番外編 ひすい谷の守り人
誰かに呼ばれている?
ユリアはパチリと目を覚まし、大きなベッドの隣で深く眠るルシウスを青い目で愛し気に見つめた。時間は深夜だ。以前ならばユリアが夜中に目を覚めすたびに彼も目が覚めた。彼は眠りが浅いのだ。
しかし結婚して1年、子供がもうすぐ産まれようとしている今は、もう慣れたのかよっぽどうるさくしないと目を覚まさないようになった。
それはやっと彼に隣にいることを認められたようで、ユリアには嬉しかった。
頬から上にはちくちくする栗色の毛が生えている。先は白っぽくて可愛い。ユリアはその姿を気に入っているが、美意識の高いルシウスは自分の姿を大層嫌っているのを彼女は知っていた。彼女がその姿をどれだけ褒めようとも苦笑いで悲しい表情になる。だからユリアは言わないようになった。
『なんて醜い姿だ』
家の数少ない鏡を見るたびに彼がそう思っているのは雰囲気でわかる。
ユリアは彼の
「こちらのほうかしら…」
何かに引き寄せられるように彼女は海辺から岩場に向かって歩いた。
「あら、この道は覚えがないわ?」
所々にぼんやりと
彼女は呼ばれるままに歩いていた。
先に行くほどに海音が止んでいき、耳が痛いほどの静寂がその場を支配していた。
「あら、突き当りかしら」
よく見ると岩場の道の突き当りには、古い小さな神殿の廃墟があった。
そこには見たことのない醜い女神が一体だけ祭られており、首には何十年前に編まれたであろう風化した花飾りがかろうじてかかっている。触ったら一瞬で崩れ落ちそうだ。
「あらあら、これではちょっとですわね…」
ユリアは自分を見たが、もちろん何も持っていなかった。周りを見ても花らしきものはない。
「困りました…」と癖で首元に手を持っていくと、母の遺品の水晶に触れた。一瞬迷ったが、どうするか心は決まっていた。
「…お母様、いいですわよね?だってわたくし今とても幸せなのですから…」
彼女は女神の花輪を優しく取り足元に置いた。そして自分の服の袖で大理石でできた女神像の頭から足の指先まで時間をかけて丁寧に拭いた。
綺麗になった女神像の首に母の遺品の水晶のネックレスをかける。それは万年氷から切り出したばかりのように輝き、透明で不純物が入っていない珍しいものだ。母親の実家の家宝だと聞いている。
「女神様、とてもお似合いですわ。手持ちの花がございませんのでこちらで我慢して下さいませ」
ユリアは彼女に長い祈りを捧げてから、元来た道を戻って行った。
次の日、ユリアはその女神の神殿への道を探したのだが見つけられなかった。地元の人に詳細にその女神の特徴を説明してみたが、不思議なことに誰も知らなかった。庭の花で首飾りを作ったから、お供えしたいと思ったのだが。
「不思議なこともあるものですねぇ…何かの縁かもしれません。いいことをなさったとアガサは思います!」と元気にアガサに言われて吹っ切れた。
「そうよね、もしや寝ぼけてどちらかに母の遺品を失くしただけかもと思うとショックでしたが、アガサにそう言われて納得しました。ありがとうございます」
「いえいえ!そうだ、次の帰省でお母様に聞いてみますね。ここいらの出身らしいので」
アガサの夫の母によると、この浜辺の近くにあるひすい谷には病人の病気を大勢治す代わりに自分がすべての病を引き受け、最後はたくさんの病気を抱えて死んだ女性を祭った社があったと伝承があるそうだ。
あまりに可哀想で切ないので誰もお願いに行かなくなって廃れてしまったのではないかと言われた。もう50年以上も前の話だそうだ。
その話をルシウスにすると、不思議な話だな、と目を細めて言ってから、
「もしや…女神とユリアの波長が合ったのかもしれない。胸元が寂しいなら似た水晶のネックレスを探してやろうか?」と優しい声色で聞いた。
「いいのです。きっと遺品を手放す時期だったのでしょう…もうわたくしも母親なのですから独り立ちするようにというお母様からの伝言かもしれません」と水晶の代わりに大きくなってきたお腹をさすって答えた。
ユリアはもう水晶が無くても大丈夫だった。
「まあ、仕方ないっスよ。ローマのどれほど勇猛な戦士でも、毎日の髭剃りと無駄毛の処理を欠かすことはないっスから。脱毛ワックスを戦場に携帯する奴もいるっス」
ティトゥスが光差し込むペリステュリウムで慰めるようにユリアに言った。彼女のお腹が一か月前に会った時より大分大きいので戸惑っているように見える。なんせルシウスの子供だ、大きいサイズで生まれてくるのは間違いなかった。
「そうなのですが…どうしたらルシウス様にわかっていただけるのか…わたしくは彼の頭を醜いどころか、美美しいとまで思っているというのに…」
「まあ、お子様も生まれますしルシウス様が不安なのもわかるっス…とにかくユリア様がそういったお気持ちでいるので、それだけでルシウス様も救われるのではないでしょうか?」
「ティトゥス様…そうですね、おっしゃる通りです。わたくしが傲慢でございました」
ユリアが反省するようにティトゥスに頭を下げると、彼は真面目ぶった顔を崩してニヤニヤした。
「いえ、傲慢などと、そんなことルシウス様は思っていらっしゃらないっス…そうっスよね?」
ティトゥスは、のそりとユリアの背後で聞き耳を立てていたルシウスが現れたので確認した。
