最終話
数多の言葉を交わし、幾多の年月を重ね。
やがて足と目を悪くしたツツジは山を飛び回ることができなくなり、小さな小屋で療養することが多くなった。
「ツツジ」
「あら、神様」
そしてその傍らには、カラスの羽を持つ美しい神がいつも寄り添っていた。
「今日の具合はどうだ?」
「ええ、不思議と気分がいいのです。神様は……」
「……今は二人きりだ。名を呼んで欲しい」
白魚のような指が、皺だらけの手に重ねられる。柔らかな神の望みに、ツツジは微笑んで頷いた。
「――」
水気の無い唇から紡ぎ出された音に、神はくすぐったそうに声を立てて笑った。
「良いものだ。何度呼ばれても嬉しいものだ、名前というものは」
「それは心を込めて呼んでおりますからね」
「そうだな。君だから特別なのだ」
ふと吹き込んできた暖かな風に、神は顔を上げる。春の風は、芳しい花の香りを運んできた。
それに混じり、子供達の笑い声も。
「……しかし、増えましたね、人」
「ああ。まさかあの後、じゃんじゃん赤子や子供がここに捨てられることになろうとはな……」
「お陰ですっかり一人前の村になってしまいましたよ。村に捨てられた私が村を作るなんて、人生何が起きるか分かりませんね」
「そんなことを言うんじゃない。面白すぎるから」
そうなのである。
最初の子供であるサクラを育てていた最中。どこで噂を聞きつけたのやら、戦や病で故郷や親を失くした子供や食いあぶれて行くあての無い子供、よく分からないがとにかく川から流れてきた子供など次から次へとこの山にやってきたのだ。
流石にこうなればもう神と人間一人では賄いきれず、あちこちの村に神託を出したり協力を願ったりして乗り越えなければならなくなった。その見返りに豊穣を与えまくったものだから、当時の女神ときたら力を使い果たし、固く絞ったボロ雑巾のようになっていたものである。
そして子供が育って大人になってみれば、いつの間にやら子を作り、家族が増え。あれよあれよという間に、一つの村ができあがっていたというわけだ。
「まあ……賑やかなのはいいことか」
「ええ、本当に」
今では、ひ孫の年齢の子までいる。ツツジは、ほとんど光を宿さなくなった自分の目を細めた。
「これなら、私がいなくなってもあなたが退屈することは無いでしょうしね」
神は辛そうに唇を引き結ぶ。けれどそれを、ツツジが視界に入れられるはずもなく。
「……そうだな」
そのことをよく知る神は、いつもと変わらない態度であるよう心がけて返した。
どちらとも喋らない静かな時が流れる。重ねた手の温もりと、遠くから聞こえる子供達の足音。
「……あの」
「ん? なんだ」
その中で、ツツジはしわがれた声で言った。
「あなたに、一つ身に余るお願いをしても構いませんか?」
「ああ、突然どうした。言うだけ言ってみろ」
「……私が死んだ時の話なのですが」
神の手が無意識にぴくりと動く。けれどツツジは、優しく続けた。
「私のこの命が尽きた時……どうか、あなたの祠の下に、私を埋めて欲しいのです」
「……」
「人の身で、あなたの祠の下で眠るなんて無礼にもほどがあると思いますが。でも私、あなたのお嫁さんですし。なんとかその資格はあるのではないかと思うのです」
「え、えええ」
「さっきは私が死んでもこれほど賑やかならあなたは退屈しなくて済む、なんて言いましたけどね?」
「うむ」
「あれは強がりです」
「強がり」
「はい。私はやっぱり、あなたの側にいたい。あなたの唯一でありたいし、あなたに忘れられたくなんてないのです」
困ったように眉尻を下げる神に、ツツジはぎゅっと手を握って熱弁する。
「だからこそ、私が死んだ後が気がかりなのです。最初は畑に埋めて貰うことも考えましたが、あなたは食事をしませんからね。それに子供達も気まずいでしょうし」
「うん、それはやめたほうがいい」
「でも祠なら、あなたはそこを訪れるたびに私を思い出してくれるでしょう? 加えてそこに花でも咲けば、尚良しです」
「……そうだ、な」
「あ、でも、そんなに寂しがらなくっても大丈夫ですからね? 私、すぐに生まれ変わってきますから」
ツツジの握る手が弱くなる。代わりに神の両手が、彼女の手を包んだ。
「……そうですね。次に生まれる時は、とびっきりのブ男になりたいです」
「……」
「そうして、ちゃんとあなたのお婿さんにしてもらうんです。だから待っててくださいよ? 他の人をお婿さんにしては嫌ですから」
「それは……いや待て待て待て。願いの数は一つだったはずだろ。だいぶ増えてないか?」
「人とは欲が深いものです。あと……」
「あと?」
「私はあなたのお嫁さんなので、多少のわがままは聞いてもらえるかと」
「一生かけて粘りおったな、嫁の件」
「諦めは悪いほうなので」
顔を見合わせて笑い合う。いつものやり取りと、いつもの会話。それでも此度は、一つだけ違った。
神の手が、ツツジの乾いた頬に添えられる。それはそれは優しい声で、神は言った。
「ブ男になど、ならんでいい」
女神の目は、まるで宝物を見るかのような慈愛に満ちていた。
「ツツジはツツジだ。だから、またツツジとして生まれて……アタシに会いにおいで」
「……ふふ」
この言葉に、今度はツツジがくすぐったそうに身をよじる番だった。
「……ありがとうございます。なんででしょうか、もう嬉しくて嬉しくて。今にも泣いてしまいそうなんです」
「歳を取ったからな。色々と体の自由がきかんのだろう」
「まぁ酷い」
「……早く元気になれよ。共に走れなくても、アタシがおぶって野山を駆けてやる。ああそうだ、今年も君の名と同じ花が咲いたんだ。少し遠出することになるが、花が終わる頃までに体を治せば全然……」
「――」
「……ん? 今アタシの名を呼んだか?」
女神はツツジの顔を覗き込んだ。目尻に溜まった涙と、微笑んだ口元。皺だらけなのに、いつだって少女の頃のままの輝きをたたえていた愛しい顔。
「ツツジ」
五月の風が吹き抜ける。
神の声に彼女が答えることは、二度と無かった。
ツツジの願い通り、彼女の体は女神の祠の下に埋葬された。
ついでに、彼女と同じ名の花もずらりと植えられた。神は止めたが、サクラを始めとする子供たちや孫たちが止まらなかった。「母の上に生えたツツジなら、どんな嵐に遭おうともしぶとくしつこく元気だと思う」。サクラは身も蓋もなくそう言った。
それから女神は、とりあえず村を見守って五十年は生きてみた。サクラが死に、サクラの子も死に、孫がいい歳になった頃。彼女はぽつりと、「待ちくたびれた」と呟いた。
そうしてぱったりと、山の女神は姿を消したのである。とある子供の話によると、彼女は自分の祠にもたれて静かに目を閉じていたらしい。
それはまるで、満開のツツジに看取られるかのようで。
落ちた一輪の真っ白なツツジだけが、女神の傍らに寄り添っていたという。
「山の女神は不本意ながら村の少女を嫁にする」完
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