第42話
意地で、盤上には並べなかった。メールの履歴だけが、勝負の舞台だと思った。
中盤を過ぎ、局面は複雑を極めている。相手は一直線の勝ちを目指してくるだろう。だからと言って受けだけの手を指してはいけない。より複雑に、予測のできない局面に引きずり込む。うんざりするような、そんな状況に。僕は、それが好きなのだ。
一筋の光が頬を打ち、はっとしてカーテンを開けた。朝になっている……。どうやら僕は一晩かけて、次の一手を考えていたのだ。
ベランダに出て、外を見る。太陽はまだ出たばかりで、ふらふらとしているようにも見えた。ジョギングをしている人や、ゴミを出している人、もう出勤をする人。こんなに早朝だというのに、案外人びとは活動的だ。
最近、部屋にものが増えた。誰か来るかもしれないと思うと、見た目が気になってきたのだ。テレビを買った。コンポも買ってみた。積みあがっていた雑誌をラックに入れてみた。
そういえば、僕は自分の部屋をどうにかしたことがなかった。子供部屋にはいつも、樹の好きなものが置いてあった。僕は何かをねだることがなかったし、お小遣いもほとんど貯めていた。唯一、将棋にだけはお金を使った。こっそりと買った盤と駒、棋書。そして道場代。後から知ったことだが、小学生は百円、というのは師匠の嘘だった。
自分のしたいようにする、というのがこんなに難しいことだとは知らなかった。そして、こんなに楽しいことだとも。
「六十三手目 4八銀打ち おはよう」
「どうだっ」
「何それ」
いつも通り急にやってきた樹は、靴を脱ぐなり鞄からTシャツを取りだした。白地に黒く細い線がごにゃごにゃと書きこまれている。森のような湖のような、よくわからない絵だ。
「俺のデザインが採用されたんだよ。全国で発売!」
「何円」
「2880円」
「買わない」
「いや、売りに来たんじゃなくて」
「自慢しに来たの」
「当たり」
相変わらず家にはあまり帰っていないようだが、樹も彼なりに将来を見据えて生きているようだった。僕の家に来ても食糧を持ちかえるようなこともなくなった。
「それにしても、変わったね」
「部屋?」
「うーん、それも含めて」
「まあ、お金もあるしねー」
「うわー、やな女」
その時、メールが鳴った。これはおそらく、着手の着信音だ。
「あっ」
「なに、デート誘われたのか」
「もっと嬉しいこと」
そこには、僕が最も待ち望んでいたことが書かれていた。樹がいなければ、叫んでいたかもしれない。
「投了 負けました」
心地よかった。もちろんただの練習将棋にすぎない。対局の多い川崎の方が時間的な不利もあっただろう。それでも一局の将棋に勝ったこと、あの川崎に勝ったことがとても嬉しかった。
「なんか食べにいこっか」
「おごってくれるの」
「任せなさい」
肩がとても軽くなった。返信文を送る。
「ありがとうございました。 ありがとう」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます