夏、麦茶、あいつ

麦茶神

夏、麦茶、あいつ。

今年の夏はやけに暑い。

頬に伝った汗をTシャツの適当な所で拭って、ふう、と息をついた。


窓の外は、快晴。

夏の空と言うにふさわしく、立派な入道雲がもくもくと立ち上っていた。

青く茂った山々とのコントラストがなんとも健康的であるように感じる。


そんななか俺は冬に控えた高校受験からの逃避のため、人生初の作曲活動に勤しんでいた。

着手してから丸二日、寝ずの作業。そろそろ感覚がバグりはじめてきている。

先ほど本当に「鉛筆が転がっただけで笑う」という現象が起こったときは、自分の限界が近いことを悟った。そりゃもう爆笑で、椅子から転げ落ちてしばらく床でヒクヒク這いまわっていたくらいだ。うわ、文字に起こすとキツイな、これ。


そんなこんなで、いいメロディも叙情的な詩も降ってくるわけがなく、所在なくスマホをいじり始めたのがここ三十分ほど前のことである。


いやどうすんのよ、これ。

暑いわ、なんか罪悪感あるわ、気が狂れそうだわ。


スマホをいったん置き、しかめっ面で天井を見る。

……なにかとても重要なことを忘れてる気がする。俺にとって大切で、でも随分と前にどこかに置いてってしまったような何かを。


いかんな、と椅子から立ち上がり、とりあえず伸びをした。

グググッと強めに腕を伸ばす。

筋肉の間に凝り固まったもやもやが、快感に昇華されていく。

その調子で、さらに後方のベッドに寝転がり、グググイッとつま先まで伸ばしていく。

するとふくらはぎに違和感。


ピキィッッッッッッ!!!!!!!


「!!!!!!!!!!!」


突如、頭のてっぺんから足先まで極太の稲妻がはしった。

「痛い痛い痛いイダダダダダダダ!!!!」

判定:攣り。

俺は足になるべく力が入らないように寝ながら屈むと、痛みを顔から逃がそうと思いっきり顔面の筋肉に力を込めた。だが、効果ナシ。


どどっどどどどうしよう!?どうすれば治るんだっけ?あれ?


やかましく主張してくる心臓の鼓動を押さえつけて、震える手でスマホをとると、神速の指さばきで「攣った 助けて」と検索する。

数多の広告を踏み越えて、ようやっと掲示板サイトにたどり着き、藁にも縋る思いで「【悲報】俺の足、就寝十分前に攣る 助けてくれ」というスレッドを開く。

お願いだ………この現状を打破する手段を教えてくれ………!


1  めちゃくちゃ痛いんだが???

2  来世に期待しな

このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています


「くそおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!!!!!」

俺は血の涙を流しつつスマホを投げ飛ばすと目を閉じて脳の中を徹底的に洗い出すことにした。


落ち着け、落ち着け……前回どうやって直したっけ、そもそも前回はいつだった?う~ん、あー、もう!思い出せない!


未だ元気百倍にはね続ける心臓が思考をまくしたててくるせいで、どうも考えがまとまらない。


まずすべきは冷静になることだな……


ジクジクと刺すように痛む右ふくらはぎの中央部に、極力注意を払いながら体を起こし、中腰のまま立ち上がった。


こういう時、とっておきの秘薬があるのだ。


段差に気を付けながら慎重に隣の部屋に移動すると、買い替えたばかりの冷蔵庫のドアを開ける。

そして、2つあるうち手前のほうにある2リットルの冷水筒を素早くとった。

なかには麦茶がいっぱいに入っていて、パックが二個、ふわふわと眠たそうに浮いている。


フウゥゥゥ…………


俺は肺にある空気をすべて吐き出して、おもむろに注ぎ口を唇の上に乗せ、そして、思い切りよく傾けた。


ゴキュ、ゴッキュ、ゴッキュ。


口内に収まり切らなかったぶんの麦茶が、地面に零れ落ちた。ビタビタと跳ね返って足に降りかかる。服が濡れていく。それでも構わず、飲む、飲む、飲む。


ゴッキュ、ゴッキュ、ゴッキュ。


鼻から抜ける香ばしさと舌で感じる透明感、体の芯から末端までビビットに駆け抜ける冷たさが、うすぼけた思考を犀利にしていく。暑さでぼやけていた体のシルエットが、少しずつけざやかになっていく。


