捨て鉢くじら
濱口 佳和
第1話 おもんという名の女
内藤
まだ日も高い。人通りも少なくない。太宗寺は内藤新宿でも大寺であったし、江戸六地蔵の三番として多くの参詣客が通う。
その太宗寺の時の鐘の鐘楼に向かって、大八は悠々と用を足していた。
(俺はなにをしている)
いつものように信濃屋で安酒をあおり、いつものように二階で女を抱いた。とよと云う名の、馴染みの
馴染んだ女の身体に挑みながら、今日の大八は、頭の奥がどうしようもなく醒めていた。
(俺は、なにをしているのだ)
女は顎をのけぞらせ喘いでいた。商売なのか、いつも云うように「惚れている」からなのか、毛羽立った畳に爪を立て、あらぬことを口走っていた。
うだるような夏の午後だ。白粉の剥げた顎がてらりとぬめるようだった。春先の蛙子のようだと思った瞬間、一気に萎えていた。
「
馴染みの女は──おとよは大八の腕へ手を伸ばそうとした。
「触るな」
動いたはずみで外れた。それが帰るしるしだと思った。
おとよは身体を起こして裾を掻き寄せると、崩れた髷に手をやりながら恨めしげな上目がちになった。
「もう一度。ねえ、たまには泊まっていってくださいな」
「ああ」
大八は、階段下でおのれの大刀を受け取った。小兵の大八が持つと、実際より長く、太く大きく見える刀だ。
「また来てくださいよ」
おとよは、ここ何ヶ月かで馴染みになった女だ。具合もいい。いまさらほかの女を物色するのも面倒だった。だから、さっさと抱いて帰る。美形でも
信濃屋を出る時、店の若い衆がなにか云いかけた。ことさら腰のものを見せびらかし、睨みつけた。踏み倒すのは幾度目か。
「また、来る」
甲州街道に出ると、女郎買いの客がうろうろしていた。陽は西に傾きかけているが、暮れ六ツまでに、まだ一刻はありそうだった。
(暑い)
風の凪いだ、陽炎がたつ夏の午後だった。
内藤新宿は南北を武家屋敷に挟まれた、甲州街道第一の宿駅だ。
日本橋より二里(約八キロ)。四谷の大木戸より天龍寺門前の追分まで、東西九町(約一キロ)に渡る。宿駅とはいうものの実態は宿場町で、旅籠屋の二階では飯盛女が客をとる。そういう旅籠屋が五十軒は下らなかった。
後年に云う。
──吉原は鳳凰 四谷とんびなり 四谷新宿 馬糞の中で あやめ咲くとはしおらしや。
これが内藤新宿であった。
内藤大八は旗本の次男である。兄は四谷大番町に屋敷を構える両御番四百石の内藤新五左衛門だ。真面目一徹。加えて、八代公方吉宗公に代替わりした御時世になっても、「武士たる者は斯くあるべし」と、日頃の修練を怠らない。
二男の大八は、内藤家の厄介な荷物である。早々に養子先が決まり身の振り方が立てばよかったのだが、父の早世でそれも適わず、兄夫婦に子供ができた今、一生小遣いをもらって屋敷の隅で飼い殺しとなる身であった。
鯨の大八は、刀にふれたと
それが、内藤大八という男である。
旅籠屋を出た大八は東へ、四谷の大木戸へ向かって歩き始めた。
西へ行き、追分を過ぎれば武州の雑木林と田畠が続く。その向こうは知らない。
大八は腰に熾火を抱えたまま、四谷の兄の屋敷へ帰る気がしなかった。
それで、中町の太宗寺山門を潜った。考えごとをしながら境内を歩くうちに、小便がしたくなった。時の鐘を見上げていると、天頂の空で鳶が輪を描いていた。足元がふらつくのは、信濃屋で飲んだ安酒のせいだろう。
大八は裾をめくると、悠々と用を足し始めた。思いのほか音が響く。背後に幾度も気配を感じたが、咎めだてする者はいない。「鯨の大八」は、界隈で評判の鼻つまみ者なのだ。
大八自身、どうでもよかった。つまむならつまめと居直っている。
(すべて、失せろ)
人ごこちつくと、身なりを整えながら振り返った。
「あれ、まあ。なんてことしなさる」
そこに立っていたのが、おもんだった。
「あれ、まあ。なんて行儀の悪い」
女の口調は、心底呆れたものだった。大八は酔いが一時に覚めた心地で、その女を見返した。
太った女である。まるまるとした身体に、帯がはちきれそうだ。小ぶりの顔立ちのつぶらな目は仔犬のようで、小さな口の下は顎が衿元に埋まるほどだ。
「お侍さま、せめて隅の方でおやんなさい。気持ちいいのはわかるけど、ここには神様と仏様がいなさる。
ずけずけと云われ、腹が立ってきた。
「うるさい。俺の勝手だろう」
わざとらしく腰の長刀を見せびらかす。しかし、女は目を見開いて「まあ」と云うと、けらけらと笑い出したのだ。
「なんだ、女」
凄んで見せるが怖くないらしい。
「大きな刀。真っ直ぐ差していなさると、芋の串刺みたい」
いつもならば勘気を抑えきれず、どなり散らしていたかもしれない。
「そうか。芋か」
大八は毒気を抜かれ、女をまじまじと見返した。
とにかく太った女だ。身につけたものは夜目にもけばけばしい。樽が布切れを巻いだようで、白粉をはたいた顔と手が突き出している。どこかの旅籠屋の飯盛女らしいが、
(こんな女を買う客がいるのか)
潰されそうで息苦しい──そう思いながらも名を尋ねていた。
「もん。おもんだよ。そんで、旦那さんは?」
「大八だ」
思わず、そう答えた。
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