第48話
今までそれは、記号のようなものだと思っていた。「木田桜」は棋士を続けるための名前で、そこに特別な意味があるとは思わなかった。
しかし、仕事でサインをたくさん書いているうちに、違和感を覚え始めた。自分の本名ではない、その名前。この名前を選んだときは、意地を張っていた。けれども先日父の姿を見て、後悔した。僕は父に対しての想いはほとんど持っていない。母に対する怒りや恨みが、木田と名乗り続けることを選ばせたのだ。
「樹」
「うん?」
相変わらず食事をたかりに来ている樹に、声をかけた。雑誌を読んだままで、返事をよこす。
「今の名字、気にいってる?」
「名字? 気にしたことないなあ。気になるんなら、芸名でも考えたら」
「そう……」
偽りの姓、偽りの性。いや、何が本当かなんてのもわからない。
「なんか最近、悩み過ぎなんじゃない? 将棋頑張ってれば、吹っ切れるのかと思ってたけど」
「うん……そう思ってた。違ったみたい」
「悩み事増やしていってどうすんだよ。気付いたら孤独なばあさんになってるぜ。……なんか、そこら辺は打開できんのかと思ってたのに」
「打開?」
「……ああ、そうだ。料理しろよ、料理。時間があるのに、こんなきれいなキッチンもったいないだろ。まさか女らしいからやらないとか言わないだろ」
「急になんだよ。料理なんかして何か変わると思ってるわけ?」
「やってもみないで何も変わらないと思ってるわけ? ちょうどいいから、教えてもらえよ」
「え……」
そう言うなり、樹は黙り込んで雑誌の方に集中してしまった。
「教えてもらう……」
その意味を考えて、少し戸惑った。僕にはそもそも、何かを習えるほどの親しい人は少ない。絵ならば樹に習えるだろうが、彼は料理が得意なわけではない。
となれば……
樹は、どこまで考えているのだろうか。疑問に思っても、僕にとって彼は、世界で最も信頼できる人間なのだ。
「頼んでみようかな」
僕は、携帯を手に取った。
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