「当たり前だ!…ユリア、お腹に赤子がいるというのに、そのような事で想い悩ませていたとは…俺が頼りないばかりに申し訳ないことをした、許せ。あと、いいかげん俺のことはルシウスと呼ぶのだ。いつになったらこの愛しい女性は俺を伴侶と認めてくれるのかとやきもきしているのだぞ」
ユリアの背後から抱き着いて細い首筋にキスした。獣頭の為にわかりにくいが、彼が怒っているのがユリアたちにはわかった。
彼は不甲斐ない自分自身に怒っているのだ。冗談を言って誤魔化してはいるが、彼の身体が燃えるように熱い。彼は女々しい自分を呪ってさえいる。
「ルシウス様、いつの間に!申し訳ございません、
「ふう…おまえの方がよっぽど
「そ、そんな意地悪を言わないで下さいませ」
「では、ルシウスと呼んでくれるな」
ルシウスはユリアの赤く色づいた
「は、はい…ルシウス…」
ルシウスは胸の奥がキュンとなって甘いものでいっぱいになって苦しくなった。
なぜだろう、彼女といるといつもこんな気持ちになるのだ。名前を呼ばれただけで甘く苦しい、そんな気持ちは彼女と出会ってから知った。それは結婚してからもずっと変わらない。日に日に強くなっているくらいだ。
そしてルシウスはユリアの前では決して獣人の頭を気にする素振りは見せないと自分に誓った。そうでないと、無駄な心配をさせてお腹の赤子に悪い影響が出そうだ。
周りの男性と同じく
「ルシウスさ…難しいですわね、呼びにくくて大変ですわ。やはり様付けでは…」
「ダメだ。俺にユリアの夫だと思わせてくれないのか?ん?」
食後に二人はいつもの夜の海を散歩していた。その夜は月が彼らの足元を明るく照らしているのでルシウスは安心だった。なんせユリアには運動神経がないようなのだ。
医者からは適度な運動を勧められている。
ルシウスが困り切ったユリアに意地悪を言うと、はにかんだようにユリアが笑う。
どうしてこの女性は生まれてくる子供に不安を抱かないのだろう、とルシウスは不思議に思う。
もし生まれつき獣人だったら?
子どもは大きくなって俺の頭をどう思うだろうか?
獣人の俺を親に持ったことを成長して恨むのではないか?
彼女に聞きたいが聞けない。
聞いてどうする?
ルシウスは自分の人生でこれほど恐怖を感じたことがなかった。あえて言えば、彼女が死んでしまった時の事を考えると近いものがある。しかし。
ルシウスがユリアをじっと見つめて考えていると、ユリアが急に砂浜の上に座り込んだ。
「おい、冷えるぞ…」
「ちょっとだけお話をしませんか?大事なお話です」
彼は背筋がヒヤリとしたが、彼女の真剣な顔を見て向き合うことにした。いつも彼女はまっすぐルシウスと向き合おうとしている。そこからいつも何かと怖がっては逃げているのはルシウスだった。愛しい女性がこの世界で一番怖いと知ってしまった。
「わかった。なんだ?」
ルシウスは彼女のすぐ隣の砂浜に座り、彼女を抱き上げて自分の上に乗せふわりと抱きしめた。これなら冷えないだろう?と彼が言うと、彼女は大きなお腹をしながらも少女のように恥ずかし気な素振りを見せたが、すぐに切り替えてルシウスの目をしっかり見た。
「ルシウスは不安なのですか?最近元気がないように見えます。もしやですが、子供に獣化が出ないか心配しているのでしょうか?貴方が辛いのであれば、子供は情が移らないうちに生まれてすぐに里子に出しましょう。誰か知り合いに養子として出して成長を見守ればいいのです。わたくしはルシウスとの家族を欲しがりましたが、それはわたくしが死んだ後に貴方が寂しくないようにと思ってのことです。本当はルシウスがいたらそれで十分以上に幸せなのですから。…子供が出来たと告げた時もあまり嬉しそうではなかったですよね。わたくしの心得違いで本当に辛い思いをさせてしまい申し訳なかったと思っています…」
「ユリア…おまえ…そんなことをずっと考えていたのか?」とルシウスは信じられないように腕の中の女性を見る。ユリアはゆっくり頷いた。
その時、ルシウスは初めて彼女に出会ったような気がした。
今まで彼女は真っ直ぐで正しくて優しい人間だと思っていた。しかし、今目の前にいるのは自分の子供はどうなってもいいからルシウスだけを深く愛しており、一緒にいたいと言っていた。子供よりもルシウスを選ぶと。自分がどれほど子供が恋しくて辛くなってもいいからルシウスを選ぶと言う女だった。
「すまない…ユリア。俺はおまえを見くびっていたようだ。おまえを絶対に幸せにするとガイウス様に誓ったのに情けない…。ユリア、聞くのだ。俺はおまえと子供を死んでも守る。どれだけ心や身体が傷付いて血がどれだけ流れてもだ。わかったか?」
「…はい。ルシウス…わたくし、そのお言葉がとても嬉しいです…」
彼女の顔を見て、ルシウスはユリアの止まらない甘い涙をチュッと音を立てて吸った。その月明かりの下、驚くべきことに彼の頭はいつもの獣人のではなく、元の人間のになっていた。ユリアは息を止め、その初めて見る顔を凝視した。もう二度と見られない気がしたのだ。その顔はどこか優しかった兄、アウルスに似ている。
ユリアはあの水晶をかけて祈りをささげた女神の気配を身近に感じながら、幸せに身を浸していた。
ハズレくじだと思われるなんてまっぴら御免です!~貴族令嬢はご主人様の正しい奴隷になりたい 海野ぴゅう @monmorancy
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