溝口水晶と「沈黙する子猫たち」②

 新宿駅西口から歩いて直ぐのところ、思い出横丁付近にある喫茶「有馬珈琲店」で待ち合わせた。

 純喫茶として50年以上の歴史を持ち、白亜の外観はかなりの色落ちが見られるものの、その漂う雰囲気は山崎監督が撮る映画を思わせる。


 溝口水晶は約束の時間より1時間以上も前だったが、直前にググった「口に含んだ際のバランスが素晴らしくあなたの理想を叶えます」といった大仰な情報に、自然とその店の扉を開けていた。

 ……流石にいい香りがする。

 入口から店内奥へと伸びるカウンター席や、長方形の白いテーブルを中心にして肘掛の無い紺色のソファーが並ぶ4人掛けボックスシート等は殆ど人で埋められていた。繁盛しているようだ。

 空いている席を探して視線を奥の方へ伸ばしていくと、一番奥の席に緑色の後頭部があるのに気付く。2人掛けの席に一人で座っている。

 えっ、もう来ているの? 近づくと、彼女は珈琲を飲みながら小説を読んでいた。

 兄の書いた漫画を文章にしてネットで売っているらしい。

 ――「人気なのよ」と口にする人懐っこい笑顔に少し戸惑ってしまう。

 僕が見た彼女の情報には、あまり楽観的でいられるような材料は無かったように思うが、その笑顔は明らかに彼女の本質を垣間見せるようだった。

 そこには白いTシャツにデムニのパンツ、そして大人っぽく魅せる為にジレを羽織ったお洒落な22歳がいた。

 デスクの言った意味が少し分かった気がする。


「……ねぇ近くのホテルでいい?」

 そう聞かれてハッとした。そうだ忘れていた。仕事をしよう。


「ゴメン。詳しくは話せないけど聞きたいことがあります」姿勢を正す。


 ――「どういうこと」

 小説のことを話す先程までの柔和な表情が一転して、声にも警戒の色が浮かんでいる。

 恐らく彼女は頭がいい。言葉が足りなくても理解しているように見える。


「実はある事件を取材しています。あなたが所属している会員制のデートクラブがそれに関わっている可能性があります。……あなたのことは絶対に口外しません。約束します。また十分な謝礼も払います」


 デスクには、30万までは相談なしで即Okだと言われていたけど、僕にはどのくらいの情報に、どれくらいが妥当なのか皆目、見当が付かない。だから、「十分な」という言葉で誤魔化したのだ。

 恐らく今、彼女は考えている。宙に向けたその眼球が小刻みに震えている。


 慎重に言葉を発した。

「取材ということは警察ではありませんよね」


「はい、詳しくは言えませんがジャーナリストです」


「分かりました。3つほど約束して下さい」

 顔の前で指を三本立てた。


「まずは私のことは一切口外しないこと。イニシャルや障害者などアバウトな表現で文字にするのもダメです。勿論、これからお話しすることは録音もバツです」

 そう言って、今度は口の前で指をクロスに重ねる。


「……次に謝礼は10万ほどでお願いします。それ以下では何も話しません。(恐らく本来彼女が受け取るサービス料にいくらか乗せているのだろう)そして、最後にこのデートクラブについても一切文字などにしないことを約束して下さい。(それは無理だと彼女も分かっているはず)

 それに……あとは忠告です。あなたは直ぐにでも退会してどこかに暫く身を隠した方がいいと思います。多分、気付いているでしょうけど、ここは凄く危ないところです。顧客には政治家や有名企業のお偉いさん、また、警察の上の方もいるようです。分かりますよね。知ることはあまりに危険を伴います。あなたが想像出来ないようなことさえ起こるかもしれません。それでも聞きますか?」


 多分、彼女はいい人だ。僕の心配までしてくれる。

 僕なら、僕が彼女みたいに障害者で、しかもそれを至上の喜びとするような奴らに弄ばれている立場なら……大方、人生を諦めてしまっているだろう。

 自分の不幸を嘆いて、蔑み、妬み、恨んで、笑って僕を踏みにじる奴らを殺したくてしょうがないだろう。勿論、忠告などしない。黙って人が不幸になって行く様を静観する。日常で笑えることなど何ひとつ無いはず。死ぬことは恐らく有力な選択肢に違いないだろう。

