第6話 心のハンドドリップ
僕の名前は瀬那匠眞です。今年で二十八歳になりました。
仕事は大手カフェチェーンの一店舗。ショッピングモール内のお店で店長をしています。
僕が数ある大手カフェチェーンの中から、この会社を選んだのには理由があります。
飲食業のチェーン店なので、商品の基本的なレシピは本社が決めたマニュアル通りに作らなければなりません。それはチェーン展開している会社はどこでもそうでしょう。
でも僕が選んだ、この会社ではそのお店の店長を任されると、その店長の好きな事を一つだけ自由にできます。
お店によってそれぞれのお店の特色を出すことができます。
もちろんカフェに沿った事でなくてはなりません。あまりにも奇抜なアイディアは
却下されます。ホームページを独自で作ってお店の日常をアップするお店もあります。
僕はこの会社に入社する前から既に決めていた事があります。
僕がお店の店長になったら、店長ブレンドという独自の商品を作り
僕が自分でハンドドリップしたコーヒーを沢山の人に飲んでもらいたいという事です。
僕は大学二回生の時、コーヒーのハンドドリップにハマりました。
たまたま大学の帰り道に入ったカフェのマスターが、コーヒーをハンドドリップしている姿がとてもカッコよく見えました。
コーヒーの味も今まで飲んだコーヒーの中で一番美味しかったです。
元々凝り性だった僕は、すぐネットでコーヒーのハンドドリップに必要な器具を揃え、コーヒーのハンドドリップについて独学で学びました。
最初はとても不味かったです。半分お湯みたいな味でした。
どうすれば、カフェのマスターのような味が出せるのか。
僕はそのカフェでアルバイトをしようと思いましたが
カフェのマスターにはアルバイトは募集していないからと断られました。
でも僕が熱心にそのカフェのマスターの動作を見ていた事を
カフェのマスターは知っていてくれたようです。
カフェのマスターはお客さんがいない時、僕にコーヒーのハンドドリップを教えてくれました。
カフェのマスターはとても優しい方でした。
コーヒーをハンドドリップする上で大切な事も教えてくれました。
「ハンドドリップはドリップマシンよりも手間と時間はとてもかかるけど、ゆっくりとそして丁寧にコーヒー粉に語りかけるように人の手で淹れる事で、淹れる人の心の内面をコーヒーの味に出す事ができるよ。同じコーヒー豆を使っていても淹れる人によってコーヒーの味が変わるのが魅力的だね。」
コーヒーのハンドドリップの方法は、まずドリッパーにフィルターを丁寧にセットします。
フィルターに適量のコーヒー豆を挽いたコーヒー粉を均等になるように入れます。
そこに細口のドリップポットで少量のお湯をコーヒー粉にそっとのせるよう注ぎ、三十秒ほどコーヒー粉を蒸らします。蒸らすのはコーヒー粉の成分を十分に引き出す大切な工程です。蒸らし終えたら、コーヒー粉の中心に小さな“の”の字を描くように優しく丁寧に時間をかけてお湯を注いでいきます。
方法は熟知しています。それでもカフェのマスターのような味には全く届きません。
カフェのマスターからアドバイスをいただきました。
「瀬那君の”の”の字はまだまだ均等じゃないね。注ぐお湯の量もまちまちだ。もっと心を優しく研ぎ澄まして。コーヒー粉に語りかけるよう意識してごらん。」
カフェのマスターの“の”の字は一分の狂いもなく均等です。
注ぐお湯の量も均等です。でもなにより普段から優しい顔のカフェのマスターの顔つきが、コーヒーを淹れている時はさらに穏やかな優しい顔をしています。
僕は結局、大学卒業までカフェのマスターの味に近づく事さえ出来ませんでした。
僕は会社の面接でこう言いました。
「私が店長になった際には、独自でコーヒーのハンドドリップ商品を作ります。私はお客様とコーヒーのハンドドリップを通して、心の会話をしてみたいです。」
結果は採用です。第一志望の会社だったのでとても嬉しかったです。
店長を任されるまで、数年かかりますが僕は仕事終わり毎日、コーヒーのハンドドリップの練習をしました。
僕は一般社員から副店長、店長と経験してきましたが、カフェには色々なお客さんが来ます。
ショッピングモール内という事もあり、家族連れのお客さんと学生のお客さんが大半です。
