第3話 嘘か実(まこと)か
晩夏となり、朝晩の風にわずかな秋の気配がにじむ頃、大八は久方ぶりに内藤新宿の信濃屋を訪ねた。
ここまで間を開けるつもりはなかったが、兄が急な病に倒れ、本復するまでどうにも屋敷を抜け出すことができなかったのだ。
兄の病は
心配する幼い甥と義姉に何をしてやったということもないが、兄は大八が屋敷に留まっていたことを聞くと、ひどく感謝をしてくれた。出掛けるというと、まとまった金子を渡し送り出してくれたほどだ。
夕日を浴びる信濃屋の暖簾をくぐると、顔馴染みの若い衆が、ぎょっとしたように腰を上げた。
「内藤様」
忙しく働く大勢の使用人が、いちどきに振り返る。
「酒だ。それに、おもんを呼べ」
「へえ」
へえと言ったきり、後ずさるように奥へ引っ込み、遣り手とひそひそ話をしたと思うと、そのまま戻ってこない。
「上がるぞ」
刀を預け、勝手知った二階座敷へ進もうとした。
「お待ちください」
奥から出てきたのは、信濃屋の
「内藤様、おもんは
「ほかの客がついているならば、待つ。俺が来たと云え」
いつもの酒を持って来いと云って、上がろうとする。
「お待ち頂いても、お相手はいたしかねます」
「まさか、年季が明けたとでもいうのか」
冗談のつもりだった。しかし、市左衛門は固い表情のまま、話があると云う。
(身請けでもされたと云うのか)
まさか、と思う。あの女を我がものにしたい男が、俺のほかにいるはずがない。
「どうぞ、こちらへお運びくださいませ」
市左衛門は、忍耐強く店の奥を示す。
「無用だ。さっさとおもんを出せ。出さぬなら考えがある」
大八が凄むと、店の使用人らが水を打ったように静まり返った。
何かがいつもと違う。なかでも若い
「さあ。まずはこちらへ」
大八は市左衛門を睨め付け、ようやく頷いた。
信濃屋市左衛門が大八を招いたのは、奥まった書院造りの座敷だった。参勤交代がたて込む時期には、脇本陣ともなる旅籠屋である。
市左衛門は、その格式のある座敷へ大八を据え、畏って一礼した。
「信濃屋、俺からも話がある」
先手を取ろうと、兄から貰った金子を出した。
「これまでの揚代だ。足りなければ云ってくれ」
「申し訳ございません。その金子はお受け取り致しかねます」
市左衛門は押し戻した。
「いいから受け取れ。おもんの身揚がり分を払えば文句はないだろう。だから、さっさとおもんを出してくれ」
今日は久しぶりに、おもんが悲鳴を上げるまで責めてやろうと勢い込んで来たのだ。これほど間を空けたことはない。屋敷にいても、おもんと他の客がどのようにたわむれているのか気になって仕方がない。ああしよう、こうしようと昂りを慰めてきた。今日も道すがら──。
「内藤様、おもんは死にました」
なにを云われているのかわからなかった。
「おもんが、死んだ」
「二十日ほど前のことでございます。首を括って死にましてございます」
「首を括ったのか」
「左様でございます」
阿呆のように繰り返しながら、大八は魚のように口をぱくぱくするばかりだ。
「おもんはあんな
と、大八を窺った。
「しかし、近頃は
大八には、初耳だ。
「俺は聞いていないぞ」
「この話がまとまったのは、内藤様のおみ足が遠のいていてからでございます」
(おもんは、なにも云っていなかった)
「ところが出立の前夜、姿が見えません。皆で探していると知らせがありました」
まさかと思い駆けつけてみると、見慣れた大きな身体がぶる下がっていたという。
「まさか、あの子がそのようなことをしでかすとは思ってもみませんでした。納得して移ってくれるものと安心しきっていたのです。はい、亡骸は正覚寺さんで弔って頂きましたが、手前どもにはいまだ、どうしてあのようなことをしでかしたのか……」
市左衛門の口調は、心底悼んでいるようだ。
「どこだ」
「と、申されますと」
「おもんは、どこで死んでいた」
大八は、市左衛門が嘘をついているのだと思った。おもんが首を括るなど信じられない。おのれから引き離すため、「死んだ」と嘘を云っているに違いない。
「太宗寺の境内でございます。時の鐘の鐘楼に綱をかけ、首を括っておりました。どうしてそのような場所で死んだのか。太い梁はございましたが、何故わざわざそのような妙な処で……」
