ブレインダムド

草森ゆき

Brain Damned

 痴呆が進んでからの主人はよく昔を語るが、ある程度の美化と欠落に飾られた思い出は、冗談のように舌触りがいい。

 それでも私は、そうだったね、覚えてるよ、と毎回同じ相槌を打つ。満足そうな顔に満足して、余生の中のとある一日は緩やかな日没と共に溶けてゆく。

 夜、ねむりについた主人を見つめながら私も昔を思い返す。夏が残る秋口の人込みを掻き分けて、非日常と高揚に任せた疾走の場面は、褪せることのない映像としていつでも取り出せた。

 


 チケットを買ったのはほんの気まぐれだった。実家からそう遠くない場所で行われるロックフェスティバルのチラシを偶然見掛け、その場で注文しすぐさまチケット代を支払った。

 二日間にわけて行われるその催しに、私の知っているバンドは殆ど出ない。聴けばわかるかも、と期待していたわけでもない。あえて言うのなら私は群集に溶け込んでしまいたかった。ありふれた群れの一部になってしまいたかった。

 当日はキャップを被り、普段は欠かさないメイクをファンデーションのみに切り替え、新品のスニーカーを履いて出掛けた。雲はあったがおおむね晴れで、暑すぎない爽やかな風が吹いていた。

 開催地は傍に大振りの河川が流れている交通の便が悪い場所だ。それでも徐々に人の数は増え、体温という湿度に四方から覆われる。目的地に近付くにつれ私は段々と群れになった。首にタオルを巻き、腕にはリストバンドを嵌め、アーティストの名前が書いたTシャツを着て、ひとつの集合体のように道をすすんだ。

 会場はすでに熱気に包まれており、長く歩いたせいもありずいぶん暑かった。顎先へと滑り落ちた汗を手の甲で雑に拭いながら広大な会場をざっと見渡す。飲食のブースに大中小とそろったステージ、全国から集まってきた観客の群れ。笑顔の人が多い、場慣らしのように流れるBGMに耳を傾ける素振りの人もいる。みんながみんな、同じ目的を持って動いている。

 若い女の子達のグループを横目で見ながらふらふら歩いた。彼女たちは楽しげに音楽の話題を続けていた。今日本命が来るから来週のフェスは見送ったんだぁ、あっちもいいメンツだけどねー、でもちょっと毛色が違うから、バンド以外も多いんだっけ? そうそう、インストバンドもいるし、アイドルとか、シンガーソングライターとか、ジャンル混ざってる雰囲気あるよ。会話の一粒一粒が、喧騒の中でもはっきり聞き取れた。彼女たちはみんな嬉しそうで、楽しそうで、弾けるように笑っている。

 立ち止まってぼんやり見つめていると、擦れ違おうとした人とぶつかった。あっと思わず声が漏れるが、咄嗟の動きはできず後ろ向きに倒れそうになる。

 掴まるものを探すように伸びた私の手は、ぶつかった相手が捕まえた。

「すみません、大丈夫ですか」

 肌全体にうっすらと汗をかいた、いくつか年上に見える男の人だった。掴まれた手首にこもった力は強い。なにかのバンドのTシャツを着ていたが、英文字を読み取る前に引き戻された。

 彼は自然な動作でその場に膝をついた。跪かれたように見えて固まってしまったが、すぐに立ち上がった彼がキャップを差し出してきたので、あ、と間抜けな声が漏れた。

 お礼を言うのも忘れ、慌ててキャップを受け取った。

「……ごめんなさい、不注意でした、ありがとうございます」

 被り直したキャップを脱げないように押さえながらようやく頭を下げる。彼は気にした様子もなく、いいよ、と砕けた調子で言った。それから前に向き直り、食事のブースへと歩いていって、すぐに姿は判別できなくなった。

 私は早くなった心臓を服の上から押さえて唾を飲み込んだ。数分突っ立ったまま、彼の消えた方向を眺めていた。



 開会式が順調に行われ、会場は熱の渦巻く坩堝になった。ほどなく一組目のロックバンドがステージ上に現れて、歓声が一層大きくなる。体全体に圧がかかって身震いした。無数に折り重なった声は分厚い壁と化す。演奏が始まればその比ではない轟音が晴れを真っ直ぐ突き破った。重低音とシャウトが腹の底を混ぜ返すようにつよくつよく内側を刺す。

 曲に合わせ、観客は拳を突き上げ、或いは声を張り上げた。私はすべてに圧倒されて棒立ちしていたが、周りは構うことなく次へ、次へと向かって、まるでひとつの塊になったかのように、熱を掻き回し上昇させ続けた。

 一組目が終了した時点で相当疲れていたが、休む間もなく次のバンドがやってくる。腕を振り上げた人の肘にぶつかり、これはまずいと思いながら後ろに下がれば、円陣を組んで踊るグループができていて、後退りつつ人の少ない方向をどうにか探した。

 明らかに不慣れな挙動をしていても誰も私を見なかった。ここでは個人が約束されない、それなのに私は群れから弾き出されていた。

 一番大きなステージから逃げるように離れた。動悸がひどく、立ち尽くしていただけなのに全身汗をかいていた。のみもの、と口の中で呟き飲食物のブースを目指す。ようやく買えたスポーツドリンクは一瞬で飲み終わってしまった。