それぞれ色んな心の顔を持っています。とても幸せそうな人、いつも笑顔の人、機嫌が悪い人、仕事に疲れ切った人、難しい顔をしている人。本当それぞれです。人の数だけ人生の数もあります。
全く同じ顔をしている人なんていません。心も同じです。
僕は真面目に働きましたが、二年前、一度だけ副店長の時に会社の規定違反をしました。
平日に必ず大体七時から閉店の九時までの間、一人の女性が来ます。
歳は僕より少し年下ですが、いつも清楚な顔をしていてスーツ姿が良く似合っています。
女性からは花のような甘いいい匂いがいつもします。
僕はその女性に一目惚れをしてしまいました。
その女性はいつもコーヒーを片手に読書や時々パソコンに向かって難しい顔をしています。
本の内容に感動しているのでしょうか。時々涙を隠すようにハンカチで顔を覆います。
いつも帰り際、「今日も美味しかったです。ごちそうさまでした。」と笑顔で言ってきてくれます。
僕はしばらく感情を押し殺していましたが、我慢の限界が来ました。
その女性のレシートの裏側に短い文章の付箋を貼り付けました。
『突然申し訳ございません。僕はあなたの事が好きなようです。もし宜しければ僕のアドレスを書いておくのでメッセージを下さい。気持ち悪いと感じたらすぐこの付箋は捨てて下さい。回りくどい事をしてしまい申し訳ございません。』
完全な規定違反です。店員がお客さんに告白をするなんて。
もし女性が気持ち悪がって、本社にクレームを出したら僕は即クビです。
でも僕はどうしても伝えたかった。感情を押し殺せなかった。クビになれば小さな会社でもいいので、自分に合った他のカフェを探します。それくらい僕は女性に惹かれていました。
女性は最初少し驚いた顔をしていましたが、少し頬が赤くなった気がしました。
僕はいつも通り仕事終わり、コーヒーのハンドドリップの練習を終え帰宅しました。
夜も二十三時を回ろうとしていた時、僕のスマホが鳴りました。
登録されていないアドレスからのメッセージです。僕は心臓が破裂しそうでしたが、メッセージを開きました。
『お気持ちはとても嬉しいです。でもきちんとお話をした事のない方とはお付き合いはできません。』
僕はそりゃそうだろうなと思いました。顔はお互い知っているけど話した事は一度もありません。あくまでもカフェの店員とお客さんという関係性です。また僕のスマホが鳴りました。先程と同じアドレスです。僕はすぐメッセージを開きました。
『よろしければ私はあなたとお話がしてみたいです。今週の日曜日は空いていますか?』
僕は飛び上がりました。その週の日曜日は僕のシフトは休みです。用事もありません。
すぐ返事を送ります。
『空いています!本当にありがとうございます!』あまりの嬉しさに語彙力は壊滅的です。
すぐ返事が返ってきました。『では日曜日の正午、ショッピングモール近くの公園で待ち合わせはどうでしょう?公園の近くのカフェでお話をしませんか?』
僕は先程から自分の部屋を落ち着きなくクルクルと回っています。
左手でガッツポーズをしながら、右手で返事をしました。『はい分かりました!では日曜日に!』あまり長い文章をメッセージに打ち込んでも浮かれているのがバレバレです。
僕は短く返事を返しました。女性から『了解!』のスタンプが送られてきました。
可愛いトイプードルのスタンプです。僕は既存のスタンプで返事をしました。
日曜日正午。僕は待ち合わせ時間の十分前に着きました。
なんと公園の入口に女性は既に立っていました。僕は慌てて走って女性の近くへ向かいました。「すいません!お待たせしてしまって!」と僕が言うと彼女はニコリと笑顔を作り「いえいえ。私せっかちですから。いつも早く家を出てしまうんです。」と言ってきました。
それからのカフェデートは一瞬でした。五時間くらい一緒にいたはずなのに、僕には一時間も経っていない気がしました。帰り道二人で並んで歩いています。
「では私こっちですので。」これで女性とのデートは終わりかと思ったら凄く切ない気持ちになりました。僕は勇気を振り絞って「あの!あっすいません。…もしよければまたお話をしませんか?」と言いました。女性は考える素振りも見せずに「はい!またお休みの日に二人でお話をしましょう!」と言ってくれました。僕は家に帰って一晩中、嬉しさのあまり眠れませんでした。
