第49話
手続きのような対局がある。
序盤から、必ずどこかおかしい。挽回するための直接的な悪手。見苦しい、可能性のない迫り方をする終盤。どうしても負けようがないのだ。考えるのではなく、対応するといった感じの対局。何度でも同じ負け方を繰り返し、棋譜に全く価値が生じない対局。
と、こんな余計なことを考えていても、結局は二手差で勝ってしまうのだ。
味気のない感想戦。定跡を知らなかったのだから、こうした方がよかったもくそもない。何も生まれないのだ。
まだ、外は明るい。約束の時間までは随分とある。
他の対局も続いていたが、控室にも寄らずに会館を出た。仕事をしたという実感がない。こうしている間にも、もっと強い相手と対局している人がいる。今日は、そういうことを忘れていたい。
家に帰り着くと、ちょうど樹が出かけるところだった。今回もかれこれ三日連続でうちにいる。
「あ、早かったね」
「うん」
「じゃ、合コン行ってくるから」
「そう、行ってらっしゃい」
親や彼女と折り合いが悪くなると、当然のように僕のところに来る樹。それでも一度出かけると、そのまま戻ってはこないことが多い。
部屋の中は綺麗なままだ。そしてキッチンには、出かけるときにはなかった食材が置かれていた。大根やトマトといった野菜から、こしょうやコンソメといった調味料、そして見たことのない綺麗な瓶に入ったお酒。どう考えても、樹が用意してくれたものだった。
弟に、何度救われるのだろう。
自分で用意していたものも加えて、今まで見たこともないほどの食材が並べられた。なんかすごく気合が入っているみたいに見えたので、恥ずかしくなって半分ぐらい片付けた。
六時過ぎ。チャイムが鳴った。
「はい」
扉を開けると、パンパンに膨れ上がったエコバッグを抱えた川崎がいた。
「ちょっと、その量……」
「木田のところさ、何にもなかったじゃん。この機会にと思って」
思わず吹き出してしまった。川崎はきょとんとしている。
「ありがとう。入って」
いつもと、何かが違うと思った。それが何なのかしばらくわからなかったが、川崎の腕にキラキラとしたものが見えてわかった。今日の川崎は、いつもよりおしゃれをしてきている。髪も少し立てられているし、上着と中のシャツも色をそろえているようだ。かつて僕がそうしたように、ちょっと無理をしたおしゃれ。
「あれ……違うね」
川崎は部屋の中を見回している。以前の殺風景な様子からの変わりように驚いているようだった。
「普通の生活にあこがれ始めたの」
「そりゃ、棋士にとっちゃ無謀な試みだね」
川崎は腕まくりをして、野菜を洗い始めた。ざるやボウルを用意するのを見るだけで、僕とは大違いだ、と思ってしまう。
「何作るの」
「パスタにしようかと。木田が真似できなきゃ意味ないしね」
そう、今日の目的はおいしいご飯を作ってもらうことではないのだ。
「まずは、お湯を沸かして」
川崎の指示に従って、鍋を火にかけたり、野菜を切ったり、ソースを作ったり。川崎の言葉は威圧的ではないが、甘やかすわけでもない。いい指導者にもなれるんだろうな、と思った。
「なんで塩入れるの。味付け?」
「沸騰する温度が上がるから……だったと思う」
「へー」
勝手に川崎は一日中研究しているものだと思っていたが、話していると全然そんなことはないのだと分かってくる。料理もすれば、読書もする。野球観戦や、釣りや、サイクリング。将棋だけが人生ではないのだ。
「気付いたら、将棋が一番大事だった。そんなところかなあ」
幼い日の、初めて出会った時の川崎の姿を思い浮かべた。あの時の僕には、ただひたすら強くて、将棋の神様のように見えていたのだ。しかしプロの世界に関わるようになって、もっともっとすごい人がいっぱいいることを知った。強い人ほど将棋に熱心だとは限らないが、本当に将棋だけに情熱を注ぎ続けている人は実在するのだ。
川崎は、普通の男性としても生きている。それは、僕にとってはまさに羨ましいことだ。
「木田はどうなの」
「え」
「木田にとって、将棋ってなに」
言葉に詰まった。多分、本当のことなら言葉にできる。けれどもそれは、もっと深い部分へと続く導火線に火を点けることになってしまうかもしれない。その決断には、躊躇せざるを得ない。
「私は……頼ってる」
「将棋に?」
「うん」
ピィー、とやかんが音を立てた。川崎は、紅茶を用意している。
「木田は、なんか、そういうのはなさそうに見えるけど」
「そう?」
「何となく……だけど、将棋そのものと戦ってるように見える」
料理をテーブルに運んだ。パスタにスープ、そして紅茶。自分の家ではないみたいだ。
「ありがとう。なんか、新鮮」
「これだけで? もうちょっと頑張ろうぜ」
川崎と向かい合って座る。初めてのことではないが、これまでとは全然違う感じだった。これまではまだ、川崎のことは将棋を通してしか見ていなかった。けれども今目の前にいるのは、僕の我がままにつきあってくれて、僕を励ましてくれて、僕に優しくしてくれる一人の男性だ。
