現代百物語 第42話 駅Ⅰ 構内にて

河野章

現代百物語 第42話 駅Ⅰ 構内にて

 疲れていたんです。

 毎日毎日朝七時には職場に行って終電直前に帰るような毎日。

 仕事はしてもしても終わらなくて、漸く家に帰っても明日の仕事が心配で眠れません。まんじりともせずに夜が明けるのを待って、明け方に唸り声を上げて布団を引き剥がし起床します。泥のような体を引きずって職場へ行くのです。

 職場の上司や同僚に相談しようにも、皆同じような境遇待遇です。笑いながらこなしている人もいて、僕だけ出来ないのはおかしいんじゃないだろうかなんて思えたりして何も言えません。毎日悲しくて辛くて眠たくて。愚痴を言う暇も、愚痴を思いつく隙もなくて。けどそれが「普通」でした。

 仕事を始めて三年目の夏でした。『せめて一箇所で三年は頑張れ』と言ったのは親だったか先輩だったか。一箇所で三年。なぜだかそれだけを頭で念じて仕事をこなしていました。三年経てば、そうすれば辞められる。三年経てば。三年──。

 その日も疲れていたんです。

 終電でした。

 職場最寄りの駅の階段を上がっているときから拙いなと思っていました。

 足元がフラフラとして、手すりにすがりつくようにして僕は駅の中へと入っていきました。深夜でも気温は三十度近くて、暑いはずなのに僕の首筋には冷や汗が流れています。

 酔っ払った若者たちが僕を追い越して叫び声を上げていました。若い女性の歓声が僕の耳に突き刺さって、そのままキーンという耳鳴りになって周囲の音が何も聞こえなくなります。

 その日はいつもよりさらに……追い詰められていました。

「……どう、しようかな」

 漸くたどり着いたプラットホームの端に立って、僕は何となくつぶやいていました。水曜日です。どうしようもこうしようも、明日も仕事に行くだけです。

 その日は仕事で少し失敗をして、顧客に嫌味を言われていました。社内で問題になるほどではない案件で、同僚たちからは同情を買ったほどです。それなのに酷く落ち込んでいました。

「そうすればいいのかな……」

 足元への、独り言が止まりません。バックパックが肩にずしりと重いです。

 何となく職場で自分が浮いてるのはわかっていました。会議でのちょっとした発言の間や回されるメーリングリストからうっかり外されているときなどに。そういった小さな小さなことが幾重にも重なって、仕事の忙しさと相まって僕を苦しめるのです。

 限界でした。

 そこで、ふと周囲の騒がしさが気にならなくなりました。

 耳鳴りのせいではありません。

 体は疲れているのにふと気持ちが軽くなったような、そんな感じがしました。

 ふわりと良い香りがしました。

 例えるなら爽やかな甘い、花のような香りです。ふうっ……と冷たい呼気が僕の耳元をくすぐりました。

「前を見て」

 涼やかな声が聞こえました。

 僕は足元の白線から、もうすぐ終電がやってくるはずの線路へと目線を移しました。

 線路上を、足だけが遠くを歩いていました。

 血に染まった白いスニーカーと膝で千切れた両足がちょっと立ち止まってから、線路を横断歩道を渡るように平然とゆっくり歩いていきます。 

 僕も不思議とは思わずにただそれを眺めていました。

 そっと背を押されました。触れる程度に柔らかな感触です。

 バックパックを背負っているはずでしたが、その手は僕の背中を直接触っていました。それどころか、背中を通り抜けてズブズブと体にその手は入ってきます。やわやわと体の中をまさぐられて、「それ」は僕の多分……心臓に手を当ててきました。

 その感触はとても冷たくて心地よく、ずっとそうしていたいような感覚でした。

「前へ」

 声が聞こえます。

 声とともにほんの少しの力で僕の体が、心臓がそっと押されます。

「前へ」

 線路上の足が渡りきった向こうで、こちらを振り返っています。背後では甘い香りと水の滴るような音が聞こえます。粘った粘着質な音でもありました。僕の横に誰かが……上半身だけの誰かが、並んでいるのがわかりました。

 ──腰や太ももは何処へ行ってしまったんだろう。

 微笑んで僕はそう考えました。

 僕は、僕は……一歩前へと足を踏み出しました。


「……そこで、彼の目の前を終電直前の快速電車がゴォーっと音を立てて通り過ぎたそうです。後一歩で彼は線路に落ちているところだった。──僕の話は以上です」

 谷本新也(アラヤ)はそう話を締めくくった。

 高校時代の先輩で、今は友人でもある藤崎柊輔の家だった。他に高校時代の友人の林基明も同席している。

 盆休み直前で、実家に今年は帰らないと言う林が何を思ったのか百物語をやらないかと二人を誘ったのが始まりだった。それならばといつもの三人が揃ったのだった。もちろん新也は嫌がったがネコの子を摘むように、藤崎に襟首掴まれて連れてこられた。

 先輩後輩とはいえ高校時代の話だ。別に従わなくても良いのだが、どうにも新也は藤崎に強く出れない。

「なんだ。よくあるような話だったな、お前にしては」

 藤崎が笑ってビールを飲み干した。藤崎家の客間だった。畳で、茶托の上にそれぞれが持ち寄ったアルコール類とつまみを並べて男三人で百物語だ。

「いや、十分怖いでしょう。足だけっていうグロとか、場所も身近な駅とか……僕は嫌な要素てんこ盛りでしたよ」 

 林が肩をすくめ、ブルッと身震いして裂きイカに手をのばす。

「なんですか、知ってる話をとにかく話せって言うから話したまでで。……でしょ? 林君。怖いと僕は思うんだけどなぁ……」

 藤崎が空になった缶ビールの上部を掴んで振る。笑みを浮かべる顔は憎らしいほど男前だ。

「それでも……って、ああ、そうか。その話って」

『──しっ』

 テーブルの下でつい、新也は藤崎を足先で突いた。林は気づいていない。

 ニヤッと笑って藤崎は口を閉じた。

 それから、林がトイレへと離席した隙にそっと新也へ身を寄せた。

「あれだろ。さっきの話。お前が新入社員で、最初の会社辞めて公務員になったきっかけの……」

「……内緒ですよ。林君、怖がりだから」

「なんでこんな会開くかね」

 くくっと笑って藤崎が身を離す。はぁっとため息をついて新也は手元のビールを煽った。



【end】

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