ゴッキュ、ゴッキュ、ぷはあ。


そして容器が空になったとき、俺はすべてを思い出した。


そうだ、前、足が攣ったのは、あいつの家だった。


断片的に浮かび上がった情報が麦茶によってつなぎ合わせられていく。


近所に住む幼馴染のあいつ。俺は確かあいつの家に遊びに行っていた。異性ではあれど、近くに住む同級生が他にいなかったし、昔からずっと一緒だったからと、特別に意識することなくよく遊びに行っていたんだ。


あの時も夏だった。


いつものように座布団に座って、駄弁っていた。だが、あの時も確か伸びをして、右のふくらはぎが攣ってしまったんだ。俺は情けなく悶えて、そして―――


「はい、これ。つったときは飲み物を飲んで休むのが、いちばんなんだよ!」


そうだ、あの時も麦茶だった。氷が煌めいて揺れていた。

麦茶が入ったコップを小っちゃな両手で差し出すあいつ。

にぱっと屈託なく笑うあいつに、俺は、


俺は、恋をしたんだ。


いつか諦めて、忘れてしまった甘酸っぱい衝動が、蘇る。

耳がだんだん赤くなっていく。唐突な感情に頭の中が”?”で埋め尽くされていく。


そうだった。実直で、天真爛漫で、どこか爽やかな彼女に、恋していたんだ。


どうして今まで忘れていれたんだろう。今こんなに胸が張り裂けそうなほどなのに。


夏の気温さえ凌駕する暑さが、俺の体を一瞬にして支配した。


ふらふらと自分の部屋に戻ると、さっきまでの痛みなんてすっかり消え失せていた。

そのまま作曲ソフトが表示されているノートパソコンを閉じ、扇風機の前に不時着する形で座り込んだ。

「強」のボタンを押して、ぼうっとした頭をさましていく。

すると、どこかからかすかに麦茶の匂いが香ってきた。


そうだ、連絡しよう。


机の下に転がっているスマホをとり、スリープを解除する。

たどたどしい手つきでトーク画面を開いていく。

最後の記録は「あけおめ!」。二年前の正月のものだ。

左上にあるあいつの名前を見て、胸がきゅうっと締め付けられる。


おいおい、なんだよ。俺らしくもない。


振り払って、キーボードを呼び出すと、ただ四文字。


「久しぶり」


とだけ打った。


これでいい。


送信ボタンを押し、シュッと画面に反映されるのを見届けると、ぷしゅーっとそのまま扇風機に覆いかぶさった。顔の紅潮は止まってくれそうもない。


「あー、なんでこんな恥ずかしいんだろ。あのころは毎日だって遊んでたってのに。あー!もう一つ、麦茶飲み切っちまえ!」


コップへなみなみに注いで、氷をカランコロンと揺らしたい。

そうして、ゆっくり、味わって飲みたい。

鼻の奥でいぐさ畳の匂いがした。


今度は足を庇わず勢いよく立ち上がる。

すると視界にはまた、目に痛いほどに青い空が広がっていた。入道雲は一層白く冴え返っていて、日が少し傾いて窓の左のほうから覗いている。すごく遠くで、蝉がジジジと鳴いている。


今年の夏もやたら暑い。

これからもっと暑くなっていくだろう。

でも負けてられないな、受験も控えてるし、それに―――


俺は勉強道具をカバンから引っ張り出して、隣の部屋へ急ぐ。

至ってさっぱりとした気分だ。

もう何かを忘れているような感覚はどこにもない。


―――今年の夏も、麦茶の世話になるな。


こころよい風がぎ木々をそよがせる音が、辺りにさやかに響き渡った。










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夏、麦茶、あいつ 麦茶神 @Mugitya_oishi

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