 ……ただ、それでも彼女は笑っていた。家族に感謝しているとさえ言っていた。


 ――「お願いします」そう答えた。


 僕はマイセンの珈琲カップに口をつけて、ゆっくりと喉を通していく。はやる気持ちを抑えながら質問を開始した。


「それでは始めます。まずはあなたがそのデートクラブで働いくようになった経緯を教えて下さい」


 姿勢を正して凛とした表情に変わっている。


「私は幼いころから骨肉腫という病気で、18歳の時に右足の膝から下を切断しました」


 当然そうなると思っていたけど、いきなりのヘビーな展開にゆるく目を閉じた。


「……それからは泣いてばかりでした。時には自暴自棄となり手首に剃刀を当てたこともあります。そんな絶望の淵にいた私に家族は本当によくしてくれました。特に、兄は駆け出しの漫画家で、いずれは手伝ってほしいと言ってくれました。嘘でもうれしかった。希望というほど大袈裟なものではないけど、確かにそこには光がありました。私は徐々にですが明るくなっていったのです。

 ただ、父親がいない私の家庭は裕福ではありません。この国で病気になるということは本当にお金が掛かることなのです。しかも私の場合、幼い時から発症していますし……毎日が本当にギリギリでした。だから私は家族の為、どうしても役に立ちたいそればかり考えていました」

 そう一気に話すと、もう冷めたであろう珈琲を口に含んだ。さらに続ける。


「――4年前の秋のこと。夜の長い日のことです。私は友達二人に誘われて渋谷に遊びに行きました。その頃には義足も馴染んできて、つまり、上手になっていて、ちょくちょく出歩いていましたから……三人で渋谷のマックで簡単な夕食を済ますと、いきなり友達の一人がクラブに行こうと言い出したのです。勿論、今までそんな所とは全く縁の無かった私は慌てて顔を横に振りました。とても無理です。障害者であることもそれを遠慮するには十分でしたし、元々の性格もそのような場所とは無縁のつもりでした。……それでも友達は強く誘います。私に違う世界を見せたいって、悪意のない笑顔を向けてくるのです。どうも彼女らは前から計画していたようなのです。友達なりの思いやりが嬉しくもありましたし、また、今度、兄が渋谷を舞台にした漫画を描くと言っていたので、少しでも参考になればと思いその誘いを受けてみることにしました。挑戦のつもりだったのです。

 ……初めて義足を踏み入れた世界は想像以上でした。目や耳にする全てが衝撃でした。友達の一人が夏空みたいに青いカクテルを注文してくれて、それを片手にカウンターから楽しそうに踊る人たちを見ていました。不思議と悲しい思いとかは無かったです。あまりに私の日常から切り離された場所だったから……それでも、耳をつんざく音楽とフロアに漂う汗や煙草の匂いが身体に浸み込んできて、青いカクテルを口にするたびに、その非日常に少しずつですが馴染んでいくようでした。恐らく久しぶりのアルコールに酔っていたのかもしれません。

 スーツの男が同じ飲み物を手に近づいてきました。私にそれを当たり前のように、はいって渡すと、髪が触れるくらいの距離の中で、カウンターに肘を着いて踊る人たちに、じっくりと視線を注いでいます。それはまるで自分に似合う服を選んでいるみたいでした。肩に置かれた長い指が蜘蛛の足のように蠢いて、すごく怖かったのを憶えています。そのカクテルを一気に飲み干しました。多分、この男は私の知っている男とは違う。そう本能的に感じました。

 すると私の耳元に、すぅーと顔を近づけて、――仕事する? ぼっと低い声で囁いてから私の全身を食い入るように見回しました。身体が熱くなって、頭がクラクラして、障害者であることすら、その時は忘れているようでした。私は何度も頷いているのです」


 彼女は氷の解けた水を口にした。店内が暑くて蒸せているのか、デニムの上から義足をしきりに掻いている。


「もしかして何か薬のようなものを飲まされたのではないですか?」


 彼女は白いハンカチをリュックから取り出して首筋に当てながら言った。


「そうかもしれません。思考するのが段々と面倒になっていくよう感じていました」


 ――「昨年の5月からこの仕事をしています。あなたには分からないでしょうけど、今までどこにも属したこのない私たちにとって、仕事という響きは生きている証拠みたいなものなの。家族に対して後ろめたさもあったし、なにより何故か断れないのよ。日常に戻ってきたはずなのに淡々とことが進んでしまって、どこかで「待って」って言葉を何度も何度も口にしようとしたけど、……それは友達や家族の思いを裏切るみたいで、込み上げては、喉元辺りで泡のようにすっと消えてしまうの……」

