天使の後ろ髪

扇智史

* * *

 晴れた空から、もつれた黒い糸のかたまりが、ふわふわと降ってくる。その様はまるで、ちぎれた雨雲のかけらが、重力に引かれて地上に落ちてくるかのようだ。けれど、糸のかたまりはあまりに黒く、近づけば近づくほど、雨雲と似ても似つかないものであることが知れる。

 複雑で奇妙な形に絡み合った黒い糸が、地面に音もなく落下した。うっすらと熱を帯びているのは、その黒色が陽射しをすべて吸収してしまったせいか、それともとてつもない高度から落下したことによるものか、わからない。

 私はその黒い糸を拾い上げて、きつく握りつぶした。この世で最も頑丈な糸の先端が、手のひらに突き刺さる。鋭くて、肌ににじむ痛みを、私は甘んじて受け入れた。


 千紘ちひろから、携帯端末にメッセージが届く。薄暗い部屋で、光るちいさな画面を手の中で包む。薄っぺらなスピーカーから、千紘の歌が聞こえてくる。私が寂しく思わないように、と、千紘が用意してくれていた予約送信は、この地上から持ち主がいなくなってしまったいまでも、私に声を届けてくれていた。

 音質の悪いかすれた歌に、ピアノの旋律が重なる。その響きは、私の耳の奥にある思い出を刺激する。ぎゅっと端末を握りしめると、手のひらの傷がうずく。


 黒崎千紘は、天使のような子だった。いつでも無垢に笑っていて、地に足のつかないところがあって、ついには空に行ってしまった。

 最初の出会いは、マンションのエレベーターですれ違ったとき。抱っこひもに支えられて母親の胸にしがみついていた私は、もちろんそのときのことは覚えていない。けれど、千紘のほうははっきりと、ベビーカーの中から私に笑いかけた瞬間を覚えていたという。

 それから、私と千紘は、運命の糸で結ばれたみたいに隣り合って育った。幸運にも同じ保育園に入れたことから始まり、幼稚園でも、小学校でも、ずっと同じクラスだった。

 苦労の連続だった。千紘はニコニコしながら教室を離れてどこかに行ってしまい、連れ戻すのはいつも私。体育の授業で転んで鼻血を出した千紘を、保健室に連れて行くのも私。へたくそなピアノをかき鳴らす千紘を、音楽室から引きずり出すのも私。上靴を片方なくしたと困ったふうに笑う千紘の手を引いて、学校中を探し回ったのも私だった。いつも千紘のことが心配で、千紘から目が離せなかった。

 大人たちにねぎらわれるのは私で、だけど、きっと、愛されていたのは千紘だった。


 選別されたニュースが携帯端末に届く。私のために選ばれたそのニュースのひとつは、静止衛星軌道で起こった事故から2年が経ったことを知らせるものだった。

 赤道上空で建造が進められていた軌道リングは、その素材に用いられていた繊維状素材が原因不明の断裂を起こしたことで、ばらばらに崩壊した。リングの破片は衛星軌道を汚染し、いくつかの重要な人工衛星を破壊してしまった。破片がさらに散乱してほかの衛星を破壊する負の連鎖は、未だにとどまる気配がない。地上と宇宙を観測し、世界を通信で結ぶはずだったプロジェクトは、逆に宇宙空間を汚して人類を地上に閉じ込める脅威と化した。

 そして、事故に巻き込まれた人々は全員が行方不明のままだ。軌道上での作業に携わっていた人々も、その設計に関わり、軌道上での建造業務を指揮することを望んだ研究者たちもすべて。彼ら、もしくは彼らの遺体が、どこの軌道にいるのか、あるいは軌道を離れてどこかの宇宙空間を漂っているのかも、なにもわからない。

 全部、既知のことの繰り返しだ。

 千紘がいまどうしているのか、ニュースは何も教えてくれない。端末を握りしめた手のひらから、細い血が流れて、カーペットを汚した。


 カーボンナノチューブとか、軌道エレベーターとか、そういう単語が耳に入り始めたのは、4年生のころぐらいだったと思う。その源は千紘だった。彼女の口からこぼれ出てくるそのふしぎな言葉を、私ははじめのうち、空想だと思っていた。幼稚園のころの千紘はよく想像の世界の話を誰彼かまわず聞かせていたから、またその悪癖が出てきたのかな、というぐらいの気分だった。