 飲食のブースにはいくつか木があった。木陰で休んでいる人も何人か見かけて少しほっとする。頭を下げながら空いたスペースに身を滑り込ませると一気に安堵が駆け巡った。ロックバンドの明朗な歌声は遠くなってもずっと聞こえている。

 ひとりで木陰に座っていると異様に寂しくなった。私はどこにいようが群れに混じれないのだろうか。膝頭を合わせて身を縮めると、伝った汗が足にぽたぽた落ちた。逡巡するが、キャップを外して汗を拭く。

 被り直したところで目の前に誰かが立った。ぱっと顔を上げるが、一瞬誰かわからなかった。シャツには、シンプルなバンド名が印字されている。抽象画のような絵が名前の周りを彩って、どこか幻想的な雰囲気だ。

 アシッドマン、アシッドマンと、脳内でぼんやりとバンド名を復唱する。その間に彼はすっと膝を折った。それでやっと、あ、と声が漏れた。私とぶつかった男の人だった。

「フェス、慣れてないんですか?」

 優しげな口調に思わず頷いた。彼はそうですか、と言ってから、蓋の開いていないペットボトルを差し出してきた。

「これ、飲んでください」

「……え、でも」

「僕はまだ持ってるので」

 彼は笑いつつ別のペットボトルを見せてくる。喉は渇いていた。知らない男の人だから警戒もしていた。けれど彼はどこか、溶かすような雰囲気と笑顔のまま、私が受け取るのを待っていた。

「目当てのバンドは?」

 受け取ったペットボトルに口をつけていると問われた。あしっどまんです、と丸っきり平仮名で発音すると、彼は目を軽く見開いたあとに、やっぱり溶かすように微笑んだ。いいシャツでしょう、言いながら胸に書かれた文字をさし、その指を流れるように差し出してきた。

 頷いて彼の手をとったころには、私はかなり溶けていた。



 彼は杉山と名乗った。バンドの演奏中、私の耳にそっと唇を寄せ、あなたは、と聞いてきた。汗ばんだ頬に手をくっつけて、穴に吹き込むように、田中です、と名乗り返した。音はずっと続いている。ベースの重低音が鼓動を打ち鳴らすように鋭く響き、その間を割ってどこか甘い歌声が観客をなでてゆく。

 田中さん、本当はどのバンドが目当てなんですか。ふっと和らぐ待機時間に杉山さんはさらに聞く。私はなにも答えられず、首を振ってたくさんの人の頭を一掃きする。ステージの上には楽器の調整をするスタッフが二人ほど立っていた。いつの間にか日が暮れてきて、それに反して舞台は輝き、新しいバンドを迎えるために辺りを明るく照らし出す。マイクテストの声が少しうるさい。薄闇が降りるたびに気温自体は下がってゆくが、会場はずっと坩堝だ。たぶんみんな群れすぎて溶け始めている。そんな絵本があったなと不意に思い出した。ねえ杉山さん、ぐるぐる回ってバターになるトラ、知っていますか。彼の黒目がこちらを見た瞬間、BGMが途切れてわっと弾けるような歓声が上がる。

 彼の目当てのバンドだった。どこか厳かな曲が流れて、みんな示し合わせたようなタイミングで手を打ち鳴らす。困っていると杉山さんに手をつかまれた。バターになったら食べられてしまいますね、拍手の隙間を完璧な間合いでくぐりながら、杉山さんは私に囁く。こうやって、ドラムに合わせて、ほら。これで、田中さんもおんなじですよ。

 私はほとんど身動きせずに、バンドの演奏を聴いていた。暖かくて優しい声だった。ぼうっとする私の手を杉山さんは確かめるように握り締める。ずっとそのまま、じわじわ夜になる会場で、じわじわ蕩けた。彼が溶かした。

 私、仕事、辞めて来ちゃったんです。どこにも行くところがなくって。でも誰かといたくて、ここに来たんです。話していると緩やかに当惑した。杉山さんは頷いて、じゃあ一緒に行きましょうか、と言った。

 よくわからないまま頷いたとき、伝った汗が耳の傍を流れた。ああ、脳が溶けたのだなと思ってから、バター味だといいなと思った。

 バンドの演奏が終わった直後、杉山さんは走り出した。手を引かれていたので私も走った。しばらく走って会場から離れ、ずいぶん暗さがにじり寄ってきたころに、遠くなった歓声と音楽が、ずっと後ろのほうでしかし確かな存在感のまま、この馬鹿みたいな事態を後押しするように鳴っていた。




 月日が経つのは早いもので、私はそのまま杉山さん、主人に連れ去られていっしょに暮らした。前の生活にひとつも心残りがなかったといえば嘘になるし、すべて捨て去ったわけでもない。暮らし始めて少し経ってから、彼と私はお互いの両親を順番にたずねて、結婚の段取りも極一般的にすすめて籍を入れた。

 けれど彼は今、私と駆け落ちをして劇的な、なんというか情熱的な、まるでロミオとジュリエットのような悲劇に見舞われつつもいっしょになった、という筋書きで私に出会ったときの話を聞かせてくれる。きみはとても不安そうで、かわいらしくて、さらってしまいたいなあと思ったんだよ。本当にさらってしまってからはずっと幸せだったんだ。

 私も、という相槌を毎回真摯な気持ちで打ってから、寝息をたてる彼の隣にそっと身を横たえる。

 彼はどんどん記憶が溶ける。私はそれをすくって味わいながら目を閉じる。

 遠くのほうの坩堝では、歓声と音楽が鳴り止まない。

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