第2話 溺れる



 大八がふたたび内藤新宿の信濃屋を訪ねたのは、通り雨が上がった蒸し返るような午後だった。


 信濃屋は、内藤新宿でも指折りの旅籠屋だ。親子で二軒の店を商い、合わせて五百畳にも及ぶ座敷を有している。

 大八は悪びれることもなく、若い衆と遣り手へ酒と女を所望し、二階のいつもの座敷に上がった。


「ごめんくださいまし」


 四半刻(約三十分)もせず、少し舌足らずな声がして女が現れた。


「あれ、まあ」

 敷居際で声を上げたのは、女の方だった。

「あれ、まあ。あん時の立ち小便のお侍さまじゃないですか」


 あたりの座敷に響き渡るような声だ。大八はにやりとして、女──おもんを手招いた。

「妙なところを見られちまったな」


 おもんは大きな身体をゆすってよいしょと座り、酒肴の盆を引き寄せた。


「芋田楽の旦那が、あのだなんて。わかっていたら、声なんかかけやしなかったですよ。なにをされるか、命あってのものだねっていうじゃありませんか」

「俺は、女に手をあげたことはない」

 大八は憮然と返した。さらに手招き、傍らを示す。

「そこで酒を注いでくれ」

「へえ」


 やはり、大きな女だ。改めて見ると、思っていた以上に太って背丈もある。縦横あわせれば、おのれのゆうに三倍はありそうだ。

 おもんは、ちんのような顔でにっこり笑った。


「旦那さん、どうぞ」


 ふくよかな手が掴んだ銚子が、やけにちんまりと見える。


「何を笑っていなさる」

「俺とおまえが並ぶと、さぞ滑稽だろうと思ってな」


 大八は小兵だ。五尺少ししかない。気にせぬと云ったら嘘になるが、この年になれば諦めもつく。


、おとよ姐さんがお待ちですよ」

「今日は、おまえに会いに来たのだ」

「あたしに、ですか」


 寺で立ち小便を見咎められ、たしなめられた。信濃屋に出ている飯盛女と聞いたが、その場では二言、三言交わして別れた。

 屋敷へ帰って一日経つと、どういうわけかおもんのことが気になった。あの女を抱く男がということに、ひどく興を覚えたのだ。


 何がよいのだろう。道具の具合が格別なのか。変わった芸でもあるのか。おそらくは、何が常ならざることがあって、贔屓の客がついているのに


 敵娼あいかたを渡り歩くことはご法度だ。信濃屋では、すでにという馴染みがいる。遣り手はあからさまに眉をしかめたが、大八は強引にねじ込んだ。


「でしたら、さっさとやることやってしまいましょうよ」


 おもんは続き間に敷かれた布団の上に、樽のような身体を横たえた。裾をめくって膝を立て、どうぞとばかりに、にこりと笑う。大八が動かないのを見て、

「後ろからがよいですか。それとも脱ぎましょうか。構いませんから、なんでも云ってくださいな。ああ、でも縛るのだけは堪忍ですよ」

「いいからこっちへ来い」

「なんなら尻でも」


 真裸になって這いつくばりそうな勢いに、大八は盃を置くと手を引いて起こした。


「生まれはどこだ」

「内神田の新銀町。三べん稲荷の側」


 それがどこなのか、大八には見当もつかない。思いきり引いたせいか片衿が落ちて、白い柔らかそうな肩があらわになる。大八は、知らず喉を鳴らした。


「なんで女郎になった」

「おとうが借金こさえて」

「ここの勤めはどうだ」

「おまんま、たんと食えるから嬉しい」

 と、ぽろっと狆が涙をこぼした。

「どうした」


 ぼろぼろと涙が止まらない。手の甲でこすりながらすすり上げる。白粉を塗って紅をはたいた顔が濡れてまだらになっていく。


「あたしのこと聞いてくれたの、旦那さんが初めてで、なんかうれしくて」


 そういえば、おとよに尋ねたことはなかった。どこの誰なのか、少しも気にならなかった。


(俺はなにをやっているのだ)


 ただでさえ蒸し暑い午後に、狭い座敷で見るからに暑苦しい女と身の上話をしている。事実、おもんの側にいるだけで汗が流れた。


 大八は額を拭い、胸元をくつろげる。

 女の饐えたような体臭を嗅いで、どういうわけか興奮していた。この太った女をおのれは抱けるのか。抱いたらどうなるのだろう。どんな具合なのか。なぜこれほど気が昂ぶるのかわからない。目の前にそびえる、おもんというを征服したくてたまらなかった。


「くじらの旦那は、なんであたしを呼んだの」

「なぜだろうな」


 大八は、おもんの肩口にむしゃぶり付いた。布団に押し倒しながらやわらかな肉を噛み、舐め上げた肌がやけに塩辛かった。

 あとは夢中だった。




 大八の信濃屋通いは続いた。午後の一刻いっときが泊まりとなり、やがて三日流連いつづけて帰ったと思ったら、その日の夜には再びおもんに挑んでいる。


 揚代はかさんだが、大八は気にしなかった。もとより払う気もない。おもんの附けになっていくとわかっていて、それを本人に確かめることもしなかった。


(まあ、いい)


 吾ながら、何をしているのだろうと思う。

 おもんの肉は、両腕でも抱えきれずにこぼれていく。まるで熱い泥のようだ。どれだけ責めても、何をしても従順に応えながらも、ふと気づくと、おのれがその熱に抱え込まれている。抱え込まれて身動きできないことに気付き、おのれこそが抱かれているような気さえして、腹立たしさとともに──安堵するのだ。おもんの腕は太い。柔らかく太く、力強くおのれに絡んでくる。


「くじらの旦那、あたし、もう、死んじまうよお」


 大八は、おもんという崖にしがみつく。指が痺れて落下するまでしがみつく。そうして、終におちていく奥底は、頭のてっぺんまで浸かる温い汚穢おわいのようでもあった。






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