第44話

 昼食を食べ終わった後、鏡を見つめていた。

 特に華がある顔ではない。勝負師のにおいはしない。

 対局をなめ過ぎていた。これまで簡単に勝てる将棋を、簡単に勝ちすぎた。内容はまだ互角だが、完全に僕は呑まれていた。

 鏡の中に、背広が映った。振り返ると、定家五冠がいた。

「木田君。その顔では勝てないね」

「え……」

「君の頂は、終わってしまったのかな。到達者の顔をしているよ。私もまだ到達していないのに」

「……」

「君の将棋には、粗削りだが先に進もうという姿勢が感じられる。でも、今日の将棋はどうだろう。下界を眺めてまどろんでいるようだ」

「……」

「つまらない将棋に価値はない。それは男も女も、棋力も関係ない。プロならば、自分の枠にとらわれないことをお勧めするよ」

 それだけ言うと、定家五冠は控室を出て行った。

 奥歯が痛いわけが分かった。唇は緩んでいるのに、奥歯は噛み締めていたのだ。いつもとは全く違う意味で、心と体が一致していなかった。そして、超一流は下っ端のそんな状態など一目で見抜いてしまえるということを知った。

 それでも、心の奥歯は噛み締められなかった。



 覚悟をした。この将棋は、次の一手で決まる。

 夕方、少し日差しが戻っていた。駒も軽くなっている。

 僕の細かい攻めがぎりぎりつながり、相手玉に受けがなくなってきた、かに見えた。しかし、歩切れの僕は大駒での王手に対して逃げるしかない。合い駒をすれば受けられるが、それでは攻めが完全になくなってしまう。逃げて逃げた先に、王手と金取りがかかる。取られるのは歩一枚だが、こちらにとっては大事な攻めの拠点だ。と金を取られて投了なんて、それは惨め過ぎる。

 だから、角で王手されたら投了するしかない、そう思っていた。もう駄目だ、そう思っていた。

 けれども、次の一手はなかなか指されなかった。外野三段の左のこめかみから、汗が流れている。眼は血走り、口は空いたままだった。そして、右手が桂馬をつまんだ。桂馬のただ捨てから詰みそうな筋があるのだが、途中もらった桂馬を合い駒して詰まない順があることはすでに読んでいた。桂馬で詰めろをかけても、王手王手で上部を開拓していけば詰めろは解ける。

 相手も焦っている。確かに、完璧に指し続けられるならば、もっとタイトル戦に出られるはずなのだ。

 もう僕は、待つしかない。多分、どの手を指されてもこちらが間違えるということはないだろう。

 その時、偶然外野三段と目があった。しまった、と思ったが遅い。おそらく僕の顔色から、自分が負ける筋があるのを感じ取ってしまったのだろう。外野三段は、桂馬から指を離した。

 到達者のまどろみ。確かに、そうだ。

 駒台の角が、摘みあげられた。僕はお茶を口に含み、唇をなめた。

 角が、遠く王将をにらむ。

「負けました」

 その瞬間、視界が開けるのが分かった。下山を覚悟したときに、初めてもっと高い山のことを考えることができるのだろう。

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