第46話

「これはいかん……」

 普段ふざけてばかりの先生が、モニターを見て呟いた。僕らも言葉を失った。こんなことが……

 挑戦者リーグ戦最終戦。この対局に勝てば、川崎は紅組一位で挑戦者決定戦に進出という大事な一局だった。

 序盤から積極的な動きを見せた川崎は、見事な指し回しで優位を拡大していった。あとは仕上げるだけ、誰もがそう思いあまり検討していなかった。

 しかし、突然局面は乱れ出した。飛車取りを放置して寄せに行ったが、なかなか詰めろがかからない。取られた飛車が攻防に利く位置に打ちおろされ、川崎の方が受けに回る展開になってしまった。しかし相手も時間に追われ、自陣に手を戻したりと流れが落ち着かない。時間は零時を回り、泥仕合の様相を呈してきた。

「こりゃ、わけがわかんないな」

「川崎君、焦ってるね」

 もう、最善手がどうこう言う人間はいない。こうなると、大悪手を指さない方が勝つのだ。

 終電の時間は過ぎている。控室に残った人間は対局と心中する覚悟だ。

 画面の中で、川崎の手が震えていた。指し手もなかなか伸びてこない。何を恐れているのかと思ったが、だんだんと僕にもわかってきた。

 川崎は、頂点へと伸ばした手を、完膚なきまで叩き落とされた。タイトルに一度だけ挑めた者になるのか、常連になるのか。その差は果てしなく大きい。今川崎は、多くの若手が蹴落とされてきた関門へと挑んでいるのだ。一度表舞台に立った以上、善戦では意味がない。

 端の方でごちゃごちゃした戦いが続く。とりあえずどんな駒でもいいから打ち合っている感じだ。一分将棋に突入し、継ぎ盤の検討も追いつかなくなってきた。いつの間にか皆正座してモニターを見つめていた。

 次第に、川崎に勝ちがないことが分かってきた。手持ちが桂二枚、玉頭の戦いには向かない駒だ。両取りの筋も見つからない。

 一時過ぎ、ついに川崎の玉に受けがなくなった。

 川崎は負けた。順位の差でリーグ二位。挑戦者決定戦には出られない。

 二時前。感想戦が終わった。

 勝者も敗者も疲労困憊といった様子だったが、川崎は意識的に笑おうとしていた。それが、余計に悲壮感を感じさせた。

「木田……こんな時間までいたのか」

「川崎のせいだよ」

 将棋会館を出て、二人並んで歩いた。電車はもう、とっくにない。

「あれ勝てなきゃ、しょうがないよなあ」

「川崎」

「ん?」

「お腹すいてない?」

「ああ、そういえば」

「おごるよ。この前のお礼」

「あ……ああ」

 僕は、川崎を連れて夜もやっているファーストフード店に入った。若者やサラリーマンなど、深夜だが案外お客さんがいる。

「好きなの頼んで」

「一年ぶりぐらいに来たよ」

 二人ともセットを買い、二階へと上がった。奥の二人がけのテーブルに、向かい合って座る。

「なんか変な感じだね。飲みに誘われることはあるけど」

「二人とも、あんまりお酒飲むのは上手じゃないみたいだし」

「俺は……まあ、そうかな」

 それからしばらく、二人は黙々とバーガーやポテトを食べた。将棋を指していた人はもちろん、見ていた方も案外エネルギーは使っているのだ。

「悔しかったよ」

 川崎は、コーラを口に含んだ後、そんな言葉を吐きだした。

「さっきの?」

「いや、木田との将棋」

「え、あれが?」

「途中までこっちが良かったと思うんだ。時間もあったし、勝ちたかった」

 僕は、思わず吹き出してしまった。あんな大事な勝負に負けた後に、この人は何を言っているのだろう。

「いつでもリベンジの機会は受け付けているんだよ、君」

「……今はやめとく」

「ほほう、私を恐れてるわけね」

「……木田」

「何」

「……やっぱ、今はやめとく」

 僕も、アイスコーヒーを口に含んだ。

 こういう時間を、今まで過ごしたことがなかった。そして、川崎とこんな時間を過ごせるようになるなんて、想像したことがなかった。

「私ね、ずっと悔しかった」

「何が」

「奨励会」

「……そうだね」

「でも、今から思うとやっぱり力が足りなかった。そんな私にもチャンスがあったのは幸せだったのかも、って思う」

「うん、木田は強くなってるよ。きっと、まだまだ勝っていく」

「いつか、挑戦するから」

「ああ」

 あの日から変わらない想いを、純粋に持ち続けていく自信を持てそうだった。どれだけ川崎が高く昇って行こうと、僕も同じ頂を目指していけばいい。そして川崎も、どこかで腰かけ休んでいる。いつか追いついたら、二人で登っていく事もできるだろう。

「……楽しそうだな、それ」

「え」

「俺と木田のタイトル戦とか。まあ、木田の方がタイトル戦は慣れてるのか」

「もっと慣れるよ。女流は、全部獲る」

「いい顔だな。うん、俺も全部獲ろうかな」

 二人で、大きな欠伸をした。とても幸せな、ビバークだった。

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