 彼女は暫く睨むように宙を見つめた。口調が変わったことにも気付かない。


「あ、有難うございます。それでは少しその男について聞かせて下さい」


「死んだ猫のような目をした男だった。いつも高級そうなスーツを着こなしていたけど、私は野生って言葉をイメージしたわ。恐らくは彼が纏っている匂いと、あの目のせい。そうだ。耳に後ろに猫のマーク……多分TATOOかな。それがあったわ。……確か、八王子のほうに住んでいると言っていたと思う」


「他には?」


「何でもないエピゾードだけど、いつか私がベッドの上で、沈黙する子猫たちって私たちのことって聞いたら、


 僕が目を合わすと、彼女はしまったという表情で視線を逸らした。


「……そう、あなたが考えている通りよ、その男に抱かれたわ。初めてだった。今まで死んでいた感覚が一気に目を覚ますかのようで、身体が熱くなったのを憶えている。どこを触れられても感じてしまうの。そして、1カ月も経った頃には私は既に彼の言いなりだった。家族や友人の為じゃなく、彼の為になることばかりを考えていた」

 項垂れるように緑色の頭を下げている。


「分かりました。少し話題を変えます。先程あなたは、知ることはあまりに危険だと、そう言いましたが、その根拠について教えて下さい。……例えば顧客以外、他に心当たりは?」


 僕は敢えて質問した。彼女の口から聞きたかったのだ。

 ただ、そのまま黙ってしまった。表情は今までとは明らかに違っている。

 きっかけを作るように僕は言葉にした。


「……中国の部屋を覗きました。どう考えても値段設定がおかしい女性がいました。あれは、いったいどういった意味なのですか?」


「私の口から言った方がいいですか?」


「はい。是非お願いします」


 それは強い口調だった。あなたがどれだけ卑劣で危険な組織に属しているのか分かっていますか? そう非難するように――。

 ただ、彼女はそれを敢えて言葉にしなくても十分に分かっていただろう、大きく息を吐いて、未だ下を向いている。


 すると突然だった。顔を上げて緑色の髪の毛をかき上げた。狭い額には異常ほど汗を掻いている。

 片足の女は堰を切ったように、しゃべり始めた。


 ――「カンボジアとかは酷いものよ。今でもあの国は少しでも道を外れると地雷が埋まっているの。その非人道的兵器は約40年前の内戦時にポルポト軍と政府軍が使用したもので、対人地雷と言って手や足を怪我させるのが目的で作られたものなの……。

 ねぇ、敢えて殺さないのよ。ねぇ分かる? 殺してしまうより負傷させた方が敵兵力を奪うことに繋がって、さらに障害者が増えることで、その国の経済力が低下するって知っているからなのよ。大方、撤去されたとはいえ、今でもそれらは至る所で爆発する。だからあの国には足の無い子供が普通にそこら中にいるの。

 そして、親たちは戦争が終わった今日こんにちでは、その足の無い子供たちで商売をしようとする。それでも家族の為にみんな頑張るの……見世物としてお金を恵んでもらうのは幸せな方で、ほんの僅かなお金で知らない国へ売られる子もいる。そういう嗜好の人間が世界中にはゴロゴロといる。それが現実……そうよ「沈黙する子猫たち」は人身売買をしている。分かっているわ」


 彼女は勝気な瞳を僕に向けた。大きく数回、深呼吸してから何故か微笑んだ。


「……ねえ、猫の命って九つあるって知っていた?」

 それは悲しい笑顔に見えた。


「あっ、は、はい。100万回生きたネコを読んだことがあります」


「だったら話は早いわね。猫は死ぬのなんか平気なの。何度も何度も生き返るから。今置かれた状況なんて、直ぐに忘れてしまう。そう、次に行ける。そして次こそは誰のものでもない自分になるのよ」