それから平日は、僕はカフェの店員、女性は平日限定の常連さん。
お互いの休日は、一人の男と一人の女性。女性はいつも清楚な恰好をしていて、花のような甘いいい匂いがします。人というのは欲張りです。デートしているだけでも幸せなのに、僕は女性と付き合いたくて仕方ありません。僕は女性に『今度のお休みは天文台にいきませんか?』とメッセージを送りました。しばらくして女性から『いいですよ。あそこ夜景綺麗ですもんね。』と返信が来ました。また僕は嬉しさのあまり徹夜をしました。
天文台に着きました。
星空はあまり見えません。その変わり街の明かりがキラキラと輝いていてとても綺麗です。
空の星が地上に降りてきているみたいです。僕と女性は並んで夜景を見ています。
僕は勇気を振り絞り「前、お伝えしましたが、僕はあなたの事が好きです。僕と付き合ってくれませんか?!」女性は頬を赤くして俯きながら「はい。私もあなたの事が好きになりました。よろしくお願いします。」とお返事をいただきました。僕は周りのカップルや家族連れを気にせず「ありがとうございます!!」とお店で使うような大きな声でお礼をしました。
彼女と付き合い始めて時間の進みが本当に早いです。
もう彼女と付き合って二年経ちました。
彼女は化粧品メーカーに勤めています。僕はようやくショッピングモール内のお店の店長になりました。僕の作る店長ブレンドは程々人気商品です。
異変は彼女と付き合って二年記念日を超えたあたりに起きました。
最近、彼女が全然笑ってくれません。
その変わりよく涙を流します。
元々少し感動ものの映画を観たり、可愛い動物を見ただけで泣いてしまうくらい
心の綺麗な彼女ですが、その時の泣き顔と明らかに違います。
とても悲しそうな顔で泣きます。苦しそうにも見えます。
理由を聞いても教えてくれません。
僕に原因があるのかと思いましたが、「そうじゃないよ。」としか言ってくれません。
ある日の夜中、夜勤シフトで帰りが遅くなった僕に彼女からメッセージが届いていました。
『どうしよう匠眞くん。私、体が動かなくなっちゃった。』
僕は急いで彼女のマンションに行きました。彼女はリビングの片隅で泣いています。
僕はどうしていいか分かりませんでしたが、側に座っているだけで彼女は
落ち着きを取り戻していました。「匠眞くん。今日は一緒にいてくれる?」と彼女が言ってきたので、僕は次の日の着替えだけを取りに自分の家に戻り、急いで彼女のマンションに戻りました。次の日の朝、彼女は出勤の準備をしています。顔色が真っ青です。
僕は、今日は昼から出勤です。彼女に「顔色悪いけど、今日は会社を休んだら?」と言いました。彼女は顔を横に振り「大丈夫だよ。ありがとう。」と言って出勤していきました。
責任感が人一倍強い彼女です。滅多な事では休みません。僕は彼女の家で自分の朝食の準備をしていたら、僕のスマホが鳴りました。メッセージの送り主は彼女です。
『匠眞くん。どうしよう。電車に乗れない。』
僕はすぐ彼女のマンションの最寄り駅に走っていきました。彼女は駅の改札口に立ちすくんでいます。顔色は先程より真っ青です。
僕は直感でこれはいけないと思いました。すぐ自分のお店に電話をしました。
電話に出たのは最近バイトで入った男子高校生です。今日は学校の創立記念日で休みなので朝からシフトに入ってくれています。
「あれ?瀬那店長。どうしました?」と言ってきたので「ごめん蒼大君。ちょっと今日遅れて出勤する事、他のみんなに伝えてくれない?」と言うと蒼大君は「分かりました。今日はお店平日で超暇ですし、シフトは最強主婦軍団なんで大丈夫っすよ!」と元気よく言ってくれました。蒼大君は少しチャラいですが、根はもの凄くいい子です。
僕は彼女に「今日は会社休んで、病院に行こう。僕も一緒に行くから。」と言いました。彼女は俯いたまま頷きました。真っ白な病室で、二人で先生から彼女の症状の結果を聞きます。
「そうですね。風邪でも無く念のために体の検査をしましたが異常なしです。多分…」
…うつ病。僕の彼女は心の風邪をひいてしまいました。
彼女は自分のマンションに戻ってベッドで疲れたように寝転んでいます。
