走馬灯

守宮 泉

走馬灯

 入館三十分待ち。そんな貼り紙をしたのは、何十年ぶりだろうか。織江は入り口の前にできた列を見やり、小さくため息をついた。嬉しくはあったが、年のせいか早くも疲れている。午後になってさらに増えるだろうお客に、こんな顔を見せるわけにはいかない。腰に手を当て、大きく伸びをする。視線の先で風見鶏がくるくる回っていた。

 相模原博物館は、この地域では名の知られた実業家、相模原博隆の個人的収集物を展示した小さな博物館である。建物も築百年を越えており、外観は明治の頃のまま。中は改修しているものの、モダンな雰囲気が色濃く残る。博隆の孫である織江は二十年以上、館長を務めていた。

 だが、それも今日で終わりだ。来館者が年々減り、維持費を賄えなくなってしまった。ひっそりと閉館日を迎える予定だったのだが、なぜだか客足が絶えない。最近雇ったアルバイトの平木がやけに写真を撮っていたことと関係があるのだろうか。

 受付に戻れば、彼はてきぱきと客の応対をしていた。近所の大学で史学を専攻している、と聞いたのは二年前。あんまり熱心に収蔵品を見ているから、こちらから声をかけたのだ。来館者がいなくても収蔵品の管理は必須だ。織江も還暦を過ぎ、体力の衰えを感じていた。最初は体力仕事だけのつもりが、今では大抵の業務を任せている。よく働いてくれるいい子だ。

 その彼が、数人の女性と話し込んでいる。うーんと唸って頭を掻いた。

「何かあった?」

「あ、館長。戻ってたんですか」

 織江を見上げた顔は、困ったようにしかめられている。 

「ガイドしてくれっていうお客さんがいるんですけど……そんなシステムうちにはないですよね」

「あら、いいわよ。今手が空いてるし」

 本当はお茶でも入れて一息つきたかった。だが、興味を持ってくれる人の期待には応えたい。なんといっても今日で最後なのだから。

 平木は何度か目を瞬かせたあと、「じゃあお願いします」と言って女性の方に向き直る。

 エアコンの風が汗ばんだ額を撫でていく。乱れた髪を右手で整えてから、館内への扉を開けた。

「長い間、ありがとうございました」

 夕方の空はまだ明るく、ピンクやオレンジに染まった雲が山の端にかかっている。コウモリが飛び始め、もうすぐ闇に覆われることを告げていた。

 最後に送り出した客は、近所に住む三俣という男だった。定年後の暇つぶしか、収蔵物を見るというよりはただ話をしに通ってきていた。

「いやあ、いよいよ最後かと思うと真面目に見学しちゃったよ」

 三俣さんが黙ってるところ初めて見ましたよ、なんて平城が茶々を入れ、思わず苦笑する。彼の話は長いから、うんざりしていたのだろう。ラジオみたいで織江は気に入っていたのだが。 

「ここに来れない日が来るなんて、まだ信じられないな。本当に閉めちゃうのかい?」

「もう、決めたことですので」

「そうか……残念だねえ」

 三俣のような意見はたくさん聞いた。特に、閉めることになったと貼り紙をしてからだ。ガイドをした女性客も、もったいないと口々に言った。

 織江も閉めるのは本意ではない。けれど、続けたとして状況がよくなる保証はどこにもない。人間も建物も老いていく。皆、いつかはなくなってしまうのだ。

「では、」

「さっちゃん待って!」

 長いからと、相模原の「さ」だけ取った愛称。織江は館内に戻る足を止めた。振り返れば、彼と目が合った。自慢のふさふさした白髪が風に遊ばれて揺れている。

「あのね、僕、僕は……」

 その様子を一瞥すると、平木はさっさと中に入ってしまった。残された織江は彼と相対し、ふう、と小さく息をついた。

「三俣さん」

「な、なんだい」

「申し訳ありませんが、私は――」

「お袋、なにしてんの」

 断りの口上は、闖入者によってかき消された。門の外にはいつの間にか車が止まっている。その窓から、三十代ぐらいの若い男が顔を出していた。織江の息子、啓治だ。三俣の全身に視線を送り、