 恐らくあの男が言ったことなのだろう。言えば言うほど表情が曇っていくのが分かった。

 言葉は消化されず再び彼女の身体に溜まっていくようで、いつか必ず爆発するだろう。

 もう聞いていられなかった。もう終わりにしよう。


「そうですか。有難うございます。最後にこれを見ていただけますか?」


 茶封筒の中から引き伸ばした一枚の写真を取り出して長方形のテーブルに伏せて置いた。

 彼女はまるで裏側がら透けて見えるかの如く、視線をずっとそこに留めている。


「それでは……」と言って写真を裏返した。

 それは集合写真だった。オリエンテーションで海に行った時に撮られたものらしい。あの少女から1万円で買ったものだ。

 そして、人差し指を、そこに映っている二人の少女を順番に差してから、――「見たことありますか?」と質問した。


 彼女は明らかに知っているようだった。写真を裏返したのと同時に瞳孔がぎゅっと縮まってから、そこに映る今井文美と牧原茉莉亜に交互に注がれていた。


「はい。その二人とは同じ仕事をしていました。待合室も同じだったので間違いないです」

 仕事と言ったのは彼女なりのプライドなのだろう。


 やはりそうだ。二人は「沈黙する子猫たち」というデートクラブで一緒に援交していたのだ。

 そうなると限られた世界で関係性を築く二人の結びつきは強いはず。

 ……恐らくは、その強さが何らかの原因で裏目に出てしまって、牧原茉莉亜は今井文美のことをクラスに暴露したのだろう。こう言った事は良くあることだから。立て続けに身を投げたことにも説明がつきそうだ。

 ――牧原茉莉亜と今井文美は、その名前通り「まーちゃん、ふーちゃん」で違いない。

 確かに今の時代、小学生がSNSを利用しても全く不思議ではない。寧ろ世間が、いや僕が思っている以上に彼女らは駆使していたはずだ。簡単に知り合い、共感出来るチャンスなんて、互いの住んでいた場所にいくら距離があったとしても問題にならないのだろう。

 何時でも何処でも繋がれるのだから。


「……ショートカットの背の高い方は私より、だいぶ前からいました。また、人気があるようで、政治家や作家に気に入られていたみたいです。もう一人の方は一昨年の夏ごろから働き出したと聞いています。ただ、このところ二人とも見かけません。それにもう一人……」

 ある少女を指さして言った。


 ――「確か、そう、渋谷のクラブであの男と一緒だったのを見かけたような……うん、間違いない。だって、あの男と同じ種類の人間だって思ったのをよく憶えているから。分かるのよね。こんな仕事をしていると……それにその子の顔、恐らく整形よ。私もそうだから、これもやっぱり分かってしまうの」


 ああ、またあの少女だ。これで何回目だろうか。もう彼女に直接話を聞くしかない。

 僕は今後の展開を考えて暫く黙ってしまった。


「ねぇ、あなたの名前や仕事も殆ど嘘なのでしょう」

 ハッとして目を大きく見開く。


「分かっていましたよ。だって私が見せられたあなたの写真と実際のあなたの顔が随分と違っていたから」

 あの人懐っこい笑顔を見せた。


 ――「それから何か勘違いしていませんか、私たち障害者のことを……フツーに性欲だってありますし、面白いことには声を上げて笑います。綺麗になりたいって願望もフツーですよ」

 デスクの言う通りだった。

 ああ、自分の物差しを彼女にあてていた僕はなんて未熟者だ。

 そして、彼女は、「フフフ、でも実際のあなたの方が、いい男ですね。あなたとエッチ出来なかったのが、少し残念かも……」そう言って、机の上にある謝礼を受け取ると席を立った。


 僕は彼女を見上げながら最後にふと疑問だったことを聞いてみた。


「どうして答えてくれたのですか?」


「お金が必要だったからよ。ただそれだけ……じゃあね」


 ぎこちなく歩くその後姿に彼女が障害者であることを改めて思った。


 次の日の夜。僕は自宅でこれまでのことを資料に纏めていた。

 あれから「沈黙する子猫たち」のホームページは開いてない。

 ――「指示するまで静観ね。つまりパソコンに触らないこと。いい? 分かった。ねぇ?」

 デスクはそう携帯の向こうで捲し立てていた。

 それでも彼女のことが気になって仕方がなかった。あの人懐っこい笑顔が頭から離れないのだ。考えがうまく纏まらないし、何をするにも身が入らない。


 午前1時を過ぎた頃、少しだけにすればいい、そう訳の分からないことを口実にして、パソコンの電源を入れてみた。


 OUTLOOKを起動する。新着メールのサインが光っている。

 ――時間を置けば迷ってしまう。素早くそれをクリックした。


2018/11/29,Wed 01:03

FROM:「沈黙する子猫たち」

TO:「12番様へ」

  

会員の皆様へ

  誠に遺憾ですが、珍しいグリーンの毛をした片足の猫が逃げてしまいました。

    会員の皆様の益々のご健勝をお祈り申し上げます。



「――あなたが想像出来ないようなことさえ起こるかもしれません」

 彼女の言葉を思い出す。

 どうか自分から辞めたのでありますようにと祈るしかなかった。













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