「緊張している?」


 控室のベンチで、昴が言った。彼女が手渡してくれたスポーツドリンクを口に含み、それを渡す。


「葵なら出来るよ」

「あたり前だ。せっかくこうして大舞台まで来たんだ。俺はもう迷わない」


 立ち上がり、昴を見つめた。タオルを握りしめて震えている。その手を包んで、言った。


「ホワイトラインの向こう側、観客席で待っていてくれ。必ず、一番に通り抜ける。お前に、タオルをかけてもらいたいんだ」

「わかった。待ってる」


 名前を呼ばれ、控え室を出た。殺伐としたコンクリートの回廊を抜けると、強烈な陽光が俺に降り注いだ。一年越しの夏の太陽は、相変わらず俺達を焼き殺しに来ている。湯だったような空気の中、張り詰めた選手達がトラックに進んでいく。所定の位置につき、靴紐を結び直すと、汗が引いていくような気がした。会場のざわめきが、遠のいていく。


 選手の名前が呼ばれていく。自分の名前に手を振りあげ、俺は天空を見上げた。


 この大舞台。詞、お前と来る予定だった舞台だ。羨ましいだろう。その天空より、見下ろしているがいい。


 そう、心の中で呟いた時だった。


 ――雨が降った。


 それは突然に、大粒の水の塊が、肩を打ち付け始めた。それは太陽で火照った熱を、取り除いていく。

 そしてコートから、陽炎が消えた。目前一◯◯メートルの目標は、幻影が取り除かれたように明瞭になった。最早俺がそれを見失うことは、絶対にない。


 ――お前がやったのか。詞。


 天空を眺めても、思わずにやけてしまった。微かにかかる虹が、その答えだと思った。


「On your mark」


 誰かが言った。それを合図に、一列に並ぶ者たちが一斉に腰を上げた。

 鋭敏化された感覚が呼び起こされていく。それが深まるにつれて、音が遠ざかっていく。静寂の中で聞こえるのは、己の鼓動と、血液の流れ。そして、詞の言葉だった。

 刹那、空砲が鼓膜をつんざいた。その瞬間、血液が沸騰するかのように、体は弾けた。ストッパーを蹴り飛ばし、目標へ向かって駆け出していく。


 体が軽い。風が味方をしていることがわかる。駆け出した全景には、誰の姿も映っていない。俺は体を風に乗せながら、詞の小説の続きを思い出していた。


『叶うならば、私はそれを見届けたいのだ。』

 ――見届けてもらおうじゃないか。

『陽光の下、滴る汗を、青春を輝かせながら走る彼を。』

 ――これから嫌というほど見せつけてやる。

『そして、その虹の向こうで、待っていたい。』

 ――誰よりも早くお前のもとに辿りついてやる。

『そこに彼が現れたなら。』

 目標はすぐ目の前だった。――後ろは振り返らない。


『私は言ってやりたいことがある』


 胸を突き出すと、ホワイトテープが纏わりつき、ちぎれていった。



 余韻でトラックをかけた。その目線の先で、昴が涙を浮かべていた。俺の汗を拭くはずのタオルは、別の役目を見つけたようだった。


『葵よ』


 俺は再び天空を見上げた。いつの間にか上がった日照り雨は、天空にきらめきだけを残していた。嘘のように青い空の向こうから、あいつの声が降ってくるような気がした。


『私の目を誤魔化せるとでも思ったか。素直になれないのは、お前の悪い癖だ。』


 ――うるせえよ。言われなくてもわかってる。


『幸せにしてやってくれ。』


 ――約束するよ。詞。

 

 俺は再び歩き出した。手始めに、あの震える肩を、抱きしめるために。



おわり

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空に走る ゆあん @ewan

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