第3話
自分が居ない間に部屋の様相が変わっていくのは気持ち悪い。でも、約束通りに一ヶ月でリコは痕跡を消して、最終日にはポストに鍵が入っていた。同時に、手紙も入っていた。電子的なやり取りは全てブロックしあっていたので、会って話すのも微妙となると手紙が手段の全てである。
開けると、モモコが死んだと書いてあった。
「たった一ヶ月で」
信じられなかった。でもそんな嘘をつく理由はないから、事実なんだろう。
俺は百里浜に向かった。
鉄道の三往復はひどく長く感じたけど、ピンクスチームに入ったときに、工程の必要さを理解した。誰もが入っていい場所じゃない。
駅に着くと、俺は放置されているラジオを持って、この前と同じパラソルの下に入る。
ラジオは小さく流すけど、特にそれに興味がある訳じゃない。あの日と同じ条件にしたいだけだ。
「モモコ、居るんだろ?」
「居るわ」
やはり。
「死んだんだってね」
「見事に死んだわ」
「ずっとここに居る予定なの?」
「すぐに旅立つわ。きっとここで待っていたらあなたが来ると思って、留まっていただけだから」
「やっぱり、ここはこの世とあの世の間なんだね」
「そう言う場所の内の一つ、よ」
「他にもこう言うところがあるんだ」
「あるわ」
どう言うところにあるのだろう。知って何かになるのだろうか。何にもならなくても、知りたい気持ちがある。そう言う気持ちがあるのなら、問うてもいいように思う。
「他って?」
「床の間の掛け軸の裏とか、感情と一体になったピアノの旋律の中とかよ」
「うっかり出会いそう」
「ピンクの靄がないと、入れないわ。そう言う意味ではここは確実に来られる数少ない場所よ」
モモコの気配がする。ボトルごと、俺のすぐ脇に居る。見えないけど。そして見てはいけない気がして視線を海に固定している。
「モモコ」
「何?」
「リコに君を渡したこと、恨んでる?」
「いいのよ」
「もし俺と暮らしていたら、まだ生きられたかも知れない」
「いいの。どの道寿命よ。彼女が世話を怠った訳じゃないわ」
「リコは自由を手に入れたんじゃなくて、自分勝手になっただけじゃないのか」
モモコがもぐもぐしているのが分かる。毛並みがピンクなのも分かる。
波の音にラジオが掻き消される。
「自分勝手だったのは事実ね。でも、それがあるからって自由であるかは別のものよ。彼女は持ち前の自分勝手さと同時に、やっぱり自由を手に入れ始めていたわ。だからこそ、私の世話をちゃんとしたのよ」
「俺にはよく分からない」
「自分勝手さが世界に埋没してゆくのとは反対に、自由は世界を切り拓いて行くわ。その二つは両立するし、どっちかだけの場合もある。彼女に芽生えた可能性を信じてあげて」
いずれにせよもう別れている。精算は今朝完全に済んだところだ。
俺は憮然として波を見る。
モモコに肩を抱かれている気がした。彼女は死んで自由になったのだろうか。それとも最初から自由だったのだろうか。最初から最後まで不自由のままだったのだろうか。少なくとも、彼女のこころは俺よりずっと、自由な気がする。モモコに名前を呼ばれる。
「リコにあるのと同じだけ、あなたにも自由の可能性があるのよ。それは必ずしも楽ではないけど、生きるヴィヴィッドさを強くしてはくれるわ」
「自由はすなわちいいもの、じゃないのか?」
「残念ながら、イコールじゃないわ」
「でも、自由って、黄金のように、ダイヤモンドのように言われる」
「それは自由を知らない人が歌うからよ。自由は確かに手に入れるものだけど、所有するものじゃないわ」
「じゃあ何なんだ?」
「状態よ。火が燃えている状態は、熱いとか、光るとか、揺らめくとか、色々に読み取れるけど、それは状態の一部分を切り取ったに過ぎないでしょ? それと同じよ。自由であることと自由を夢見ることには、大きな隔たりがあるわ」
「それをリコは手に入れつつある」
「そう言うのを全部ひっくるめても、自由であることは、あなたにも手に入れて欲しいものなの」
俺はモモコの言葉をゆっくりと反芻する。俺は自由になれるのか。なった方がいいのか。ならなくても多分、生きていける。でも。
「モモコはそれを伝えるためにここで待っていてくれたんだね」
ありがとう、と言おうとしたらモモコが先んじて言葉を発する。
「いいのよ」
波の音がする。ラジオのノイズがする。モモコの気配がする。パラソルに風が当たる。
モモコが照れ隠しのように言葉を被せたことに、殊更意味を感じた、だからこそ、俺は言わずにはいられなかった。
「モモコ、ありがとう」
「だから、いいのよ。あなたと暮らせて楽しかったわ」