 千紘が算数のノートの隅っこに書いていた、よくわからない記号と数字の落書きが、そのよくわからない単語とつながるのだと、私は最初気づかなかった。消した方がいいよ、と忠告したのに、千紘はゆるやかに首を振って、落書きしたままのノートを先生に提出した。

 いい大学を出たのに小学校の教師をしていた担任の先生は、そのノートを写メに撮って、昔の友達に送った。大学の助教をしていたその人は、千紘の親にメールをして、彼女の才能を絶賛し、研究室とやりとりするためのオンライン会議システムを千紘のために用意してしまった。

 それから、千紘は学校に来なくなった。来なくてもいいと言われた、と、本人から聞いても、私は別にずるいとは思わなかった。千紘は天使だから、学校とか私とかみたいなふつうのことに縛り付けられたりしなくていいんだ、と、私はすごく自然に飲み込んでいた。

 空っぽになった机の隣で理科の授業を聞きながら、もう千紘の世話をしなくてもいいんだ、と思ったのを、私はひどくあざやかに覚えている。カーテンの隙間から冬の低い陽射しが薄く室内にさしこんで、細く白い筋を描き出していた。


 ウェブに蓄積された「黒崎千紘」の情報が、端末に流れ込んでくる。

 小学校の時点でずば抜けた数学の才能を現し、某大学の研究室とオンラインで共同研究を始める。その後、彼女の才能は物性・建築・宇宙物理など様々な分野で開花し、多くのブレイクスルーをもたらした。

 黒崎千紘の最大の成果は、カーボンナノチューブの高効率な生産と、その応用であった。特に、彼女の発見した複雑きわまる立体構造を用いたCNT構造材は、繊維のような柔軟性と、常識外れの強度とを両立させ、構造材に革命を起こした。彼女はその構造を「エンゼルヘア」と名付けた。天から不意に落ちてくる、正体不明の糸状の物体の俗称だ。黒崎千紘は、自らの生み出した特殊解を、神からの恵みと考えていたのかも知れない。

 皮肉な名前だ、と誰もが言う。破断した軌道リングの構造材の一部は、重力に引かれて、いまでもたびたび地上に落下し続けているのだから。

 エンゼルヘア構造CNTを利用した巨大建築の設計に、黒崎千紘も参加した。彼女の設計した軌道エレベーターと、衛星軌道を周回するリング状構造体は、人類が宇宙に歩を踏み出す新たな橋頭堡となるはずだった。

 軌道エレベーターの完成とともに、その終着点に作られたステーションは、軌道リング建造のための拠点となる。黒崎千紘も、設計の責任者として、そのステーションへと上っていった。

 そこで、彼女は事故に巻き込まれた。


 平べったい文章の隙間から、私はそこに描かれていない千紘のことを思い出す。

 大学のえらい人と対等に渡り合うようになってからも、千紘は私とも気兼ねなく話してくれた。クラスメートのことや、はやりの文房具やプチコスの話を聞きたがった。私は学校で仕入れたいろんな話を千紘にしてあげた。代わりに彼女が教えてくれる研究の話は、すこしもわからなかったけれど。

 やがて、千紘は正式に大学の入学資格を得て、東京に行ってしまった。その後、中国、インドと次々に生活拠点を移していく彼女は、昔と同じように自由だった。

 そのさなかにも、私はしばしば、千紘に連絡を取った。尋常でなく忙しいはずの彼女は、しかし、こまめに返答をくれた。けれど、日本の地方都市で非正規の公務員になっていた私と、名高い天才研究者である千紘の話題はどんどんかけ離れて、彼我の差は絶望的に遠くて、いつか、私は彼女に声をかけるのが苦痛になっていた。

