……なぜ杯を?」
「あー……多分、ゲームの記憶かな……」
遥か昔に遊んだことがあるゲームのことを思い出しながらマリィ博士がポリポリと頭をかいていると、不意に杯から青い炎が立ち上った。
揺らめく炎は徐々に形を変えていき、巨大な人型のシルエットを取った。
「うわ、何か出ましたよ。これも博士が想像したんですか?」
「いんや、私だったら鳥の姿にするね」
「博士じゃないとすると……本当に神様ですか。私、半信半疑だったんですけど」
「私もだよ……」
緊張感のないやり取りをする二人の頭の中に、ボワンと何か太鼓の音のようなものが響いた。
それは高い音や低い音を繰り返し、ラジオのチューニングをするように少しずつ音の輪郭を明瞭にしていく。やがてそれは、はっきりとした意味を持つ言語として二人の脳内に届いた。
『あー、どうも。はじめまして』
「……どうも」
「はじめまして……?」
女性のような、少年のようなその声の、思いがけずフランクな喋り方に、マリィ博士とユカリはどうリアクションを取っていいのか分からず、無難な挨拶を返した。
そもそも二人は、この世界で本当に神のような存在とコンタクトを取れると心から信じていた訳ではなかった。仮にそれがあるとしても、こんな悪ふざけのような舞台装置に降臨してくれるのではなくて、もっと形而上の、概念的な、未知の方法で語りかけてくるのだろうと漠然と思っていたのだ。
脳内に直接言葉が響くというのも、地球人にとっては既に確立されている技術であり、特に目新しいものではない。だから二人は、恐らく人類の歴史上類を見ないイベントに該当するであろうこの瞬間にほとんど感動も現実感も抱けないまま、目の前の現象をただ受け入れるという姿勢を自然と取っていた。
そもそも考えたことが実際に起こるというこの世界に放り出された時点で、どこかゲーム的な非現実感の中にいたことは否めなかったのだが。
『えーと、何から話せばいいのか……そうだ、君たちの質問に僕が答えるという方法はどうかな。うん、これは効率が良さそうだ』
青い炎の巨人という威容にそぐわない軽快な喋り方に一瞬面食らったマリィ博士だったが、疑問を解消してくれるというなら是非もない、と気持ちを切り替えた。
「それではお言葉に甘えて……まず、ここはどこなのか教えてほしい」
『ここは、君たちが宇宙という言葉で定義している空間の外側と言えばいいかな』
「外側……宇宙に外側という概念はないと我々は考えていたが……」
『ああ、いや言葉で説明するというのは難しいな。例えば……ここに大きな紙があるとする。これが君たちにとっての宇宙だ。この紙には終端があるけど、我々から見れば紙の外にも空間は広がっているよね。それは床の上だったり、机の上だったりする。机の上にはティーカップが置いてあったりする。君たちが今いる場所はそこだ』
「……つまりここは、一つ上の次元だと?」
『回答に厳密さを求めないなら、僕は肯定するだろうね』
そこでマリィ博士は、探査艇の中で起きた出来事を思い返した。
あの時、時間と空間が同等に扱われていたと考えれば、辻褄は合う。
『この神殿や草原は君たちが創り出したものだから、君たちに馴染みのある法則に従っている。けれど君たちの本質は既にこことは別の場所にある。ここは影絵の世界のようなものさ。だからここにあるものは壊れても、元通りになる。君たち自身もね』
「なんとなくだが、理解した。ではもう一つ質問してもいいかな?」
『どうぞ』
人間の動きや文化などを事前に学習しているのか、青い炎の巨人は右手を軽く差し出すようなジェスチャーをしてみせた。
マリィ博士はそれをなんとも言えないような気持ちで眺めつつ、口を開く。
「あなたは何者?」
『君たちにとって分かりやすい言葉で言うなら、僕は上位次元の生物といったところかな。付随するであろう質問を予測して先に答えるなら、僕たちは複数存在しているし、この場所だけではなく、もっと遠くにもいる。生態などは君たちの常識とはかけ離れている上に複雑だから、まだ理解するのは難しいだろうと判断して説明を省略させてもらおう。ちなみに、君たちの概念で言う神様ほど万能ではないよ』
