第33話 まだまだ困った二人

「本当にいいのだな?今ならまだ間に合うぞ」


 バイアエの旅行から無事に帰り(相変わらず二人はからユリアの目的は果たしていないが…)、婚約期間中にしつこく何度も確認するルシウスをユリアが押し切るような形で契約通りの半年以内に結婚を役所に申請した。晴れて法の下、二人は夫婦となった。


 ユリアの父・ガイウスは十分な持参金を用意したが、ルシウスはがんとして受け取らなかった。


「彼女をもう二度と金でやり取りしたくないのです。持参金などなくとも必ず命に代えて大事に致しますゆえ…もしガイウス様が娘の肩身が狭いだろうとご不安であれば、あかしとしてすべての資産を彼女の名義に致しますゆえ」


 ガイウスは婿・ルシウスを見て自分が妻と結婚した時を思い出した。彼は当時のローマで奴隷身分であってもおかしくない辺境部族出身の女性と結婚したのだ。

 感動したガイウスは、ルシウスにユリウス家の行く末を頼み、自分が死んだ暁には全ての遺産をルシウスに与えるという遺言書を渡した。


 やたらと面倒な貴族の結婚の儀式はせず、海辺の別荘に友人のラエリウスとポンポニア、弟のプブリウス、部下のティトゥス、ルシウスとユリアの親など両家の少ない親戚を呼んで豪華な宴会をして式の代わりとした。もちろん厨房の二人とアガサが何か月もの準備をして料理に力を入れたのは言うまでもない。

 カエサル家からも料理人の応援を呼び、近場の都市の市場にある目新しいものはすべて購入して運ばせた。別荘の生け簀の魚やナマコ、農場の家畜はどんどん消費されてとうとう底をついたほどだ。




「ねえ、お父様。もうそろそろローマに戻りませんと…元老院のお仕事もあるのでしょう?ね、そう致しましょう!」


 ルシウスの父はさっさとかつらを撫でながら帰って行ったが、ユリアの父はルシウスを『私の息子よ』と連呼して毎日毎晩ご機嫌になっていた。

 要するに酷く彼を気に入っており、式後1週間も滞在して毎晩ルシウスと酒を飲み連日連夜二人の初夜を妨害したので、ユリアがとうとうこらえきれずに追い返した。

 プブリウスとポンポニアもガイウスのお付き合いでいてくれたので、3人は共にローマに帰って行った。ラエリウスは親友の結婚に感激しながら、式後3日ほどで帰っていた。


 やっと別荘が静かになり、二人は以前の生活に戻っていた。




 そして1週間が経ち、ユリアは首をかしげていた。

 

(あらら?これでは婚約した時と同じではないですか!デジャヴですっ!!ルシウス様はいつわたくしと結ばれるおつもりなのでしょう?)


 とりあえずもう1週間は大人しく待ってみたが、彼が夜にユリアの部屋を訪れることはなかった。お願いすればたまにぎこちなく軽いキスはしてくれるのだが、それだけだ。



「仕方ありません、強硬手段ですわっ!」


 待ちきれないユリアが真夜中にルシウスの部屋を訪れた。しかし聴覚が優れているルシウスは一足先に部屋の明かりを消してびくびくしながら寝たふりをしている。


「ルシウスさまっ…もうお休みでございますか?…返事がありませんわね。灯りももれてないですし、もう寝てしまったのでしょうか…」


 その夜、何度かドアをノックした彼女は諦めてとぼとぼと自分の部屋に戻って行った。ルシウスはベッドで心臓が壊れるかと思うくらいにビビり、シーツを破れるほど握りしめていたのは言うまでもなかった。


(戦場でもこれほど緊張しない…いや、戦場のローマ陣営のほうが要塞のように強固な設計でゆっくり眠れたものだ。しかし、ユリアのことだ、明日から毎晩夜襲がありそうだな…早いうちに商隊の仕事を組んで安全な場所に退却しないとダメだ、俺がどうにかなってしまう!)


