とある男の一生

 田吾作の人生は、何でもない、ありふれたものだったろう。

 小さな村に生まれて、親の手伝いをしながら育ち、少し学のある人に読み書きを習って。そうして大人になり、幼い頃から一緒に育った笑顔の優しい娘と夫婦になって、娘をもうけた。その娘は大きくなり、夫を連れてきて、また子が生まれた。

 隣の家に住む者も、似たようなものであった。同じ時期に結婚し、同じ時期に娘が生まれ、育ち、結婚して子供が生まれて。だから家族ぐるみで行き来し、酒や言葉を交わしたものである。


 あの疫病が、流行るその日までは。


 まず、妻の体に穴が開いた。次に、娘が。そして、孫が。しかし、何故か自分はその疫病にかからることはなかった。いや、妻や娘ほど酷くならなかっただけで、自身もかかっていたのかもしれない。

 彼のような人間は一人ではなかった。だからといって病気の者を治せるわけがなく、皆滂沱の涙を流しながら虚しい看病を続けるしかなかったのである。

 そしてとうとう、隣の一家全員も病に倒れた。だが、その家を訪れる者は誰もいなかった。村の者皆家族を看るのに必死で、よその家まで手が回らなかったのだ。

 そうして悪臭を放つその家も、家族全員が死んだものかと思われたのだが……。


「おなか、すいた」


 ある日、全身から腐臭漂う液を滴らせた幼い女の子が田吾作の家の前に立っていた。そしてそれは、奇しくも彼が自分の孫娘を埋葬した直後であり。

 孫娘が死にながら自分の家を訪ねてきたのだと思った田吾作は、思わず服が汚れるのも構わずその子を抱きしめた。

 ツツジは、隣の家のたった一人の生き残りだった。




 ツツジの体には、痕が残った。それは例の疫病を連想させるもので、そうでなくても二目と見られぬような醜いものであった。

 村の人は目を背けた。彼女を視界に入れることすら拒む者もいた。

 だから田吾作は、ツツジが自身の体の業を忘れることができるほど彼女を笑わせようとしたのである。

 田吾作は、いつもおちゃらけていた。陽気な歌を歌い、踊り、よく転んだ。そのたびにツツジは、お腹を抱えて笑っていた。

 彼は、ツツジの笑顔がとても好きだった。このまま彼女を笑わせながら、時が過ぎて行くのだと思っていた。

 けれど、ある日田吾作の体に異変が起こった。段々と目が見えなくなり、物忘れが酷くなる。自分が何をしているかも分からない時さえあった。

 老いだった。自分に残された時間は、ツツジの持つ時間と比べてずっと少なかったのだ。

 だが、自分が死んだらツツジはどうなる。この村で、自分以外にツツジと関わろうとする者は皆無だというのに。

 いっそ、自分の足が動くうちにツツジと共に村の外に出るべきではないか……。

 そう思い詰めていた矢先に田吾作が出会ったのが、山の女神だったのである。


「いいか? アタシは一人でいるのに飽きてしまったんだ。取って食ったりはしないから、とびきりのブ男を婿としてアタシによこしなさい」

「取って食ったりは、しない……」

「ああ、そうだ」


 初めて目にした山の女神は、美しかった。しかしその美しさの中に、母なる温もりの色が宿っているのを田吾作は見て取った。


「……神様の所に行った者は、幸せになれるんですかい?」

「うん? ……まあ、そうだな。このアタシと夫婦になるわけだからな。不幸せになることはないだろう」

「……分かりました」


 田吾作は、うまく働かなくなりつつある頭で、必死に考えていた。

 ――自分とツツジの足では、山を越えて他の村に行くことは難しいだろう。そうでなくてもよそ者なのだ。娘一人が受け入れられる場所があるとは思えない。

 それよりは、神の元で小間使いとして働かせてもらえるのなら、それが一番なのではないだろうか。

 田吾作の思いつきは、卑怯なものだったかもしれない。頭を下げた田吾作は、神を騙す己の罪深さを覚悟していた。


「ツツジ、お前は山の神様の嫁になるんだよ」


 そして家に帰り、可愛い可愛いツツジに向かって田吾作は言ったのである。


「お前は気立てが良く、村で一番可愛い子だ。間違いなく神様も気に入ってくださるよ」

「可愛いだなんて、そんな」

「照れるんじゃない。だがいいか? 神様の嫁とはいえ、傲るんじゃないぞ? お嫁さんとして、いついかなる時もにこにこと笑い、楽しく生きるんだ」

「はい! 田吾作さんといた時と大体同じですね!」

「そうだ!」


 ――ああ、いい子だ。

 本当に、本当にいい子なんだ。

 村の人みんなそれを知ってる。けれど、どうしてもここでは受け入れられない。恐ろしい疫病が、未だ心を蝕んでいるからだ。

 村の身勝手を許せとは言わない。認めてほしいとも思わない。

 けれど勝手な事に、皆お前が幸せになることを願っているのだ。

 笑っていてほしいのだ。


「それでは達者でな、ツツジ」

「はい、田吾作さんも!」


 ……できることなら、二度と一人にはなりたくなかったものだが。

 それでも、繋いだ手はいつか離すのが親の役目だろう。


 どうか、これからお前の生きる場所が、幸せで温かなものであるように。


 最後に一つ転び、それを見たツツジが笑ったのを目にして。田吾作は、大きく手を振ったのだった。

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山の女神は不本意ながら村の少女を嫁にする 長埜 恵(ながのけい) @ohagida

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