「セールスならお断りします」

「セールス? 僕が?」

 その言葉にびっくりしたのは言われた三俣だ。すっとんきょうな声を上げて、体を車の方に向ける。

「あなた以外に誰が?」

 二人の間に剣呑な空気が流れ始め、織江は急いで割って入った。

「啓治、違うの。この人は近所に住んでる三俣さん。今日最後のお客さんよ」

「ああ、そうだったんですか。失礼しました」

 車から出た啓治は、先程とは打って変わってにこやかな笑みをたたえている。

「どうも、ご来館ありがとうございました」

 三俣は少し口をまごつかせたあと、「じゃあ」と言ってその場を去った。彼の姿が見えなくなって、織江はほっと息をつく。近所に住んでいるからこれからも顔を合わせることになるだろう。穏便にすんで何よりだ。

 中に入ってすぐ、啓治が感嘆の声を上げた。

「俺が子どもだった頃と何も変わってない。すごいな、時間が止まってるみたいだ」

 絨毯の上を革靴が縦横無尽に動き回る。掃除機を止めた平木がゆっくりと彼に近づいた。

「あのーすみません。もう閉館してるんですけど」

「知ってるよ」

 平木は我が物顔で闊歩する様子に顔をしかめ、ふと織江と目を合わせた。誰ですかあれ、と指だけで示してくる。

「息子の啓治よ。不動産屋を経営していて、ここの処遇を任せてあるの」

「あっこれ俺が振り回してて怒られたやつだ。懐かしいなあ」

 当の本人は鞘に入った直刀を眺めてはニヤニヤ笑っている。彼のやんちゃには手を焼かされたものだ。展示物に触るなとあれほど言ったのに、いくつか壊された品もある。

 それも昔の話だ。今や二児の父となった啓治は、展示物ではなく壁と相対していた。手で撫でたり、柱を叩いたりしては音を確かめている。

「大分老朽化してるな。この柱なんか中身がスカスカだ。いつ崩れてもおかしくない」

「やっぱり立て壊すことになりそうかしら」

「立て壊し?!」織江の言葉に平木が目を丸くした。「建物ごと、壊しちゃうんですか!」

「そうするしかないだろ」

 啓治が壁から離れる。文化財になるほどの貴重な建築様式ではない。手入れの大変な旧式の館に好んで金を出す人はめったにいないだろう。不動産に関して啓治はプロだ。その彼が土地だけの方が売れるというのだから、反対する理由がなかった。

「ごめんなさい、平木くん。思った以上に借金がかさんでて……」

「館長」

「それにここは一族の家だもの」

 そう、売れる売れないの問題の前に、ここは相模原家の屋敷だ。他人の手に渡るくらいなら思い出ごと壊してしまいたい。所有者である織江の、最後の我儘だった。

 平木は何か言いたそうにしているが、口を開かなかった。外野がとやかく言うべきでないと気づいたのだろう。啓治と織江が工事の日取りを決めているときも、じっと黙って見つめているだけだった。

「じゃあまた。今度は測量士さんも連れてくるから」

「ええ、お願いね」

 夜空には星も見えない。若干風が吹いているが、なまぬるく、夏を感じさせた。梅雨も明けた今、気温は容赦なく上がっている。

 テールライトの光をわずかに残し、車は静かに去って行った。最新型なのだろう、音はほとんどしない。彼が順調に人生を歩んでいると分かって嬉しく思いと同時に、少し寂しくもあった。 

 夜の館内は暗い。明かりは壁にあるランプしかなく、作業をする環境ではない。所蔵品を片付けるのは明日からにしよう、と受付奥の管理部屋に向かった。

「平木くんお疲れ様。今日はもう帰っていいわよ」

 窓口から、そう声をかけたとき。

 ふと、視界の端に人影が映った。はっとして振り向けば、走り去る子どもの姿。服装には見覚えがあった。

「はーい――って館長? どうかしましたか?」

「……ううん、なんでもないわ」

 きっと疲れているのだ。織江はそう決めつけた。だってあの緑のボーダーシャツは。

 小さかった啓治が、よく着ていたものだったから。


 次の日。

「館長、少しだけでいいんです。一ヵ月経って大学が始まったら、先生に来てもらって……」

「はいはい」

 織江は収蔵物を一つ一つ梱包する作業に取りかかっていた。手伝う平木の文句を聞き流し、壺を手に取る。これは清の時代の陶磁器。釉薬が色鮮やかで美しい。そっと表面を拭き、新聞紙でくるむ。