「……一つ聞けば十返ってくるとは有難い」
思いがけずお喋りだった炎の巨人に面食らいつつ、マリィ博士は肩をすくめる。
恐らく相手はこちらの思考を先読みすることくらい容易いのではないか、とマリィ博士は推測した。その上で質問に答えるという形式を取ってくれているのは、かなりこちらの常識に配慮してくれているということなのだろう。
「では、コアを地球にもたらしたのもあなたたちで間違いないのかな?」
『部分的に肯定する。君たちがコアと呼ぶあの装置を、一定水準以上の文明を持つ星々に配置したのは、僕が所属する
「なぜそんなことをしたのか、理由を聞いても?」
コアの出所についての推測がある程度的中していたことにマリィ博士は内心喜びつつも、逸る気持ちを抑えきれずに次の質問を投げかけた。
『それを説明するためには、僕たちの目指すところを先に説明しなければならない』
「構わない。教えてくれたまえ」
『先の例えを再利用しよう。君たちが紙の上から飛び出して机やティーカップの上に来れたように。僕が所属する連盟もまた、この世界の外側を目指している』
炎の巨人は天を仰ぐように、その巨大な腕を振り上げて見せた。
神殿の天井に空いていた穴から光が降り注ぎ、スポットライトのように巨人を照らしている。
「あなたたちの、更に上の次元に行けると? 途方も無い話だな……」
『少なくとも僕たちはそう信じている。君たちの科学レベルですら、既に4次元どころか8次元や10次元の概念はあるだろう? そう突飛な話じゃないさ』
「概念を扱うのと、実際に行くのとでは大きな隔たりがあると思うが……」
『まあとにかく、僕たちはそのための研究として、君たちの次元の活動体……生物にヒントを与え、こちら側に誘導した。文明がどのように変化し、科学がどう発展して次元の壁を超えようとするのか。その活動を見ることで、僕たち自身が外側に出るための可能性を探るというのが目的だ』
「……つまり、我々がここに到達した時点で、あなたたちの目的は達成されているということかな?」
『君たちはコアのゲートを開いただけだから、違うとも言える。でも、それだけの科学力に到達するまでのデータを採れたので十分だとも言える。物事を進める時には常に二つ以上の目的を備えておくものだから、どちらでも構わないというのが正直なところだね』
「別の目的もあると?」
『こっちは優先度がそれほど高くないけどね。簡単な話さ。君たちがここで更に科学技術を発展させて、完全に僕たちと対等な存在になった時、僕たちの連盟に誘おうという……ちょっとした下心だ。果ての先を目指す同志は多いほど良い』
炎の巨人は、表情のない顔でどこか遠くを見るような仕草をした。
それは見果てぬ夢を目指す意思を、人間に対して分かりやすく表現して見せたものだろうと思われた。
「仮に連盟とやらへの誘いを拒否した場合はどうなるのかな?」
『別にどうにも。強制する意思はないよ』
「そうか……えーと、他に聞きたいことは……ああ、どうしてこう、いざという時に何も出てこないかな」
超常の存在を目の前にして、多少は緊張していたのだろうか。マリィ博士はガシガシと頭を掻いて悔しそうに声を上げる。
「じゃあ、私から質問してもいいですか? あなたはさっき、コアを一定水準以上の文明を持つ星にバラ撒いたみたいなことを言っていましたけど、私たちと同じようにここに辿り着いた生物が他にもいるということですか?」
それまで黙って隣で話を聞いていたユカリが、ひょっこりとマリィ博士の横から顔を出して質問した。
『そうだね。ここに辿り着いたのは君たちだけではない。これまでにも、数多くの活動体がここに到達している。そしてそれは、これからも増え続けるだろう』
巨人のその返答を聞いて、ユカリは露骨に顔を曇らせた。
