第2話

 空と海の関係は変わらずに桃色と青で、パラソルを出た俺は真っ直ぐに波打ち際に向かった。

 ボトルのモモコ。

 ラジオの脇を通るとノイズが聞こえた。

 波の音。

 ノイズ。

 波の音。

「ごめん」

「いいのよ」

 ボトルを海の始まりに置く。

「さよなら」

 モモコは何も言わない。大海原の果てを見ている。

 波がボトルを拐わない。いつまでもボトルはそこにある。

 太陽が照り付けて、あの中は暑くなって来ている。焼き殺すのは本意ではない。

 俺は裸足になって、ボトルを手に取り、ジャブジャブと膝の高さまで進む。

 モモコは生きている。

 モモコは何も言わない。

 俺はボトルを水に浮かべて、手を離す。

 ボトルに入れた手紙が異国に着くように、知らない誰かにモモコが拾われるイメージ。

 ボトルは暫く浮いて、波に踊って。

 世界との繋がりの穴から水が入って沈み始めた。

「モモコ!」

 俺はボトルを捕まえる。

 既に半分くらいが海水で、モモコがもがいている。

「モモコ!」

 俺は急いで海水を抜く。海の入り口に突っ立ったまま、モモコの様子を見守っていたら、モモコはブルル、と体を振るわせて水を払って、はぁ、とため息をいた。

「モモコ。こう言うことがしたかった訳じゃないんだ」

 何も言ってくれない。俺の顔をじっと見る視線があまりに痛い。

「違うんだ。新天地に流れていけばと思ったんだ」

「ここは暑いわ。パラソルの下で話しましょう」

 俺は言いつけを守る幼子のように、靴を拾ってパラソルの下に潜り込む。

「もし、私を新天地に送りたいのなら、このボトルから出して欲しいわ」

 それは考えてなかった。多分、カタツムリの殻とか亀の甲羅のように、一体になったものと俺は無意識に考えていたのだと思う。俺にとってモモコはボトル込みの存在なのだ。

「出てもモモコなのかな」

「それはそうよ。ボトルから出た途端に巨大化したりしやしないわ」

「でも今はハサミとか、ない」

「今度でいいわ」

 連れて帰ることは考えてなかった。でも、殺すようなことはしたくないのはよく分かった。仕切り直しだ。今日はモモコを放すことは諦めよう。

「あんなことをした俺の家に、また戻るのは嫌じゃない?」

「いいのよ。私はこうして生きているのだから」

 もう一度水平線を見る。船が一艘もない。モモコの言葉に甘えよう。

「ありがとう、モモコ。少しこの一里の浜を散策して、帰ろう」

「私も何か他のものがあるんじゃないかって、気にはなっていたの」

 パラソルから出て右側は駅に連なるピンクの靄で行き止まり。点在するパラソルだけの場所。

 だから、左側に歩いてゆく。でもその前にモモコに水を飲ませる。

 何もない。パラソルも途中からない。

 なのに急にお面屋があった。人はいない。

 俺とモモコはそれぞれにお面を吟味する。ひょっとこ、般若、お狐、能面、いつのか分からない戦隊ものや女児向けアニメのヒーロー。風がそよいで、お面の全部が揺れる。売り場の右上に垂らされた風鈴が鳴く。

「仮面ってペルソナとも言うよね」

「そうね」

「パーソナリティの語源。仮面を被った方が、生き易いのかな」

「社会の中ではそうよ」

「どうして?」

「素顔を見せることを目的としてない場所だからよ。社会の目的は、共通の利益の追求よ。それには必ず役割を伴うわ。素の人間がしたい何かと、発生している役割が一致し続けることはあり得ない。だから、社会側に合わせるために、仮面がある方が楽よ」

「じゃあ、社会の中では自由はないのかな」

「決める側になればある程度の自由はあるわ。裁量でしかないかも知れないけど、それでもある程度はあるわ」

「じゃあ自由に生きると言うのは、社会から離れることなのかな」

「離れる必要はないわ」

 俺は首を捻る。お面屋の端まで見終わる。モモコが続ける。

「自由は自分の行きたい方に行くことよ。だから、社会と調整をすれば離れなくてはならない訳じゃない」

「つまり、自由の定義と、社会の中でのペルソナの意義の定理は、両立可能ってことだ」

「その通りよ。矛盾はしないの」

 また風鈴の音。背後では電車が来た気配がする。

 もっと奥には岩礁で、登ってみたらさらに向こう側は靄で見えなかった。ここの場所のことを考えると、あの靄の中に踏み込むのは自殺行為だと思ったので、理性的に引き返した。