「木田って、本当に料理しないんだな」
「うん。全くだよ」
「ちょっとは謙遜してるのかと思ってた」
「しないよ。私、だらしない……女だから」
パスタはおいしかった。それは、ほとんど川崎が作ったようなものだ。
遠い昔の声が聞こえる。女の子だから、料理ぐらいできなくちゃね。桜ちゃん。
元々は、そんなでもなかったのだ。けれどもいつからか、「女らしいならば」したくないと、そう思うようになったのだ。とりあえず今日のところは、料理をしているとき楽しかった。
「ずっと不思議だったよ。初めて対局したとき……小学生のとき。こんな子が将棋指すんだ、って思って。しかも決勝で当たってさ。お互いプロになって……不思議な感じする」
「川崎に負けてなかったら、プロ目指さなかったかもしれない」
川崎がフォークを止めた。僕のことを、じっと見ている。
「俺?」
「……だけとも言えないけどね。原因の一つ。大きな原因」
「そっか。なんか、くすぐったいな」
言葉が、心から直接紡ぎだされていた。言うなら今しかない。何故そう思うのか。苦しかったからだ。僕の中で隠匿されていたものは、ずっと外の世界を待ちわびていた。それを受け止めてくれるとしたら、川崎しかいないのだ。
「あの、さ」
「なに」
「私……この世界なら、この世界で強くなったら、楽になれるんじゃないかと思ってた」
「楽に?」
「私……僕、将棋でなら、一人の人間として生きていけるかもと思ったんだ」
「……木田?」
膝が震える音が聞こえてくる。全身が震えているのかもしれない。少し、後悔している。まだ、楽しい食事は続けられたはずなのだ。
「ずっと、嫌だった。女として見られことが。女として期待されることが。……僕の心は、男だったから」
川崎の目が、細められた。それは、まん丸くなるのを抑えようとしたせいだろう。
心拍数が上がっている。人生で初めての、告白。
「ずっと、なのか」
「ずっと。生まれたときから」
抑えきれずに、目が丸くなっていた。
「だと思いこんでた」
「え」
ここからは、師匠にも樹にも話していないことだ。川崎によって気付かされたから、まず彼に打ち明けなければならない。
「信じたくないけど、そう思いこもうとしてたのかもしれないって……。嫌いな自分を押し込めるために、自分は男だってことにこだわり続けた。でも、女としての自分も……確実に、居る……」
すうっと、体から、そして心から何かが抜けていくのが分かった。重くへばりついていたものが、言葉にすることで少し軽くなっていくようだった。
「それを……そういうことを抱えながら、木田は生きてきたのか……」
「うん」
川崎の右手が、僕の頬を撫でた。拭き取られてから、涙を流していたのだと知った。
「苦しかっただろ」
「うん」
「将棋で……何か見つかったのか」
「見つかったこともあるし……なくしたものもあると思う」
川崎は近寄ってきて、僕のことを抱きしめた。落ち着くかと思ったけれど、顔が見えなくて不安が襲ってきた。
「……ごめん。でも、誰かがこうしてあげられたら、って思ったんだ。俺が女だったらよかったのかな……」
「そんなことないよ……。だって……」
肩を掴んで、体を引き離した。すぐ目の前に、川崎の顔。
「友情だとしても、好きだと思ったんだ」
それが、この感情に適切な言葉なのかどうかは、まだ確信は持てない。けれども友達すらいない僕にとって、とても大事な想い、それは確かにあるのだ。けれども、それで勘違いさせたままだとしたら、とてもつらい。
「自分から逃げるために、僕は僕を追い込んでた……。川崎に勝ちたい、いつか追いつきたい、そうすれば男でも女でもなく、自分として認められるって思いこんでたけど……勘違いだったと思う。『男らしい自分』を作り上げて、女の自分に責任を全て押し付けてた……」
「木田……」
「……もし僕が女じゃなかったら、こんなに優しくしてくれないんじゃないかとか、今でもそんなこと考えてるよ。どうしていいのか、よくわからない」
「それは、今から考えさせてほしいな。俺は木田の男の部分、今知ったんだから」
川崎は、目をそらさなかった。僕の心をじっと見つめていた。決して、冷静というわけではないだろう。それでも、精一杯の優しさで、僕の前に居続けてくれる。
「僕もまだ、わからないんだ」
「じゃあ、俺が見つけるよ」
流れると思って、涙を流した。止めるだけの努力は、無駄だと感じた。男だって、泣くだろう。女として泣いてたっていい。我慢する必要はない。
「……ありが……とう……」
初めて、男でも女でもなく、自分自身を見つけた気がした。弱い。本当に弱い。それを押し込めて、将棋で強くなろうとした自分。人と関わるのが怖かった自分。寄り添いたい自分。
時が、闇を深くしていった。
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