 運命の糸に縛られて鬱血した指先で、私はそれでも千紘へのメッセージを打ち続けた。


 軌道ステーションの事故の原因について、情報が端末に流れ込んでくる。

 ステーション内での爆発事故説、エンゼルヘアCNTとステーションの構造に欠陥を求める説、観測にかからなかった極小天体の衝突説……このくらいならまだまともな方だ。侵入したテロリストやエージェントによる破壊工作であるとか、極秘のミサイル攻撃、と言う話にまでなれば、もはやただの陰謀論だ。この種の話はブログや動画で無限に拡散され、本質を隠してしまう。そうして、地球周辺の宇宙空間が閉ざされていくよりもはるかに速く、真実は迷妄の闇に包まれていく。

 乱雑な情報の中に、ふと、事故の瞬間、というキャプションが滑り込んでくる。軌道エレベーターの根元、南洋のとある小島で撮影されたという10秒足らずの映像は、手ぶれが激しく、映像のノイズも異様なほど多く、かえってリアリティに乏しい。宇宙への最前線となるべき土地に、ノイズも消せないような古い端末しかないなんて、そんなことがあるのだろうか?

 映像は、軌道エレベーターの根元にわずかな震えが生じることから始まる。現地の人々の声は字幕に翻訳され、火山か、爆発か、と彼らの混乱を伝える。

 しばらく左右にさまよっていた映像が、突然、上を向く。

 彼らの頭上、純白に光るなにかが、空を覆い尽くしている。巨大な鷲の翼が羽ばたくように、光は大きく波打ち、地平線の端へと散らばっていく。目撃者たちのうめくような声は、字幕では「天使だ」と翻訳される。


 最後に千紘と会ったのは、彼女が軌道上に旅立つ直前。

 ひさしぶりに地元の街で会った千紘は、昔と同じに、この世界から半歩ほど浮いているみたいだった。伸ばした髪には年を感じさせないつややかさがあり、肌はきらきらと張りがあって輝いて見えた。ピアスや指輪も、彼女のたたずまいに自然になじんでいた。自分を美しく見せることにてらいがないのだ、と思った。

「しばらく遠くに行くから。さすがに、いままでみたいに連絡取れないし」

 日本を訪れた理由を、千紘はそう説明した。私が寂しく思わないように、と、自分の声を収録したメッセージが定期的に届く仕組みを作っておいたのだという。一年分の時候の挨拶、気象から計測したその日の天気の予想、それに、録りためた朗読と弾き語りの映像。ニュージーランドに渡ってからの10年、毎日欠かさず練習していたという彼女のピアノは、子どものころとは比べものにならないほどうまくなっている。

 だけど、そんなの必要ない。私が苦笑すると「そう?」と千紘は首をひねった。

 ぞっとするほど美しくなった目元を細めて、千紘は告げる。

「……心配だな」

「それはこっちの台詞だよ」

 私はとっさに言い返していた。心配するのは千紘の役割じゃない。集団行動なんてできなくて、周りから浮いていて、目が離せない千紘。それを心配するのが、私の役目。

 ずっとそのつもりでいたし、この瞬間までそれは変わらなかった。

 千紘は私を、じっと見つめた。深い色の瑪瑙のような瞳のなかで、私の、みすぼらしくて田舎じみた姿が、ゆらゆらと揺らいでいる。

 いつのまに、こうなってしまったのだろう。

 遠くに行ってしまう千紘のことをずっと思い続けて、私はいつしか、自分を見失ってしまっていた。そして私は、あわれなひとりの女のまま。

 ねえ、と、千紘が何かを言いかけるのを遮って「元気でね」と笑った。そのあとは何を話したのか覚えていない。ずっと大切だったはずの人との今生の別れを、私はうまく記憶にとどめられなかった。

 次に気づいたとき、私は息せき切って、公園のベンチで座り込んでいた。膝の上にこぼれ落ちていた涙は、自分のものに違いないのに、自分のものでないかのようにひどく冷たかった。

 私と千紘の運命の糸は、その瞬間に断ち切られたのだと思う。


 そうして、千紘は天使に導かれて空へ。私はいつまでも、地上にとらわれて。

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