最終話 永遠なるローマ

 ユリアがスキピオ家に滞在して5日目、朝食の後にルシウスが突然迎えに来た。なんせ彼の実家である。


 ユリアは初め彼の事を想い過ぎる余りの幻かと思ったが、触れたら本物で驚いた。久しぶりの愛しい旦那様は少し、いや、全く元気がなく生気がザルからこぼれて抜け落ちたようなげっそりした顔をしていた。


「まあ!ル、ルシウス様、どうなさったのです!?お仕事がお忙しいのですか?大層お疲れのご様子…」

「おう、大丈夫だ。ユリアは元気そうだな…も、もうそろそろ、帰ってくるかと思って寄ったのだ。仕事でこっちに来たので、ついでに拾って帰ろうと…」


 もちろん嘘である。


 仕事などないが、ポンコツになったルシウスにしびれを切らせたティトゥスに怒られて恐る恐る迎えに来たのだ。ユリアがもう二度とローマから帰って来ないのではないかと杞憂きゆうし、毎日息を殺して悪い知らせを待ち岩のようにじっと過ごしていたルシウスだった。


 あまりの嬉しさに立ち尽くすユリアに代わってポンポニアが応戦代わりのあいさつをした。


「まあ、ルシウス様、おはようございます。ユリアを長らく御引止めして申し訳ありません…いろいろ聞きたいとユリアが言うので、教えておりました。ルシウス様ならきっと?」


 ポンポニアからの強い挑戦と脅迫を感じてルシウスは半歩後ずさったが、なんとかぐっと持ちこたえた。ポンポニアの後ろにはいつのまにかニヤニヤするプブリウスもいる。


(この女性、熟練の百人隊長より強いっ…弱っているとはいえこの俺が負けそうだ…プブリウスおとうとよ、援軍にはなってくれないのだな…っ)


「もっ、もちろんだ。いろいろご教示頂いたようで申し訳なかった…」


 ユリアのとってルシウスはローマの益荒男マスラオ、神に近い存在なので、自分の為に迎えにくるなど、仕事のついでであっても信じられなかった。

 ユリアは嬉しそうにポンポニアのことを話した。


「ポンポニアはプブリウス様との赤ちゃんがお腹にいるのです!今度二人で来るときはたんまりお祝いを持って参りましょう!!なにがいいでしょうか…」

「…そうだな…」


 ルシウスはユリアから目を逸らし、ポンポニアのお腹をじっと見た。

 



 帰りの馬車でユリアはルシウスの手をぎゅっと握っていた。しかし二人が考えていることは全く違った。


(よーし、今夜こそルシウス様のを引き出して…あれほどポンポニアにも教えて頂いたのですから、絶対に所存です!)


 意気込みで鼻息まで荒めになったユリアに対し、ルシウスの顔は青白く消沈していた。


(あんな嬉しそうなユリアを久しぶりに見た。俺と帰りたくなかったのかもしれない。もしやユリアは…実家に帰りたいのではないだろうか…あの海辺の別荘では気軽に友人と話すこともままならない…俺がローマにいたくないせいで彼女をまわりから隔離しているようなものだ…)


 ガイウスにも挨拶しにいくと、義父は特別嬉しそうにルシウスと昼食を取った。新婚ほやほやなのに嫁を実家に顔を出させるなど、なんと気が利く息子であろうかと感心していたのだ。

 まさか二人がまだ、なんて考えつきもしない。

 そんな自分を下にも置かぬ勢いでもてなすガイウスにも申し訳なく、ルシウスはますます落ち込んでいった。




 別荘に着くなりルシウスは高熱で寝込んだ。老執事マルクスも驚くくらい久方ぶりの熱だと聞き、ユリアももちろん死ぬほど心配してつきっきりで看病した。


「ルシウス様、ゆっくりなさって下さいませ。身体にたまっていた悪いものをすべて出すまでは起きてはなりません」と医学の心得がある老執事マルクスは優しく二人の前で言った。


「申し訳ありません、お仕事で忙しいのにわたくしがお手を煩わせてしまったせいで…」


 泣きそうな表情で看病する彼女の頭をぼんやりと撫でながら、弱気になったルシウスはこの結婚をすでに後悔し始めていた。




「では行ってくる」


 ルシウスは元気になったらすぐさま商隊に参加して家を空けた。

 なんだか顔色もつやつやして別人のようだ。


「むむぅ…もしや家にいるよりも仕事で外にいる方がルシウス様には楽しいのかもしれませんね。生き生きしてますもの」とアガサに言われ、彼女もそう思っていたので悔しくて仕方なかった。

 もちろん病人の寝込みを襲ってコトに持ち込むことも出来ず、ポンポニアから伝授された技は使えずじまいだった。


(…そうですわ!二人の寝室を作れば、きっと首尾良くのではないでしょうか?!愛しみ合っている夫婦なのですもの、同じ部屋に住むべきではないでしょうか?いや、住むべきです!わたくしの両親も同じ部屋で寝起きしていましたもの!嫌だわ、なぜ今まで思いつかなかったのでしょう?!)


