第47話
外野三段が完膚なきまでに負ける姿を確認して、少し嬉しくなった。意地が悪いのかもしれない。しかし、峰塚三冠に諮ってほしいのだ。たまたま衰えてきたときに僕がタイトルを獲ったと思われるのは、嫌だ。
ブラウザのタブを閉じて、しばらくボーっとした。このままずっと、こんな感じなのか、などと考える。全てが中途半端で、心地よかったり、苦しかったり。
タイトルを獲って、僕は次の目標を見つけなければならないのだ。出来るだけ、実現可能なものを。残りのタイトルを全て獲るとか、男性棋士から一勝を上げるとか。きっと、頑張れば何とかなる範囲のこと。けれどもその次はどうすれば、と思ってしまう。川崎は、本気ではないだろうが、二人でタイトル戦を、と言ってくれた。定家さんも、まだ先に進めると言ってくれた。私は一人で戦っているのではなく、将棋界の中で期待されてもいるのだ。
けれど。僕が目指していたのは、そんなことだっただろうか。沖縄に行ったとき感じた、一瞬透明になる感覚。あれは、僕自身が偽り続けてきた想いを、剥ぎ取られた瞬間だったように思える。
子供の時の方が純粋なのは、痛みを受け入れられるからだ。負けても負けても這い上がろうとする時の痛みを、耐えられるからだ。けれども大人になって、多くのことに気付いてしまう。痛みに耐えられず、まどろみを選んでしまう。
ビバーク。立ち止まり過ぎると、そこから抜け出せなくなってしまう。誰かが負けるのを見て喜んでいても、僕だけのこの問題は解決なんてしない。
化粧台の前に座り、じっと自分の顔を見つめた。何年も、共に過ごしてきた。女性であることの全てが嫌だから、どこがどうだったらとか、思ったことがなかった。もう少し顎が細かったらとか、もう少し瞳が大きかったらとか、もう少し眉毛が細かったらとか。むしろ整った部分さえ傷つけるように、僕は汚い女を塗りつけようとしていたかもしれない。けれども、今冷静になって向き合ってると、それは何と言うあさはかなことだったろう、と思うのだ。僕は向き合いたくなかっただけだ。男とか女とかではなく、その顔を他人と思いたかっただけだ。
「初めて出会った」
無意識に呟いていた。口は笑っているが、両目から涙が流れていた。鏡の中のその表情に驚いて、僕は自分の顔を撫でた。鏡の中の顔も、細くて白い手に触れられていた。
将棋を強くなりたい自分と、男になりたい自分。それを重ね合わせたり、混ぜ合わせたり。けれども結局、将棋では中途半端だし、男にもなれない。だから、女である自分と、女流棋士である自分の中でまどろみ続けている。
この苦しみは、今の自分が居場所を得てしまっている苦しみだ。このどっちつかずの状況でも、僕は何とか生きていける。もがいてもがいてたどり着いた場所なのに、それとは関係のないところで、僕の心を支えているものがある。
この感情には、名前を付けることができないだろう。名前を付けてはいけないのだ。
上着のボタンを外した。
綺麗だった。僕の体は、綺麗だった。
それは、誰のものだろう。僕はずっと、いらないと思っていた。けれどもこれがなければ、僕は将棋を続けられなかったのだ。
隠れ蓑にしながら、嫌っていた。
灯りを消した。僕だけでなく、世界から目を逸らしたかった。
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