壊れたのは何か
次の日の朝も、彼女はいつもと何も変わらなかった。同じバスの中、同じ位置に立っていた。すっかり目に馴染んだ背中を見つけたとき、正直ボクはホッとした。彼女がいつか「いつも通り」じゃなくなることを、どこかで不安に思っていたのかもしれない。
「おは、よう」
「オハヨウ。元気そうね」
「元気そうっていうのも、なんか不思議だな」
彼女が身に着けたスカートとボクのズボンは、どちらも濃紺のチェック柄でおそろいだ。車内には他にもたくさん“おそろい”がいる。朝と夕方、このバスは決まって“おそろい”だらけになった。そうじゃないときにボクらが乗ることは、あんまりない。
ボクも毎朝と変わりない彼女に習って、彼女の横に立つ。「いつも通り」だった。
彼女とボクは、恋人ではない。同じクラスでもない。出身の小学校や中学校が同じでさえない。ボクたちはただの、屋上仲間なんだ。
目を開けて、最初に顔を合わせたのがこの場所だったから、毎朝をここから始めることが「いつも通り」となった。誰がそう決めたわけじゃない。ごく自然にそうなった。何の疑問も抱かなかった。こういう運命なのかもしれない、ボクはそんな風にさえ感じている。
ボクらは気が向いたときに屋上に向かう。チャイムの音で行動に区切りをつけるだけで、過ごし方は自分たちが好きなようにしていた。
朝から数えて三度目のチャイムに屋上の扉を開くと、彼女はもうそこにいた。吹き付ける風に手を伸ばし「触れないね」と拗ねたように言うと、ボクを隣へと招いた。
「もうすぐね、ココ、制服が新しくなるんだって。ブレザー、やめるんだって」
「ふうん。そうなのか」
腕を宙に遊ばせながら突然話しかけられる。まるで、彼女にしか見えない蝶でも探しているかのようだ。幻想めいた動作はとうに慣れていたから、気にすることもなく返す。
「そうしたら、もう、みんなと“おそろい”じゃなくなるね。あんたはさみしい? 変わっていくもの、恐い?」
ボクは静かに答える。
「この世界が正常に回っていたら、みんないつかは変わってくよ」
本当にそう思ったわけじゃなかった。むしろ逆だ。ボクだって壊れて欲しかった。
つまらないこと聞くね、と言ったら彼女はひどく怒った顔をした。
「あんたはそう思うんだね? でも、みんなは変わるんじゃない。ちょっとした何かが起こったら、少しだけ驚いて、元に戻ってくんだよ。何にもなかったみたいな顔をして、戻ってくんだよ。だから世界が回るんだよ」
彼女が一息にものを言うときは、どうも機嫌が悪い。ボクは視界から彼女を追い出してから、ごめんと呟いた。彼女はうなずいたみたいだった。彼女の肩から、あの長い髪が滑り落ちる音がした気がした。
「あたしは壊れて欲しかった。ちょっとした何かが起こった世界が、壊れて欲しかった」
「……うん」
「でも壊れないね。せっかくあたし見てるのに。壊れないか見てるのに」
そうだねと返事をしながら、ボクはもう一度彼女を視界へ入れてみた。きっと彼女は、ボクよりも遥かに長い時間をここで過ごしているのだろう。ただひたすら“世界”が壊れることを祈りながら。
彼女の言う世界は、彼女を取り巻く環境を、彼女が知っている全てのことを示すのだとわかるまで長かった。彼女は望んでいた。自分という存在がいなくなった世界が壊れることを。でもきっと、残酷なほどに「いつも通り」だったのだろう。ボクにはそれがわかった。
ボクの周りに広がっていたそれは、彼女が言う世界のように、壊れなかったからだ。
学校に遅刻しないようバスに乗って。チャイムが鳴れば授業が始まり。てきとうに笑って、帰る。何ひとつ変わらない世界を目の当たりにして呆然とするボクに、彼女が声をかけてきた。「一緒に世界が壊れるのを待とうよ」と誘われたんだ。ボクはその誘いに乗った。
でもボクらの世界は、変わらない代わりにどんどん年をとる。本当に見届けるには、ここにいちゃいけないんだってことも、ボクは知っていた。でも彼女は知らない。
ボクらの意識は毎朝バスの中で始まり、チャイムで動き、この場所に来る。
ボクらが本当にこの学校へ通っていた頃とは、この場所も随分と変わってしまった。試しにフェンス越しの遥か下にある運動場を見てみれば、サッカーゴールが一つ増え、体育館が新しくなり、真下には花壇があった。赤い、赤いチューリップが咲き乱れてる。
「ボクが落ちたときには、そんなものなかったよ」
独り言は、この空間に妙に残った気がした。彼女は何も言わなかった。
「ねぇ、ひとつ聞いてもいいかな」
いつかの彼女と同じように話しかけてみる。そして続きは確か、こうだ。
「ボクがいなくなったら、君は壊れてくれる?」
彼女はしばらくの間、ボクのことをじっと見つめていた。ボクも彼女を見る。視線が強く結びつき、離れようとはしない。
「……イヤよ」
やっと口を開いた彼女は、目をそらすことなくきっぱりとそう言った。ボクは、少し痛んだ心を隠して「どうして」と聞いた。君は世界が壊れることを望む。だけど世界となって壊れることは嫌なのか。
彼女はいつもみたいに笑わなかった。「いつも通り」じゃないことは久々だった。
「だって、あんたがいなくなって、あたしが壊れたら、あんたがいなくなったって認めたことになるじゃない。あたしが壊れないうちは、あんたはいなくなってないって、思ってるってことよ」
だから壊れてなんてやらないの、そうやって彼女は唇を尖らせた。
ボクは笑った。これも久々だった。
彼女だって、知らないわけじゃなかったんだ。ボクらがここにいることの無意味さを。変わってはくれなかったボクらの世界の、ココロを。
(ああ、今、壊れたんだ。ボクらの「いつも通り」が)
思いっきり笑ってから、ボクは目を閉じた。もう一度視界を広げたとき彼女はそこにいるだろうか。いなかったとしたら、それはなぜだろう。彼女がいなくなってしまったのか。ボクがいなくなってしまったのか。
それとも二人で、壊れない世界を愛しながら、二度目の死を迎えたのか。
哀すべきボクらの世界 藤咲 沙久 @saku_fujisaki
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