「やっぱりですか……ねえ博士、これ下手したら他の星の人と戦争になりません?」
「……確かに。考えたことが実現する世界で他の種族の生命体と出会ったりしたら、悲惨なことになりそうだなあ」
意思疎通の取れない者同士が出会ってしまった場合、互いに害を与えないと証明することができないのだから、逃走するか先制攻撃で相手を制圧するか以外の選択肢は自ずと消える。
こちらが対話を求めて近付いたところを刺されない保証はない。相手も同じことを考え得る以上、友好的に接触するという手が封じられてしまうのだ。
『それについては心配ないと言っておこう。ここでは違う文明を持った生物間で争いが起きることはまずない。ついでに言うと、僕たちも争いという概念を持たないから、君たちをどうこうしようということにはならない』
しかし炎の巨人は、マリィ博士とユカリの考えをあっさりと否定した。
「それは……争いが起きないというのは、なぜ?」
『逆にこちらから質問することで回答につなげようか。争いはなぜ起きる?』
「不信感とか……利害関係とか? 数え始めたらきりがないけど」
『僕たちに言わせれば、争いが起きる原因は密だからだ。疎であれば争いは起きない。君たちの世界は密集し過ぎていた。肉体的にも、情報的にも。そうしなければ存続できなかったのだから、仕方ないけどね』
「出会わなければそもそも争いが起きないというのは分かるが……つまり」
『そう。ここで君たちが他の文明と出会うことはない。ここは広さのスケールが君たちの常識とはかけ離れている』
巨人の言葉を聞いて、マリィ博士は思わず天井の隙間から空を見上げた。
考えたことが実現するこの世界でさえ、出会うことがないと断言できるということは、仮に光の速度で移動したり、ワープ航法を開発したりしても、どこにも辿り着けないほどの広さがあるということだろうか。あるいは、広さという概念自体が的外れなのかもしれない。
「つまり他の誰かと接触するためには、あなたたちと同じ存在になるしかない、と。今あなたが私たちと会話できているように」
『その通り。そして、そうなるということは、疎になるということだ。君たちはそれぞれが個別の存在となり、己の中に歴史を保有することになる』
「あなたは先程連盟に所属していると言ったが、それは密には当たらないのかな?」
『同じ方向を目指す同志、協力者という意味ではあるけど、実際に近しい存在になる訳ではないからね。このあたりの概念は、まだちょっと理解しにくいと思う』
「ふむ……」
『他に質問は?』
「では最後に……私はこの、隣にいるユカリと離れたくないんだが、二人が一緒のまま君たちと同等の存在になることはできるのかな?」
マリィ博士のこの質問に、炎の巨人は初めて思案する素振りを見せた。
『うーん……僕は最初からこちら側の存在だから、その感覚はよく分からないけど。二人が一つの存在になればいいんじゃないかな? いや、待てよ。それはどうだろう。難しいな。……大きな手は精密な作業をするのに向いていないという例えで、僕がその質問に答えることの難しさを理解してくれるかな?』
「ああ、いや、ありがとう。参考になったよ」
マリィ博士が苦笑しながら言うと、巨人は一度大きく揺らめいた。
『じゃあそろそろ、ひとまずのさよならだ。また僕とコンタクトを取りたくなったら、同じ儀式をしてほしい。これはとても分かりやすくて好みだから』
そう言うと、炎の巨人は杯や周囲の柱をごっそりと削り取るようにして、目の前から消え失せた。支えを失った神殿は倒壊するかと思いきや、巨大なスプーンで抉り取られたような不自然な状態のままその形を保っていたが、それは一瞬で復元された。
「大きな手は精密な作業に向いていない、か……あの人は私たちと接触を図るためにずいぶん気を使ってくれていたみたいですね」
「恐らく我々がここに来たことを観測してから言葉や文化なんかの地球の情報を収集したんだろうけど、そう考えるとまさに神のような御業と言わざるを得ないね」