大八が、おもんと出会った場所だった。おもんはそこで首を括ったというのか。
「身寄りのない子でございました。せめて親戚がいれば知らせてやりたいのですが、内藤様、なにかお聞きになってはおりませんか」
「身寄りがないのか」
神田新銀の生まれだと云っていなかったか。
「はい。甲州郡内のどこかの水呑百姓の娘と聞いております。水害で、親兄弟が流されたとかで」
大八は混乱していた。
俄かに信じられぬ「おもんの死」であったが、それよりも、おもんがおのれに嘘をついていたことが驚きだった。そして、その嘘をあっさり信じていたおのれ自身に驚愕したのだ。
(俺は、おもんを信じていたのか)
女郎の手練手管は知っている。女郎にまことなどないはずなのに、おもんの言葉をあっさり信じ、まるで疑っていなかったのだ。
そう気づくと、おもんという女が、急に遠ざかっていくような気がした。死んだらしいことも、出会った鐘楼で首を括ったことも、どうでもよくなってきた。
と同時に、激しくこみ上げてきたのは怒りだ。誰への怒りなのか。間抜けなおのれへか、首を縊ったおもんへか。
「内藤様、心苦しゅうございますが、お伝えしたいことがございます」
市左衛門の声も遠い。
「今後一切、信濃屋へはお越しにならないようお願い申し上げます。これは信濃屋のみならず、四谷新宿の旅籠屋一同の総意でございます」
大八の金子を押し戻し、ひと躙り下がって平伏した。
大八は赤くなり、そして息を詰めて黒くなった。
「承知」
精一杯の去勢だった。立ち上がると、ゆらりと足元が揺れた。
揺れながら、怒りが押されられなくなる。腰の刀はすでに預けた。無礼討ちすらできない。
「信濃屋」
呼ばれて顔を上げたところを、拳骨で殴りつけた。
市左衛門は悲鳴を上げて、逃げようとする。大八はそれに馬乗りになると、拳を振り続けた。
大声で喚き、拳を振り下ろす。血が飛んで手が痛んだが、構わず信濃屋を殴り続けた。しかし、一向に怒りは収まらない。
「だ、旦那様!」
騒ぎを聞きつけ、使用人らがなだれ込んでくる。
「なにしやがる!」
柱へ背中をしたたか打ち付け、くらくらしながら起き上って組み付くが、刀がなくば敵わない。
殴られ、蹴られた。蹲った背を踏まれる。
男たちは喚きながら、大八を引き立て、殴り、蹴り飛ばし続ける。
腹を庇いながら、大八はあまり痛みを感じなかった。確かに痛いが、ただそれだけである。痛み以外何も思わず、安らいだ心地にさえなってくる。
おもんが懐かしい。あの柔らかな身体の押し潰されそうな重みが好きだった。
(俺は、おもんを好いていたのか)
まさか、と哂う。あの女にもいつか飽いたはずだ。首を括ったと聞いて、後ろめたさもあった。幽かではあったが、哀れとも思う。だから、こうやって、殴られ、引きずり倒され、ぶちのめされても、どこかで納得しているおのれがいた。
(俺は何をしている)
町人どもにいいように乱暴され、武士の面目がたつはずもない。
(もう、どうでもいい)
なにもかも、どうでもよかった。
大八は全身の力を抜いた。腹を庇うのをやめて手足を伸ばす。
──大さま。
舌足らずなおもんの声がした。鳩尾に入る痛みの代わりに、どこまでもおのれを柔らかく包み込んだ温もりを思い出そうとする。
「おもんの恨みだ、思い知れ!」
振り下される拳を見上げながら、大八は咲っていた。
人事不省となった内藤大八は、夜分になって四谷大判町の屋敷へ運び込まれた。
委細を知るとその晩のうちに、兄の新五左衛門は弟へ切腹を申し渡し、御家人山田朝右衛門が呼ばれた。大八は見事腹を切り、
新五左衛門は、その弟の首を大目付松平
享保三年十月、内藤新宿は正式に廃駅となる。要あって復宿するのは、明和二年、おおよそ五十年のちのことである。
内藤新宿廃宿の確たる経緯はわかっていない。無論、鯨の大八との関わりも言い伝えられるのみである。
(了)
捨て鉢くじら 濱口 佳和 @hamakawa
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