僕は「今日は今から出勤だから行くね。仕事終わったらまた来るから。」彼女は消えそうな声で「うん。ありがとう。」と言いました。彼女は会社に事情を話し、とりあえず一カ月お休みをもらう事になりました。僕は朝と仕事終わりに彼女のマンションに行きます。
彼女から「匠眞くん。毎日来てもらうのは悪いよ。しんどい時だけでいいから。少し一人になりたいの。電話で毎日声だけ聞かせて。」と言われたので、毎日電話をします。
僕も仕事終わりのハンドドリップの練習を一旦中断して、仕事終わりすぐ自分の家に帰ってうつ病について調べます。絶対に否定してはいけません。安易に同意してもいけません。そのうち良くなるなんて言葉を使ってはいけません。時々彼女から『匠眞くん。ごめんなさい。』とメッセージが来るので『大丈夫だよ。』とだけ返します。あまり彼女を鼓舞するような言葉を、今の彼女に使ったら逆に傷つける事になるからです。僕には彼女がもう一度、自分の足で歩けるようになるまで、優しく見守る事しかできません。
一カ月が過ぎ彼女は会社に出勤します。僕はこの日の朝だけは彼女のマンションを訪れ彼女を優しく見送ります。何があってもすぐ助けられるようこの日だけは無理やり休みました。見送った後、僕は自分の家で待機です。夜、彼女からメッセージが届きました。
どうやら何とか会社の終業の時間まで仕事ができたそうです。その文の最後には一文メッセージが添えられていました。『匠眞くんともう一つ、私に勇気をくれる宝物を今日拾いました。』写真も添えられています。茶色のトイプードルです。僕は『良い宝物、拾ったね。僕とその子で君を幸せにするよ。』とメッセージを送りました。
彼女はそれから頑張って会社に出勤しているようです。休日に会う彼女はまた元の清楚で花のような甘いいい匂いのする彼女に戻っていました。トイプードルの名前は茶々丸と言うそうです。僕が一カ月かかっても元気にできなかった彼女を、茶々丸は一日で彼女を元気にしました。僕は少し茶々丸に嫉妬です。でも本当、元気になってくれて良かった。
今日は茶々丸と初対面です。茶々丸に少し嫉妬していましたが、茶々丸は本当にたくさんの癒しをくれます。茶々丸に彼女が席を外している時に「僕が彼女と結婚するまで、側にいてあげてね。」と小声で言いました。茶々丸は元気よく返事をしました。どうやら茶々丸は僕の事も気に入ってくれているようです。
少し時間が経ちました。季節はもう冬です。
仕事終わりスマホを見ると何件も着信とメッセージがありました。全部彼女です。
僕はすぐ折り返しの電話を彼女にかけました。電話の向こうの彼女は泣いています。
「匠眞くん!茶々丸が!茶々丸が!!」僕は急いで動物病院に向かいました。
茶々丸は亡くなっていました。彼女は子供のように泣いています。茶々丸の側を離れようとしません。ずっと抱きしめたままです。先生たちが困っているので一旦、彼女を落ち着かせました。彼女のマンションに着きました。僕は彼女を落ち着かせようとキッチンで温かいハーブティーを淹れています。すると突然奥からバタンッ!と何かが倒れる音が聞こえました。
慌てて行ってみると彼女がその場に倒れこんでいました。僕はすぐ救急車を呼びました。
体の異常はなし。心の風邪の再発です。しかも今度はインフルエンザ並みです。
ピクリとも彼女の表情は動きません。僕の言葉も届きません。何も口にしようとしないのでしばらく彼女は入院する事になりました。
僕はずっと悩んでいました。どうすれば彼女がもう一度、自分の足で歩けるようになるのか。
僕自身も、倒れてしまいそうなくらい心が疲れてしまいました。
そう思っている中、一人の女の子のお客さんが声を出して泣き出しました。
もう一人の黒色のワンピース、大きな赤色のリボンの女の子と喧嘩でもしたのかと思いました。違うと思ったのはその女の子の泣き顔が見えた時です。僕は見たことがあります。
あれは何かを思い詰めて一人で抱え込んでいるものが爆発した時の泣き顔だ。彼女と同じ。
そう思った瞬間、僕は二人の女の子のもとに行きました。
ハンカチと甘いクッキーを持って。女性は甘いものを食べると少し気持ちが落ち着くと聞いた事があります。泣いていた女の子は落ち着きを取り戻したようです。
