第3話 水原美智子

 私があの人と結婚したのは、仕方のないことだったの。


 当時の私はまだ20歳の大学生で、遅くまで遊ぶことも多かった。


 ある晩、飲み会で出会った二つ上の先輩に誘われて家に行ったの。


 だいぶ酔ってて後のことは覚えていない。


 けど、起きたら裸になった私の横で先輩が寝てたの。








 親には強く反対されたけど、私は先輩のことが好きだったし、先輩もそうだった。


 だから生むことに決めて、つらいけど頑張った。


 足りないお金も何とか稼いで、一緒に住むアパートも少しボロかったけど決めた。


 これから幸せに、先輩と二人で暮らしていける。そう思っていた。


 健斗が生まれたのは六月の梅雨時だった。


 大雨の中、その子は生まれた。


 泣き声は聞こえなかったけど。


 とてもかわいい子だった。先輩も病院に駆けつけ、赤ちゃんを見て大はしゃぎ。


 私は嬉しすぎて涙が出たわ。




 


 健斗が普通の子ではないと気付いたのは、幼稚園に入った頃だった。


 ほかの園児は鬼ごっこやジャングルジム、かくれんぼをしていたのに、健斗は一人で蟻をつぶしてた。


 お弁当箱にはいつもダンゴムシが入っていたし、ズボンのポケットには蝉が何匹も入ってた。


 私は何度か健斗に注意したことがあったのだけれど、健斗はいつも不思議そうな顔をしてた。


 勉強はできる子だった。


 小学校に上がって、正直心配だったけど、健斗はクラスでいつも一位だった。


 だから私もそれほど気には掛けなかった。


 でも、その時気づいておくべきだった。




 中学に上がってすぐのことだった。


 私は小さな企業の事務をしていたのだけれど、昼休みに学校から電話がかかってきたの。


 今から学校に来れますかと聞かれたので、仕事中だと答えた。


 じゃあ放課後に来てくださいと言われ、面倒だったけど仕方なくいった。


 仕事が終わり学校に行くと、健斗の担任に案内されて、小さな会議室に入った。


 中には健斗と女の子、その隣に母親らしき人が座っていた。


 かけてくださいと言われ、私は向かいの席に座った。


 先生は間に立って、「こちらは佐藤さんです。こちら、健斗君の保護者の水原さんです」と言った。


 私は軽く会釈をした。


「それで、どういった用件で?」私がそう聞くと、佐藤さんの母親は急に、


「ふざけないで! あんたのこどもがなにしたかわかってんの!」


 と、叫びだした。


「落ち着いてください。すみません、まだ説明できておりませんでした」


 先生は相手の母親を押さえつけ、私に説明を始めた。


「健斗君が今日の昼休み、佐藤さんのお弁当に猫のフンをかけました」


 え? 猫のフン? 


 私は健斗の顔を見た。けど、いつものように無表情で、悪気のない顔をしていた。


「健斗、本当なの?」 


 私がそう聞くと、健斗は周りをきょろきょろ見ながら小さく頷いた。


「どういうつもりなの! あんたの子供は何がしたいの!」


 相手の母親はだいぶ興奮しているみたい。その子供は泣き出すし。


「先生、健斗は以前説明した通り、少し皆と異なる部分がありまして・・・」


 私がそういうと先生は、「わかってます」と言った。


「ですが、これが初めてではないんです」


「え、どういうことですか?」


「もう何度もこういったトラブルがありまして、学校に苦情が来るようになったんです」


 はあ。めんどくさい。


 結局その後一時間以上はおばさんのわめき声を聞く羽目になった。






 家に帰ると先輩、夫が、パンツ一枚で酒を飲みながらテレビを見ていた。


 ただいま、と言って返してくれたのは同棲一年目までだった。


「あなた、仕事は見つかったの?」


 私がそう聞いても、返事はない。


「ねえ、あなた」


 肩をさすりながら聞くと、「うるうせえ!」と言って振り払った手が私の顔に当たった。


「俺の仕事に口出しするんじゃねえ!」


 そういって夫は缶ビールを飲み干し、缶を投げ捨てた。


「育児もまともにできねえ奴が、生意気言うな」


 吐き捨てるようにそう言って、部屋を出ようとした。


 私は腹が立った。とても。


「あなたが産もうっていたんじゃないの! あの時あなたが部屋に誘わなければ!」


「はあ! 俺のせいだっていうのか!」


「そうよ! 私が遅くまで働くのも、学校まで行って文句を言われるのも、こんな子が生まれたのも!」


 私はその時になって、隣に健斗がいることを思い出した。


 夫は唖然としてたけど、しばらくして、


「もうおしまいにしよう」と言って、出ていった。


 私は荒れた部屋と、ボロアパートと、たまった請求書と共に取り残された。


 数日後、離婚届が送られてきて、正式に離婚が決まった。






 あれから生活は少し楽になった。


 先輩という荷物がなくなったことが、これほど楽になるとは思っていなかった。


 健斗は中学二年生から転校し、私も職場を変え、心機一転と言った感じだった。


 転校した後数か月は、何の問題も起きなかったので、私は私なりに楽しんだ。


 飲み会、クラブ、パーティー、合コン・・・


 自慢じゃないけど、私はそこそこモテるほうだったから、いやなことは忘れられた。


 家に帰るのは夜の12時を過ぎるのが当たり前だった。


 健斗はご飯さえ作っておけば、なにも言ってこなかった。




 でもやっぱり、人生そんなうまくいかないみたい。


 転校先の学校でも、何度か呼び出されるようになった。


 そのたびに、相手の母親の罵声を浴びせられる。


 私は過敏になって、街で女の人の声を聞くだけで頭が痛くなった。


 どうして私が怒られるの?


 どうして私がこんな目に合わなければいけないの?


 どうしてこの子は私の人生を邪魔するの?






 ある晩、家に帰ると健斗が絵を私に見せた。


 そこには私が書かれていた。


 森の中で、木にぶら下がる私。


 健斗はそれを指さして、にこにこしている。


 ああ、そうなのね。


 それから私は健斗を車に乗せ、夜道を走らせた。




 森について、健斗に降りるように言った。


 私はバッグの中から包丁を取り出し、健斗が森の奥に進むのについていった。


 だいぶ深く入ったところで、健斗が木を指さして何か騒ぎ出した。


 いまだ。


 心の中で何かが私に訴えた。


 気づいたときには健斗は死んでた。


 服も木も顔も腕も、全部真っ赤に染めて。


 その後私はバッグを木の枝に引っ掛け、紐に首を通した。


 ああ、やっと楽になれるのね。


 ゆっくり足の力を抜く。


 首がギュッと閉まる。


 苦しい。 けど幸せ。


 だってもうあんなことはしなくていいのだもの。


 人間、思ったより簡単に死ぬんだなと思った。




 暗い森の中で、子供と女性が死んでいる。


 この景色を絵にかいてもきっと、黒い正方形しか書けないわね。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

どうして僕は死ななければいけなかったの? 夜凪ナギ @yonagi0298

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