第7章

第43話

 驚くほど負けなかった。

 そんなに頻繁に対局があるわけでもないので、自分でも気付いていなかった。しかし、僕は勝ち続けていた。今日勝てば、二回目のタイトル挑戦。もしタイトルを獲れば、二冠と二冠、本当の意味で女流のトップになれる。

 対局の朝だというのに、全く緊張しなかった。自信があるというわけではないが、勝負の結果については全く興味がなかった。多分、僕はこの先何度かこういう大事な対局を迎える。これは、そのうちの一つにすぎない。

 相手は外野女流三段。タイトル経験もある、中堅の先生だ。かつて対局したときは、終盤にひっくり返されて負けた。何があっても顔色を変えず、淡々とミスを待つタイプの将棋。若手は、その余裕に惑わされる。

 人が多いのが気になった。長年女流棋界では、同じ世代がタイトルの多数派を占めていた。もし僕がこのタイトルを獲ることになれば、久しぶりに世代交代が起こるきっかけにもなるだろう。外から見れば、それは非常に興味のあることのようだ。

 僕は、自分が一番になりたいだけだ。相手の世代なんて、気にならない。

 僕が入室すると、まだ外野三段は来ていなかった。少し迷ったが、上座に腰を下ろした。温かいお茶の入った水筒を二本、鞄から取り出した。

 数分後、外野三段が部屋に入ってきた。びっくりした。和服だった。

 紫地に、薄い桃色の花が描かれた、とても美しいものだった。同じ部屋にいた先生たちも見とれている。

 僕は、黒と白のチェニックブラウスに水色のロングスカート、とても地味だった。

 外野三段はちらりと僕の座っている座布団を見てから、一礼して下座に腰かけた。僕に対しては一切視線を向けなかった。赤い唇、白い肌、長い睫毛、全てが美しかった。

 僕は、少しずつ事の重大さを飲み込み始めた。外野三段にとって、チャンスは何度もないのだ。そして、倒さなければならない相手は、今まで彼女を負かしてきた相手ではない。

 今からすぐに、気合が入るものでもない。僕は、将棋に勝つことを考えるしかない。

 歩が四枚出て、先手になった。急がないように、焦らないように。僕は、自陣の駒を一つ一つ眺めた。

 王将が、小さく見えた。

 窓の外を見ると、雨が降り始めていた。傘を持ってきていない。

 湿気の多い日は、駒が重たい。7七にある歩を何度かつついた。そして軽く持ち上げ、1マス前に進める。駒が盤に吸い込まれていくようだった。

 奥歯が痛んだ。どうにも、乗れない。

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