 ルシウスはユリアを避ける段取りを夜通ししたので、昼間仕事にならなかった。



 次の夜、彼女はもう少し早い時刻に部屋を訪れた。それもスリッパを履かずに素足でこっそりと来るという念の入り様だ。しかし感覚が鋭敏なる獣人ルシウスは彼女が接近していることに気が付いており、昨夜と同じく灯りを消して寝たふりをしていた。今夜もこれでなんとかやり過ごそうという算段だった。


「あの…ルシウスさま…?もう寝られましたでしょうか…」


 小さくノックをして、返事がないのでユリアはするりと部屋に入った。ルシウスは彼女が部屋にまで入ってきたので頭がくらくらした。夫婦なので当然だが、どうしたらいいのか、全くいつもの迅速な判断もできない状態だ。固まっていたら、


「あの…ルシウスさま?ベッドにご一緒させて頂きたいのですが…」といってユリアが布団におずおずと遠慮がちに入ってきた。そして、横を向いて丸まる彼の正面に横になった。

 向き合った彼は仕方なくゆっくり目を開けた。目の前には美しい妻、ユリアが恥ずかし気に、しかし真っ直ぐに彼の目を見つめていた。


「どうした、こんな夜中に?」


 本当はどうしたもないのだが、それしか言葉が出ない。それに、それほど夜中でもなかった。ティトゥスならこのやり取りを聞いて笑い転げただろうが、ユリアもルシウスも真剣そのものだ。


「あの…わたくしはルシウス様のつ…妻!になったのです。ですので…あの…」


 彼女がピタリと彼に身体を押し付けて首に手をまわし、ゆっくり口づけした。あまりに彼女の唇も身体も柔らかく、甘い匂いがした。そしてユリアはポンポニアに教えてもらった通りにした。

 つまりはおずおずとゆっくり入ってきたユリアの小さな舌にルシウスの心臓は今までで最大の音を立てた。破裂しそうだった。小さな生き物が無防備な彼の口内に侵入する。


(もうダメだっ…耐えられない…っ)


 彼の舌先に彼女のが触れた瞬間のあまりのすさまじい衝撃にルシウスは完全幸福、いや、降伏した。つまりは意識を失った。

 ユリアは、コテンと電池が切れるように寝てしまったルシウスを目にしてため息をついた。


「…お仕事でお疲れなのでしょうか?それともわたくしの魅力不足でしょうか?…しかし諦めませんっ!カエサル家に諦念ていねんはございませんのよ!覚悟なさって下さい!!しかしこれはわたくしではいつまでも解決できそうにありませんわ…」


 ユリアはこそりとベッドから出、部屋に戻って灯りをつけゴソゴソと夜中に作業を始めた。

 なんだか似た者夫婦なのである。




「おはようございます、ルシウス様。わたくしちょっと用事がございますので、ローマに行ってまいります。お父様もそろそろ寂しいかと思いますので…」


 遅れてきたルシウスは朝食の席に着く前にユリアにそう告げられ、5センチほど飛び上がった。自分がユリアを拒否してきたためにとうとうローマに帰ってしまうのだと思ったのだ。


「そ、そうか…ガイウス様に、よ、宜しく伝えてくれ…」


 主人が倒れ込む様に朝食の椅子に座るのを見て、マルクスはけげんな表情をしている。老執事は敏感だが、まさかルシウスがユリアに手を出せずに悩んでいるなど思いつきもしなかった。