「……それだって歴史的価値が」

 むすっとした顔がこちらを見つめる。織江はわざと目を合わせない。今必要なのは、歴史よりお金なのだ。すべて、骨董品屋に売るつもりだった。そうでないと借金が返せない。

「本当に全部売ってしまうんですか?」

 歴史を説くのは無駄だと気づいたのか、情緒を揺さぶる戦法に変えてきた。その手は古びたビー玉を一つ一つティッシュで包んでいる。

「ええ。新しい部屋はここよりずっと狭いから」

「あ、そっか。館長は別館で寝泊まりしてるんでしたっけ」

「そうよ」

 相模原邸は二階建ての本館、そして別館で構成されている。二つは本館二階にある渡り廊下が繋いでいた。別館は主に使用人が住む部屋となっていて、キッチンもこちらにある。足りないのは浴室だけだったが、父の代に増築されていた。華美な装飾がない分、住みやすかった。

「ということは別館も壊しちゃうんですね。もったいないなあ」

「感傷的になってくれるのは嬉しいけど、いつ崩れるかわからない場所に住むのは怖いもの。しょうがないわ」

「ドライですねえ」

「じゃないとこの歳まで生きてられないわよ」

 形あるものはいつかなくなる。六十年生きてきて、そのことを痛感してきた。

「それ言われたら何も返せないですよ」

 床には皿や花瓶など割れ物の入った木箱が積まれている。平木は苦笑して、それらを四つほど抱えて立ち上がった。

「じゃ、蔵にしまってきます」

「お願いね」

 織江も重い腰を上げ、一つ伸びをした。それに合わせて扇風機がコキキ、と音を立てる。三十年物のそれは動きがぎこちなく、いつも苦しそうに首を振る。自分もどんどん動きにくい身体になっていくのだろう。ここには、古いものしかない。

「館長館長!」

 ドタドタ、と駆けてくる足音。平木が帰ってきたのだ。だが、その様相は尋常ではない。顔は青白く、血の気が引いている。

「どうしたの? そんなに血相変えて」

「どうしたの、じゃないですよ! 出たんです」

「出たって?」

 首をかしげると彼は「ああもう、」ともどかしそうに呟いた。

「幽霊です! 蔵から出ようとしたら、棚の奥をさっと横切ったんです。あれは、女でした。織江さんと同じくらいの背丈で……」

 織江の耳にはもう彼の話は聞こえていなかった。

 蔵の陰に逃げた女は自分だ。

 記憶にはっきりと残っている。

 見つかってはいけない。そう思っていたから、人の気配を感じるとすぐに隠れた。ここは避難場所だったのだ。見合いをしろとうるさい両親から逃げていた若い頃。ここに来ると、祖父のあたたかみを感じた。とどのつまり、この家から離れたくなかったのだ。啓治は、養子であった。

「館長? 聞いてます? あっ、もしかして双子の妹がいたとか、そんな話じゃないですよね」

「――いいえ。違うわ」おびえる平木に、織江は緩慢に首を振った。「それに、幽霊じゃない」

「幽霊じゃないってどういうことですか? 僕が暑さで幻を見たとでも? 確かに外は陽炎が出るほどの気温ですけど、熱中症にはなってないですよ」

 早口でまくし立てる声を右から左に聞き流し、「違うの、違うのよ」と口から出るのはそればかり。

 

 回る、廻る、まわる。

 記憶が、思い出が。屋敷の中を駆け巡っているような気がした。


 ざあざあと雨が降っている。台風がかすめるとニュースが伝えていた。それにしてはひどい嵐だ。梢がノックするように窓を叩いている。

 とん、とんとん、とん。

 ランプを灯し、織江は渡り廊下を歩いていた。板張りの床が軋む音は、凄まじい風の音にかき消される。足元だけを黄色い光で照らし、本館への道を進む。何千回と歩いた廊下だ。扉までは目をつむっていてもたどり着く。

 扉を開けると、ふわり。かすかに百合の香りがした。今すれ違った女性の持つ花束からだ。うきうきとした足取りで別館に駆けていく。彼女はきっと、使用人と駆け落ちしたという父の姉だ。