もう一人の黒色のワンピースの女の子は立ち上がって、僕の方に魔法をかけるように両手を上げて念じ始めました。僕は女の子の背丈に合わせて中腰の姿勢をとりました。
女の子は小声で「幸せを店長さんに。幸せを店長さんに。」と念じています。
僕は驚きました。本当に心の疲れがみるみる内に癒されていきます。
女の子はキラキラと輝く笑顔で「ありがとうございました!」と言ってきたので、僕は「ありがとうね。小さな魔女のお客様。」と言いました。本当にこの子は魔女だと思いました。
バックヤードに帰ると蒼大君が「瀬那店長!ずるいっすよ!あんな可愛い子と話して!」と言ってきたので苦笑いで返しました。
今日は僕の彼女の退院の日。僕は休みをとり彼女を迎えに行きました。
二人でタクシーに乗り、彼女のマンションに着きました。
彼女の表情は今日もピクリとも動きません。ずっと青白い顔で俯いています。
僕は心の風邪を患った人への対応の勉強はしました。
でも勉強した事だけでは、彼女を救う事は出来ません。人の心はそれぞれ違います。
僕も茶々丸と同じように自分なりのやり方で彼女を元気にする事を決意していました。小さな魔女さんが僕にその勇気をくれました。そういう幸せの魔法を僕にかけてくれました。
ソファに座っている彼女の前のテーブルの上にコーヒーのハンドドリップに必要な器具を並べました。彼女の反応はありません。
僕は着々とコーヒーのハンドドリップを進めていきます。
そして独り言のように僕は自分の言葉で彼女に話し始めました。
「…コーヒー粉の中心に小さな“の”の字を描くように優しく丁寧に、コーヒー粉と会話をするように、時間をかけてゆっくりとゆっくりと注ぎます。自分の心に、ゆっくりとゆっくりと、優しく優しく、丁寧に丁寧に、会話をするように注ぎます。」
僕は大学時代からずっとコーヒーのハンドドリップを練習してきましたが、
今日は一番の出来です。彼女にコーヒーを取り分けゆっくり渡します。
彼女は無表情のままコーヒーを飲みます。
コーヒーが彼女の喉を通過した瞬間、彼女の目から大粒の涙が溢れ出してきました。
「すごく…おいしい…。」
久しぶりに彼女の感情が表に現れました。彼女を救うならこの瞬間しかありません。
「今はね、わざわざこんな事をしなくてもドリップマシンが自動的にコーヒーを淹れてくれるんだ。コーヒーの味もどんどん良くなってきている。こんな事をしなくてもこれの何十分の一の時間でできる。でもね、菜奈ちゃん。僕はいくらでも遠回りをしてでもいい、いくらでも時間をかけてもいい、ゆっくりとゆっくりと優しく丁寧に自分の心と向き合うことで、このコーヒーのように深みも温かみも、その人の個性も、深く深く出てくると…あれ?」
僕も何故か目から大粒の涙が溢れました。菜奈ちゃんが僕を優しく抱きしめてくれました。
「急ぐことは無い。確かに時間は有限だけど関係ない。例え遠回りしてでもじっくりと時間や手間をかけたものの方が、価値があるんだ。コーヒーも人の心も一緒だよ。」
二人はしばらくお互い声を出して泣き、菜奈ちゃんは落ち着きました。やっと僕の力で。
菜奈ちゃんはあれから会社を辞めました。今は自分が楽しい事をゆっくりと探しています。
「如月菜奈さん。僕と結婚して下さい。」
「はい。瀬那匠眞さん。こちらこそよろしくお願いします。」
僕たちがカップルになった天文台で僕はプロポーズをしました。街の輝きに見守られながら。僕たちは夫婦になりました。
菜奈ちゃんは最近料理が好きみたいです。料理専門学校のパンフレットを熱心に見ています。素敵な夢です。僕は全力で菜奈ちゃんを応援します。
僕はあれから五年経ってもまだショッピングモール内のお店の店長をしています。
二年ほど前本社から、本社勤務の打診がありましたが、僕は店長の仕事に誇りを持っています。だから断りました。
「瀬那店長!面接の子来てますよー!マジ可愛いんで採用して下さい!俺の為に!」
「蒼大君、君は変わらないね。」
天馬蒼大君は大学生になって留年を繰り返しています。少しチャラいけど、本当にいい子です。
「お待たせしました。店長の瀬那です。」
僕の目の前には、黒色のワンピース、大きな赤色のリボンの小さな魔女さんが立っていました。
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