それが別れの挨拶にしか思えなくて、涙がじわり溢れて、景色が滲む。耳の奥がつんとなる。
「俺も、君が居て、楽しかった。ここでは多くを教わった」
「伝えることも伝えたし、そろそろ行くわ」
「……うん」
「じゃあね」
鼻の頭にキスをされた。
脇にあった気配はボトルごとなくなっていた。俺は暫くその場所で泣いた。最初に殺そうとしていた罪など忘れて、彼女の不在に泣いた。
次の列車が靄を抜けてやって来た。
百里浜の駅を出て、元の世界に戻る道中で俺は、モモコの世話をしていた日々のことを思い出していた。ボトルの内側の彼女に直接触れることは一度もなかった。注いだ愛情はやはり歪で、最期のときにすら彼女がボトルに入ったままだと感じていた通り、俺が愛していたのはボトルに入ったモモコだった。でもそれはリコも同じだったのかも知れない。俺の定めた枠の中に居る彼女を愛していた、そうなのかも知れない。モモコはそのままで自由を知り、自由を行ったけど、リコは知った自由のためにそこを抜け出す必要を確信した。そう言うことなのかも知れない。そしてそれは俺も同じなのかも知れない。自覚的な束縛感は殆どなくても、心地よいと感じる二人の檻をお互いに作って、だから、彼女は自分が自由をするのに、俺への非自由の提供をやめたいと思った。自分勝手にしか見えない彼女の行動の裏には、そう言う考えが、若しくは感覚が、働いていたのかも知れない。フェアにしよう。そういうこころが。俺がモモコと対話するよりも前からリコがモモコと話していたなら、そう言うことを既に学んでいた可能性は十分にある。いや、むしろ、リコこそがモモコにあれだけのことを教えた張本人である可能性すらある。
電車が着く。
今日はリコは居ない。ちょっと期待していた。でもそれに根拠がないのは分かっていた。
家に帰ると、手紙が来ていた。
リコからの二通目は、モモコの埋葬を一緒にしようと言うものだった。
俺は電子的なブロックを解除してリコにメールを送る。「埋葬は一緒にしよう」
リコは一人暮らしを開始していた。
玄関から案内された部屋には見慣れた調度品が並んでいた。俺の部屋から抜き取ったものをそのまま並べたのだろう。泣き腫らした顔。ボトルの中で動かないモモコ。
「ボトルごと埋めるのかな?」
俺が問うと、リコは首を振る。
「せめて、最後くらい自由にしてあげようよ」
ハサミでボトルを切って、冷たくなったモモコに初めて触れる。
公園の木の下に深めの穴を掘って、埋める。線香を一本立て、手を合わせる。その線香が消えるまでは離れられないからと、その脇に二人で腰を下ろす。
「モモコはね、今朝急に死んじゃったんだ」
「そっか。世話はちゃんとしてたの?」
「した。あなたから奪ったんだよ? いい加減には出来ない」
「そっか」
「でも死んじゃった」
「きっと寿命だよ」
線香の香りが鼻をくすぐる。時間の間延びした感じが、百里浜と似ている。リコは一緒に住んでいたときよりもずっと、しっかりした印象がある。
「あのさ」
リコが言い辛そうに、そっぽを向いたまま言葉を始める。
「何?」
俺の前に移動して来る。まっすぐに俺の目を見る。
「私達、もう一回やり直さない?」
ああ、これが自由か。前なら自分の意志を通すために俺の目なんて見やしなかった。今の彼女は自由を通すために、必要なことが何か分かってる。
「前とは、明らかに違うね」
「多分、そうなんだと思う。モモコが教えてくれた」
それが会話としてなのか、そうじゃないのかは分からない。だけど、モモコによってなのは間違いないのだろう。
「お互い前みたいなぬるま湯には戻れないよ?」
「覚悟は出来てる。と言うか、もう行動してる」
絶対にもうリコとは付き合わないと決めていたのに、そして多分彼女の自分勝手さは健在なのに、俺は彼女の変化に気付いてしまって、そしてそれは彼女の変化に気付いてしまえるように俺自身が変わっていて、口元が綻んでしまう。
「モモコの代わりはいないから、ボトル・ペットはもう飼わないと約束して欲しい」
「最初からそのつもりだよ。モモコは、モモコで、どんな他も偽物になってしまうから」
「分かった。やり直そう」
線香が燃え尽きて、それを土に埋めて、俺達は簡素な石の墓標をそこに置く。
自由の意味を体現するのには時間がかかるかも知れない、でも、道筋はモモコが示してくれた。俺は自由に向かうよ、モモコ。君と一緒に靄の向こうに置いてきたものは、もう必要ないから。
(了)
百里浜とモモコ 真花 @kawapsyc
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