 ユリアが青い目を輝かせて老執事に相談すると彼も大いに賛成し、さっそく大工を呼んだ。彼はユリアの事を奥様と呼び、ルシウスと同じくらい大切に考えるようになっていた。なんせもう大事なルシウスの妻なのだ。

 ルシウスが商隊に同行している間に3部屋を繋げる大掛かりな改装をしてしまうことになった。ルシウスの部屋、二人の寝室、ユリアの部屋だ。




 ルシウスが家を空けて1か月後、仕事から帰ってくると部屋が様変わりしていた。仕事室の隣に二人の寝室と向こうにユリアの部屋がつながっているのを見て獣人はのけぞった。


「な、なんだこれはっ…」


 寝室のど真ん中にはどでかいベッドがどーんと存在感を放っていた。明らかに特注だ。


「奥様のご指示で改装致しました。とても御悦びでございますよ」


 暗に女性の喜びに水を差さない方が宜しいですよ、と老執事のマルクスに釘を刺されてルシウスは背筋に汗が流れるのを感じた。仕事で野営していて盗賊に襲われたとしてもこれほど恐怖しない。月のない深夜の海で海賊に襲われたとしてもだ。

 ずっと逃げ回ってきたが今夜はこそ逃げられず戦わなければならないだろう。夜の決戦を思うとくらくらとめまいがした。しかしそんな悩めるルシウスに容赦なく神は畳み込んだ。


「お帰りなさいませ、ルシウス様!庭仕事をしていたのでお風呂に入っておりました。お出迎え出来なくて申し訳ありません」


 ノックの後すぐにバタンとドアが開けられ、風呂上りから走ってきたユリアは顔を上気させて入ってきた。今夜どころではない、昼間っから強敵の急襲だった。ベッドを見て色々想像していたせいで、ユリアの様子がかなり刺激的に見える。


「いや、大丈夫だ。庭仕事で疲れただろう、おまえはゆっくりしていればいい。俺はちょっと急ぎの用事があるから…」


 ルシウスが言っているそばから、ユリアは問答無用で彼に抱き着いた。洗いたてのユリアの香りでめまいがした。彼らを見て執事がおやおやといった体で少し笑い、そっと姿を消した。


(おい、マルクスよ、このタイミングでいなくなるんじゃない!お、落ち着け、ルシウス、心と身体を鎮め…精神統一するのだ!)


「ルシウス様がいらっしゃらなくて寂しかったのです。口づけしても宜しいでしょうか?」


 上目遣いでユリアに言われて精神統一も吹っ飛びそうなルシウスは、彼女をべりっとがした。これ以上密着すると下半身の大きな異変に気が付かれてしまうだろう。


 彼は獣化した自分が彼女に無茶をしないか心配で手を出すのを恐れていた。ユリアが傷つくのだけは我慢がならない。それも自分によってなされるなど絶対に許せなかった。

 しかし子供を欲しがる彼女を見て、ユリアを自分のもとに縛り付けるのは良くない事ではないか、帰ったら離婚を勧めたほうが彼女の為ではないかとまた一人で勝手に結論付けていた。


「いや、今帰って来たばかりだ…そうだ、仕事してから風呂に入るから、また夕食後にゆっくり話を…」


 モゴモゴ言い訳を言うルシウスにしびれを切らしたユリアは、彼の上半身を自分の方に引っ張り傾けて唇を塞いだ。だんだん深く重なっていく唇と彼女の鼻から抜ける甘い吐息にルシウスは理性が見事に吹き飛んた。




「どうでございましょうか、このお部屋?これならいつもルシウス様の側にいられますから…勝手に申し訳ございません」


 ベッドでシーツにくるまれながら恥じらう彼女が言うと、なぜかルシウスまで酷く照れながら「…ユリア、嬉しいぞ」と礼を言った。

 昼間、というのも二人の恥ずかしさを冗長させた。彼の顔からは無事にコトを終えられた深い安堵の表情が見られる。


「ここの別荘は祖父との思い出の場所だ。おまえの好きなように改装してもらって構わない」


 この別荘はルシウスの祖父である大スキピオが建てた農場の小屋風の別荘を改修したのだと説明した。


「そうでしたの…おじいさまとの大事な…」とユリアが言うと、


「おまえをこの場所に連れてきたかった。俺の大切な場所だから…な」とルキウスは照れ臭そうに答えた。獣人の為一見感情が乏しい顔だったが、彼女は口の形、声色、仕草で大分と感情の動きがわかるようになっていた。