 織江は彼女の行く末を見届け、また足を動かす。二階にあるのは寝室と客室。調度品はそのままになっていた。しかしそちらには足を向けず、まっすぐ一階に降りる。

 出窓の横。一番日当たりのいい場所に置かれた籐椅子。どんなに手触りのいいベルベット製の椅子よりも、あの人はこの椅子を愛していた。

 心臓が鼓動を早める。どくどくと血が体中に送りこまれている。

 うんと小さい頃に会ったきりのあの人――祖父に再び会えるのだ。頬を撫でてくれた手の温かさしか覚えていない。骨董というより何の価値もないがらくたばかり集めていて、祖母はほとほと呆れたそうだ。けれど織江はその「がらくた」が好きだった。傷一つない美しいものより、使い古されたものの方が好きだ。――祖父の手のようなあたたかさを感じられるから。

 床に転がる木箱や段ボールをよけながら、ゆっくり窓に近づいていく。雨はまだ止む気配はない。バケツをひっくり返したような激しさで降り続けている。カーテンがかけられていないそこから月は見えない。

 ランプを胸の上に掲げ、織江は籐椅子に目をやった。予想通りなら、祖父はそこに座っているはず。しかし、誰の姿もない。浮き足だった心がしぼんでいく。そううまくはいかないものだ。

 とん。

 その耳に、音が飛び込んできた。外からではなく、背後から。振り向いてみれば、杖をついた男がこちらに向かって悠然と歩んできていた。杖を床につき、片足を引きずっている。海軍に属していた祖父は、第一次世界大戦で負傷したと聞いたことがある。結局、その傷とは別の病気で、早くに亡くなってしまった。

 男は横によけた織江を見もせず、籐椅子に深く腰掛けた。膝に手を置き、目を閉じて休んでいる。

 織江はおそるおそる、手を重ねてみた。温度はなく、ささくれた籐がちくちくと刺してくる。どうやら、見えてはいても触れることはできないようだ。 少し残念に思いながら、見えていないのをいいことに、まじまじと全身を観察した。古いアルバムにあった写真そのままだ。

 彼が急に目を開けた。じっと織江の方を見つめている。どきり、とした。まさか。

 その視線をよく見れば、自分に向けられたものではないとわかった。後ろを振り返る。すると、身重の女性がこちらに歩いてきていた。

 あれは母だ。お腹をさすりながら幸せそうに微笑んでいる。祖父を見やれば、こちらもまた口元を緩めていた。母は織江をすり抜け、彼の近くに寄る。

 祖父はそっと手を差し出し、母のお腹を撫でた。何度も、何度も繰り返し。

 織江はその光景から目を離せなかった。この屋敷には、住人の記憶が宿っているのだ。彼らは息づいている。百年以上が経った、今この瞬間も。


 ***


 そして一ヵ月が過ぎた。残暑が厳しいものの、夕方になれば赤とんぼが飛ぶ。日もかなり短くなった。

 相模原邸は予定通り、取り壊された。白く塗られた壁も、精巧な装飾の施された窓枠も、すべてなくなった。更地になった空間がぽっかりと残る。

「こうしてみると、案外広かったんだなあ」

 啓治が均された土の上を歩き回る。その足跡は大きい。織江は血の繫がらない息子を改めて眺めた。

「ん? どうかしたか、おふくろ」

「あなたもずいぶんと成長したな、と思って」

「そりゃそうだろ。ここに来てから二十年以上経ってるんだから」

 ふう、と一つため息がつかれる。

「……本当にうちに来なくてよかったのか?」

「ええ。だってそういうつもりであなたを育てたわけじゃないし。私だって気を遣って暮らすのは嫌だし」

「そっか」

 そう言うならしょうがない、と啓治は背を向けた。「車に乗って。送ってく」

「いいのよ、歩いてすぐだし」

「ずっと外にいただろ。熱中症で倒れられたら困る。それに俺まだ新居見てないから」

「……わかったわ」

 織江は車に乗り込むと、窓越しにそこを見つめた。結局、彼らはあの日以来出てこなかった。平木は安心していたが、少し寂しかった。

 あれがこの館の最期だったというのなら。

(これからは余生ってことかしらね)

 エンジンがかけられる。織江を乗せた車は音もなく、住宅街を走り抜けていった。

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走馬灯 守宮 泉 @Yamori-sen

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