第45話
師匠が入院した。
最近は体調を崩すことが多く、しばらく様子を見るための入院だ、と奥さんは説明してくれた。本当かどうかは分からない。
病室のベッドに寝る師匠の姿は、本当に普通の老人だった。勝負師は勝負をやめると、一般人に戻れるのだろうか。
「なんかいるものありますか」
「酒もたばこも止められとるからなー」
「人生の前半で飲み過ぎたんですよ」
「ははは。後半の分も取っとくんやったね」
声は少し細くなっているが、それほど弱っているわけではなかった。
「お久しぶりです」
利き覚えのある声だった。振り返ると、そこには小ぶりなスイカを持った中沢九段がいた。
「おお、中沢君」
「思っていたよりお元気そうですね」
「なんだ、死にそうだとでも思ったのか」
この二人は、いつも平坦に語り合う。長い長い戦友なのだ。
「木田さんも大活躍ですしね。師匠としては嬉しいでしょう」
「ははは。この子はもっとできるよ」
「そうですね」
十分ほどして、中沢九段は「では、そろそろ」と言って部屋を出た。僕も「じゃあ私も」と言って、そのあとに続いた。
「そういえばこの間」
少し後ろを歩く僕に、中沢九段は振り向いた。
「はい」
「結婚のことを聞いたけれど、君はどうなんだい」
「私ですか。私は相手がいないから」
「そうなんだ。でも、言い寄ってくる男はいるだろう」
「いないですよ。ネクラなんです、私」
「そんなことはないだろう」
「好きな人はいましたけど」
何故そんなことを言ったのか分からない。いや、原因は分かっているのだが。
「ほほう」
「その人、結婚しちゃいました。しかも、他にも相手がいたみたいで」
「ふうん。それは大した男だ。しかし君も浮気性な人が好きなのかもしれないね」
そりゃあ、同じ人が相手なんだもの、とは言わなかった。中沢九段と自分の似通っているところを感じて、少しむなしくなっていた。
「でもいいんです。恋して将棋が強くなるわけじゃないですから」
「なるほど。そういう考え方もあるか」
それきり、中沢九段は黙り込んでしまった。恋について、真剣に悩んでいるのかもしれない。
病院を出て、中沢九段はタクシーに乗った。僕は、地下鉄だ。
去り際、彼はこう言った。
「でもね……恋はしたいよ」
ニヒルなような、恰好悪いような。走り去るタクシーを見ながら、自分には母性本能がないことを確認した。
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