 浮気をされていたとはいえ一度は結婚までしていたルシウスなのだ、とっくにユリアにいたしていると思い込んでいる。それゆえにこそのユリアの深い愛情だと。


「はい!ご家族やプブリウス様にお手紙などありましたら一緒にお持ちしますが?」


 元気いっぱいのユリアに行くなとも言えず、ルシウスは真っ青の苦い顔で、「おう…今はとりあえず、ないな」と答えた。


 いつ帰ってくるのかを知りたかったが、もちろん怖くて聞けない。出来るなら一緒に行きたいが、ルシウスに怒ってか呆れて実家に帰るのだから断られるに決まっている。

 良いか悪いか、真っ青になっても顔の上半分にはみっちり毛が生えているのでわかりにくい。


 こっそりユリアを見ると、彼女は真剣な表情で朝食の焼きたてパンにバターを塗って食べていた。アガサが作るこの朝食パンは胡桃と干し葡萄がたっぷり練り込まれており、ユリアの大好物なのだ。

 ルシウスはこっそり重々しいため息をついてから、コップ一杯の牛乳を一気に飲み干した。朝食は食べられそうになかった。




「…ってことなのですが、ねえ、ポンポニア…これってどう思いますか?」


 ユリアは気の置ける友人、ポンポニアの固まった顔を無邪気に覗き込んだ。


 ローマの実家に着いて手紙を出したら妊娠したのがわかったとのことで、お祝いがてら泊りで相談に来ていた。それもユリアも何度も訪れているスキピオ家にだ。

 そう、彼女はすでにプブリウスの妻となっていた。彼はバイアエ旅行から戻ったその足でローマのポンポニアの父に結婚のお願いに向かった。

 結婚してもいつまでたっても妊娠させない娘の夫に種なし疑惑の目を向けていたポンポニアの父は、渡りに船とばかりに喜び勇んで離縁の手紙を書いた。

 時代は古代ローマ、娘は父親の所有物であり、手紙一つで離婚ということもあった。

 もちろんポンポニアは彼と夫婦になれるので飛び上がるほど喜んだ。何と言ってもユリアと姉妹になれるのだ。


 彼女は堂々とした妊婦でありユリアは安心して相談したのだが、その結果彼女の調子を崩したかと思って心配になった。しかし違った。ポンポニアはルシウスが今までユリアに手を出さないのは誠実な気持ちの表れだと思っていたのだ。しかし…


「結婚したのにないって…まさか…あ、でもルシウス様には二人もお子様がいらっしゃったわよね?」

「はい。しかし、アエリウス様情報ですとお子様は奥様が外で作ったらしいの」

「…それってルシウス様ってインポ…あのすごい身体で?!信じられない!!」

「インポ…?なんですの、それは?」


 ポンポニアは少し青くなった真剣な表情でユリアを見た。


「ユリア…あなたはルシウス様の事がとても好きなのよね?だから言うけど、彼は性的に不能なのかもしれません。もし…もし、ですが、これをしてルシウス様の反応がなかったときは、性行為は諦めて二人で愛情深く生きていくか離縁するかです。子供が欲しいならば養子を取ればいいのですからね」


 そう言って、ポンポニアは本棚の裏に隠すように入れてあった薄い冊子を取り出してきて、おもむろにユリアの前で開いた。そして、そのなかの『これで彼もやる気満々…』という項目を見せながら、頭が沸騰しそうなユリアに教えた。


「実はプブリウス様はとても女性経験が豊富そうだったので、私も勉強したの。効果抜群だったわよ!ユリア、健闘を祈るわ、頑張って!!」


 ポンポニアの熱を帯びた目をじっと見据え、ユリアは背中に汗をかきながら大きく頷いた。プブリウスの裸なら偶然見てしまったけど、ルシウスのは想像もつかない。


(ひゃあ…わたくしとルシウス様がこんなこと…本当にできるのでしょうか?こんな難しそうなこと…運動神経がないわたくしでも可能なのかしら?)


 ユリアは経験もなくかなり不安ではあったが、やるしかなかった。何度も言うが、カエサル家の辞書には『諦め』という文字はないのだ。

 真っ赤になったユリアは頭を沸騰させながら胸元の水晶をぎゅっと握りしめ、泣きそうになりながらも少しずつページをめくった。

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