「…嬉しい!わたくしルシウス様がいつになっても手を出してこないから、自信なくしておりました。もう年齢があれですし、魅力がないのかしら、って」

「バカな!おまえ以上に魅力があるものなどこの世にいないっ…そうだ、身体は辛くないか?無理をしてはならんぞ」


 ユリアを気遣かわしげに覗き見るルシウスは、先ほどまで彼女を手放そうと悲愴な決意していた人物と同じとは思えないくらい幸せに満ちていた。

 幸せいっぱいなのはユリアも同じだった。自分が女としての魅力に欠けるからいつまで経ってもことができないのでは、という疑いがいつも頭の隅にあったのだ。

 

「いつも辛いのです…わたくし、ルシウス様を愛しく想い過ぎて毎日が辛い。でも今はローマに生まれてあなた様に出会えて、本当に良かったって思うくらい幸せでもあります…ヘンですわね?」

 

 ルシウスはあまりに愛し過ぎて彼女をまるごと食べてしまいたいと思いながら、口づけを何度も額や顔中に落とした。




 しばらくして二人の間には元気な男子が続けて3人産まれた。

 子どもが小さなうちは便利なローマのガイウスの家に住んでいたのだが、どうしてもあの海辺の別荘が懐かしくなり、いつの間にか一年の半分を海辺で過ごすようになっていた。


 子供が大きくなりユリアの父が亡くなると、二人は子供たちにカエサル家を任せて別荘に隠遁した。毎日散歩したり泳いだり、子供が来ると家族で狩りをしたりして過ごすようになった。ユリアは運動神経は鈍いが、集中力があるので弓は得意なのだ。

 別荘には生けも家畜の農場もあり、なによりユリアとルシウスはお互いがいれば満ち足りた暮らしが出来た。不思議と他の異性には全く心惹かれることがなかった。


「これこそローマ人の憧れの生活だ。農場と永遠の恋人かあれば、他に何が必用と言える?」


 ルシウスがユリアにそう言うと、決まって彼女は彼の年をとって毛が細く柔らかくなったモフモフな頭部に頬ずりし、


「そうね、わたくしは素敵な狼さんがいたら何もいらない。でも、絶対に私より長生きして。約束よ」とお願いした。


 ユリアは自分が年をとってわかったことがあった。

 早くに亡くなった母をずっと可哀想だと思っていたが、本当に可哀想なのは父ガイウスだったのだ。愛する人を失くして生き続ける悲しみは残されたものだけのものだ。ユリアはルシウスが先に亡くなったらと考えるだけで真っ暗な穴に無限に落ち続けるような心持ちになるのだった。




 そして約束は果たされた。


 ユリアは45歳の冬に流行り病を得て亡くなった。その1か月後、ルシウスも後を追うように亡くなった。子供たちの制止も聞かず、飲まず食わずで彼女の墓のそばを離れなかったのだ。

 彼が亡くなった時、不思議だがルシウスの頭はなぜか人間のそれに戻っていた。子供たちは神聖な気持ちで初めて見る父の顔を長い時間見つめていた。その表情は穏やかで苦しみのかけらもなく、悲しむ子供たちに幸せな気持ちで亡くなったことを伝えていた。

 ルシウスの手首には数枚の桜貝が残る古びたブレスレットと、ぎゅっと手のひらに握り込まれた水晶のネックレスがあった。





















神に進化した人間


人間は今、神を目指し、神になりつつある


壁になっていた3つの厄災

中国でも、インドでも、エジプトでも、ヨーロッパでも、人類は同じ3つの問題で頭がいっぱいだった


飢饉

疫病

戦争


これらがつねに取り組むべきことのリストの上位を占めた

人類に突きつけられた課題



その3つの大敵を克服しつつあったのが第2次大戦後の現代社会だ




しかし誰も予期しなかったことが起こった


2020年初頭に中国で感染爆発が起き

その後世界中に広がってパンデミックとなった新型コロナウイルスによる感染症だ



私たちは幾度となく人類を襲うウイルスに打ち勝つ必要があるが、どのような人も敵とみなされることがあってはならない


≪ユヴァル・ノア・ ハラリ氏の言葉≫

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