第50話

 気が付くと、その局面は現れていた。

 朝から、異様に落ち着いていた。それは心の平穏というよりも、状況に対する安心感がもたらしたものかもしれない。最近は、女流が男性棋士に勝つこともそれほど珍しいことではなくなった。そして今日は、チャンスだった。これまでの相手と違い、それほど勢いのない中堅の先生。過去に女流に負けた経験もあり、何がなんでも、という気合は感じられない。

 実力以上のものは出せない。ただ、僕の実力は上がっている。そして、この形は川崎と研究した。どのような変化になっても、自信がある。

 研究合戦を嫌う先輩たちがいるのも知っている。しかし今なら言える。それは、最低限の努力なのだ。僕のような人間でも到達できるところに、来ようとしない人たちが悪いのだ。

 冷たい時間が過ぎていく。どれだけ考えても、自分が悪いということに気が付いたのだろう。ここまでで考えるべきだったのだ。だが、ここまでにじっくり考えられるベテランは、一回戦で女流と当たったりはしない。

 固まっていた腕が、ゆっくりと盤上に伸びた。銀をかわす手。少しひねった受け方だったが、それも研究済みだ。僕が思いつき、川崎が深く検討してくれた。二分、待った。研究だけに頼ってはいけない。いつ研究から外れても、そのことが悟られないようにしなければならない。思いついた手を考慮したふりをして、僕は次の手を指した。

 そこからは、お互いに長考はなかった。もう、考えて挽回できる局面ではなくなったのだ。「娘っ子が終盤で慌てる」のを待つことにしたのだろう。だが、僕はそこを乗り越えられる、と思った。

 時間もたっぷりとあったし、何より自信があった。想定していた局面からは、終盤のパターンも予測できた。

 午後五時十三分。「負けました」の声。

 驚くほど、いつもの対局と変わり映えのない感触だった。相手よりも強いから、勝てた。男性プロに初めて勝ったという感慨は、全く湧いてこなかった。ただ、これで次はもっと強い人と対局できるという喜びは感じていた。

 感想戦を終え控室に行くと、いくつかの祝福の言葉をもらった。どこかむずがゆかった。

 終わってみれば、ただ一つ、予選一回戦が終わったにすぎない。僕にとっては意義のある初勝利だが、みんなにとってはそれほど意味のない対局だ。

 メールを打った。電話をかけようかとも思ったが、そろそろ前夜祭の時間だ。


「勝った」


 返事を待つようなことでもない。できる限り簡潔なものを送った。

 川崎は今、二度目のタイトル戦を迎えている。これだけの短い期間でタイトルに絡めば、その強さは本物、一流の仲間入りだ。けれども、タイトルを獲らなければ、一番ではない。川崎は、一番を狙える逸材だ。

 まだまだ遠い。それでも、届かない位置にいるとは思わなかった。川崎のことを知るにつけて、彼も大した人間じゃないな、と思うようになった。普通の人間が努力してあそこまで行けるのなら、希望もあるというものだ。

 とにかく、正会員であるプロに勝つという一つ目の関門は突破した。奨励会にも入れなかった僕が、だ。そう思うと痛快な気分になってきた。


「だろうね」


 僕よりも、一文字だけ長い文章。そっけないが、わざわざ返信してくれたのは嬉しい。

 頑張ってとか、勝てよとか、送ろうと思ったけどやめた。そんなことは、昨日のうちに言ってあるからだ。

 まだまだ続く対局。十秒将棋をする奨励会員。観戦記用のメモを取る記者。将棋界は、色々なものを原動力に動いている。僕も、その中にいる。今はただ、それを頼みにして、そのことを受け入れてやっていくしかない。

 お腹がすいた。今夜は何となく検討陣に加わりたかったし、どこかに食事に行こうと思い会館を出た。少し歩いたところで、「ああ」と声をかけられた。向こうから、スーツ姿の中沢九段がやってくる。

「おめでとう」

「ありがとうございます」

 それは、今まで見たことのないような笑顔だった。心から喜んでくれているのが分かって、照れた。

「いつか、編入試験を受けるといい。その実力が、あると思う」

 僕の言葉を待たずに、中沢九段は歩き出した。僕は振り向き、その背中を眺めた。多少猫背ではあったが、とても大きかった。

 男性プロ相手に一般棋戦で規定の成績を収めれば、アマも女流もプロ編入試験を受けることができる。まだ女流が挑んだことはない。そして、若手で最も正会員に近いのは自分だという自覚はある。

 それでも。今は、急いでそこに到達したいとは思わなかった。結局のところ僕は、女性なのだ。その事実だけは、受け入れなければならないと思うようになった。僕が活躍する姿を見て、将棋を頑張る女の子もいる。それならばもう少し、せめて女流の中で圧倒的な存在になるまでは、このままで頑張っていきたい。

 どこから聞きつけたのか、何件かのおめでとうメールが届いた。僕は足を止めて、全てを読んで、そして、泣いた。今僕は、世界とつながっている。

 思い直して、川崎宛にメールを送った。


「お前も絶対勝てよ!」


 僕らはまだ、戦い始めたばかりだ。頂は、もっともっと先にある。

 どこに食べに行こうか。体が行く先に、心を任せた。


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