「散策はこれで全部だね」

「そうね。海も十分堪能したわ」

「電車に乗って帰ろう、モモコ」

「それがいいわ」

 俺達は電車に乗り込むべく、切符を買う。PASMOは使えなくて、現金決済だった。

「涼しくて、いいわぁ」

 モモコが電車に乗って感嘆の弁を漏らす。その通りだと思った。客は他に誰も居ない。

 プシュー、とドアが閉まる。

「モモコ、きっとまた喋れなくなるよね?」

「それでもいいわ。日常に帰りたい」

「俺はモモコのこころを忘れないよ」

「ありがとう。逃すときにはボトルから出すことも忘れないでね」

 窓の外がピンク色に染まる。

 いずれそれを抜け、九十九里鐵道に合流する。上総片貝駅に着いた。

 降りると、リコが立っていた。


「モモコ!」

 リコは俺からモモコのボトルを引ったくる。ボトルの内側に少しの海水が残っているから、何をしたのか読み取られそうで体に力を込める。でも、リコはモモコ自体を見ているようだった。

「リコ、どうして?」

「家に戻ったらモモコが居なかったから、もしかしてと思って来たのよ」

「どうやってここが分かったの?」

「スマホにGPSが付いてるじゃない。それを追跡出来るアプリがあって、それでこの電車に乗って行ったり来たりしていたところまでは分かって、その後消息不明になったからここで待っていれば来るんじゃないかってヤマをかけたの」

「何、そのアプリ」

「もう別れたんだから気にしないで。スマホを探せば入ってるから消去すればいいわ」

「そんなスパイみたいなことしてたのかよ?」

「いいじゃない、こうやって役に立ったんだから」

「やっぱり、別れて正解だったね」

 腹の下の方から怒りが沸いて来る。浮気なんて一回もしたことがないのに、そんなアプリを入れてるなんて。

「モモコ、一緒に暮らそうね」

「何言ってるんだ。モモコは俺と暮らすんだよ」

「何でそうなるのよ。私が買って来たのよ」

「世話の殆どは俺がしてたし……」

 俺は今日、モモコのこころの素晴らしさを知った。

「してたし、何よ」

「モモコは俺にとって大切な、ひ……生き物だ」

 人ではない。でも、人格があるから、人と言う方が正しいのかも知れない。

「そんなの知らないよ。私はモモコと暮らす。こうやって取り返せたと言う事実が、私の意志を推奨しているわ」

「じゃあ、俺が今日一日モモコと過ごしたことだって同じだろ!」

「それはモモコの温情であって、意志ではないわ」

「屁理屈ばっかりこねるなよ」

「とにかく! モモコと暮らすのは私なの」

「モモコの意志はどうなんだ?」

「そんなの表明出来る訳ないじゃない。大丈夫? 頭打った?」

 俺の方をずっと見ていると言いたかったが、モモコはずっとリコの方を見ている。確かに、俺はモモコを今日何回か殺そうとした。意図してなかったとは言え、した。そう思ったら急激に胸の中に罪悪感が芽生えて、ずっしりと重くなる。

「分かったよ。ちゃんと世話するんだよ」

「当然じゃない」

「これまでやってなかっただろ」

「それはあなたがしてたからよ」

「……本当に自由を知ったのかな、ただわがままを撒き散らしているだけじゃないのか」

「自由? 何の話? わがままで結構。私は私の生きたいように生きるの。もういい? モモコと最後に何か話す?」

 俺は頷いてモモコと視線を合わせる。さっきまでの知性に彩られたものはもうなかったけど、それでも俺はモモコに「これまでありがとう。俺はちゃんと俺を生きるよ」と伝える。

「終わったよ。リコ、家に残ってるものは処分していいんだよね?」

「駄目に決まってるでしょ? 何のために合鍵をまだ持ってると思ってるの? 私が自分で始末を付ける」

「分かった。一ヶ月以内に終わらせてくれ。それを過ぎたらこっちで処分するから」

「それでいいわよ」

 視線が交差する。リコが小さくため息をく。

「もういいでしょ?」

「別れたからってそんなにつっけんどんにすることもないだろ? 普通に喋れよ」

「私は過去と深く交わりたくないの。一刻も早く未来に行きたいの」

「そうかい。じゃあ、さよなら」

「モモコのことは任せて。さよなら」

 そうする必要は全くないのだけど、俺は彼女等が見えなくなるまで駅で立ち尽くしていた。

 モモコは幸せになれるのだろうか。少なくとも、ボトルから出さなければ手に入らないものが多いように思う。

 俺はリコに『ボトルから出してあげて欲しい』と送ったが、ブロックされているのだろう、返信はなかった。

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