二人が神殿を出ると、また少し景色が変化していた。
木々は整列し、遠くに大きな岩が見える。
「今度はエアーズロックですか……」
「こうもだだっ広いと連想してしまってねえ」
「ウルルの周囲にはこんな木は生えていなかったはずですけど」
「そこはご愛嬌」
空には
太陽がないはずなのに、赤方偏移による夕焼けに似た光が彼方からグラデーションでその雲を染めていく。
「夕焼けになった……センチメンタルですか、博士」
「これは別に私の心象風景ではないよ。というかユカリの願いも反映されるんだから、これが君が願った景色ではないとは言い切れないのではないかね」
「意識のある生物が二人しかいない世界では、嘘はあまり意味を成しませんよ。それより……どうしますか、これから」
二人はゆっくりと歩きながら、同じくらいゆっくりと言葉を交わす。
「どうしようかな。この世の果てに辿り着いて、神様にも謁見してしまった」
「どちらも(仮)の暫定的なものですけどね」
「人生で、これほど肩の荷が下りることある? ってくらい下りているね、今」
「一応、四次元生物(仮)の仲間入りをして第nの壁を突破するという
「それは神様(仮)も強制じゃないって言ってたし……」
「そうなると、本格的にやることがありませんよ」
「ダラダラ遊ぼっか、とりあえず100年くらい」
「途中で絶対飽きるに一票」
「甘いなユカリくん……今なら過去の娯楽ならなんでも再現できるのだよ? 私のストレージ内に蓄積されたデータを舐めてもらっては困るな……」
「そういうデータばかり集めてるからバックアップが大変になるんですよ。……ところでドラクエってあります?」
「全部あるよ。ちなみに昔クモザキくんに貸したのはⅢね」
「じゃあⅠからやろうかな……なんかこんな調子だと、普通に100年くらい経過しちゃいそうな気がしてきました」
「漫画や小説、映像作品まで含めると100年ではとても追いつかないだろうねえ」
二人はいつの間にか、遠くに見えていたはずの
眼下に広がる大地にはますます木々が増え、青々とした葉を茂らせている。
「とりあえず……何かこう、区切りというか。そういうのが欲しいですね。記念というか。気持ち的に」
「打ち上げパーティー的な?」
「まあ……そんな感じです」
「じゃあ、こういうのはどうだろう」
マリィ博士がそう言うと、突然空が暗くなった。
その夜空に星はなく、しかし完全な闇よりも青みがかった明るさがある。
そして地上では、無数に生えている木々に変化が起き始めた。
それらは急速に成長して枝を伸ばし、微かに発光しながら蕾をふくらませる。
ポン、ポンという擬音が聞こえてくるかのように、次々に花が咲き始めた。
白や赤、ピンク、中には紫色の花もある。
それらは確かな光を帯びて輝き、暗い地上に火を灯していく。
「わぁ、なんだか花火みたいで綺麗ですね……あれ、あの花って」
ユカリは地上を見下ろしながら、何かに気付いたように小さく口を開けた。
それを見て、マリィ博士は微笑む。
「さて、クモザキくん。この世の果てにおいて、最も美しいものはなんだと思う?」
「簡単ですよ。それは、マリィ博士です」
「おいおい……嬉しいけど、ここは
「思い出はいつも綺麗ですけど。でも、今、一番美しいのはあなたですよ」
「お腹が空きそうな台詞だね。ならばその言葉、そっくりお返ししよう」
「なんですかそれ。プロボーズですか?」
「好きに受け取ってくれたまえ」
それからしばらく。
時間という概念を無視できるその世界ですら、長いと思えるほどの間。
二人の影は光あふれる地上を見つめながら、寄り添ったまま動かなかった。
夜は明けず、花は枯れず、いつまでも美しい瞬間を留め続ける。
やがて。
二つの影は再び、動き始めた。
(この世の果てのマリィ 完)
この世の果てのマリィ 高山しゅん @ripshun
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