百里浜とモモコ
真花
第1話
スチームピンクの
「百里浜、百里浜」
アナウンスに従って、降りる。多分、このまま乗っていれば元の九十九里に戻れるのだろうけど、俺の目的のためには時空から溢れたような百里浜が都合がいいと思った。
ボトルに入ったモモコを持って、電車を降りる。暑い。今年は冷夏だからやはりここは別のどこかなのだろう。
ホームにある自動販売機で水を買う。モモコにも飲ませないといけないから、水だ。
「暑い」
開いている方の手で額の汗を拭う。
「暑いわね。ねえ、水を頂戴、死んでしまうわ」
「分かった」
え?
自然に会話をしたけど、モモコが喋るなんてあり得ない。だって、ハムスターだ。それとも、あの靄の向こう側、いや、こっち側では動物は喋るのだろうか。
「モモコ、喋られるの?」
「急に思い出したのよ。でもね、頭はいつもクールに回転していたわ」
「取り敢えず、水」
俺はボトルをベンチに置いて、長いスポイトをボトルの口から差し込んでモモコに水をやる。美味しそうに飲むモモコ。いつも通りの表情だ。
「ありがとう、もういいわ」
非現実的だけど、そんなことよりも現実に起きたことの方が強過ぎて現実感がないから、モモコが喋ることは受け入れることにする。と言うより、彼女に訊いてみたくなった。
「ねえ、モモコ、リコはどうして居なくなっちゃったのかな」
「大学に行けば会えるんじゃないの?」
「そうだけど、会い辛いよ。じゃなくて、同棲までしていたのに、さよなら、って、どうしてだろう」
「セックスに満足出来なかった訳ではないわ」
齧歯類にセックスを評価される。プライドとか通り抜けて、天晴な気持ちになる。何より、俺が危惧していた居なくなった理由の一つがセックスで、そう言う理由だったら一生コンプレックスになりそうだったから、最初に氷解させてくれたのは、ありがたい。
「そんなことも話してたの?」
「女の子がペットに話す内容って、かなりエグいわよ。ねえ、ここは暑いわ。日陰に行きましょう」
俺はモモコが入っているボトルを持って、駅を出る。
浜には放置されたパラソルが幾つもある。
振り返れば、線路が途中からピンクの靄の中に消えている。
駅舎を除くと日陰と言えるのはパラソルの下くらいしかなさそうだったから、浜に歩を進める。パラソルは見ため清潔そうだからそのまま使うことにした。半分砂に埋まったラジオがあって、回してみたらまだ電池が生きていて、英語の局だけがクリアーに繋がったのでそれを小さく流す。
「リコは俺が嫌いになったのかな」
「違うわよ」
「じゃあ、何で?」
「あの子は自分の自由を見つけたのよ」
ボトルに入って一生を終えるペットである「ボトル・ペット」であるモモコが自由を口にすることに、違和感と同時に重みを感じる。ボトル・ペットは今流行っている小動物の飼い方だ。赤ちゃんの内にボトルに入れて、その中で成長させて、出られなくする。長いピンセットとか、特殊な土とかを使って、環境を整え、長いスポイトとかスプーンを使って世話をする。腕に抱くことは一切ない。ボトルシップの要領だ。どうして流行っているのかは分からない。流行っているから流行っている。商売として成立している間は動物愛護団体のテロに誰も屈しない。命よりも愛護よりもイデオロギーよりも、流行と金。
「リコの自由と、俺と一緒に居ることは矛盾しないと思う」
「それはあなたが思う彼女の自由であって、彼女が思う彼女の自由ではないわ」
モモコはリコが買って来た。一緒に世話をしている内に俺も情が移って、いつの間にか俺が世話係になっていた。
「じゃあ何だ、リコが自分で思う自由を体現するためには俺が邪魔だったってことか?」
「そうよ。正確には、帰るべき場所として鎮座しているあの家が邪魔だったの。別に根無草になることが自由って言っている訳じゃないわ。ただ彼女にとっては少し……落ち着き過ぎたのよ」
「それの何が悪いんだ?」
「もう少し彼女が自分と世界の関係を知ったら、ああ言う場所を欲するようにはなるとは思う。でもあなたのところにはもう帰れないでしょ。不義理をしてしまったんだから」
確かに俺は怒っている。だから一番の思い出であるモモコを捨てようと、浜まで来ているのだ。だから彼女の言う通り、もしリコが帰って来たとして受け入れられるのかどうかは自信がない。少なくともモモコを捨てたらもう引き返せないだろう。
ラジオから昔のと思しき歌が流れて来る。Down townと繰り返しているからそう言うタイトルなのかも知れない。
「ねえ、モモコ。自由って何なんだ? 俺には全然分からない」
「私はだいたい分かってると思う。それはね、自分がどうしたいか、自分がどうありたいかを自分で決めることなのよ。そしてそれに殉じて生きることこそが自由なの」
「じゃあ、よく歌とかである、支配とか不自由から抜けるってのは?」
「不自由の反対は自由ではないわ。でも、不自由は押し付けることが簡単に出来るものよ。そうしたら、それに対して抗うでしょ? 反対するでしょ? そもそも、何かに反対するって行為はとっても受動的で、自主性を欠いた行為だと思わない?」
波の音がする。波の音というのはどこでしているのだろうか。海の上? 砂との境目? 海底の滑り?
「言われてみれば、その何かがなかったら、生じない行為だね」
「その通り。だから、何かを考えさせないようにするときには、その否定形のものを押し付ければ、それに囚われるわ。学校、議員、会社、どこでも使われている古典的な手法よ。自由を考えさせないためには、不自由を押し付けるの。そうしたらいつまでたっても自由を考えることにならないから」
「恐ろしい」
モモコが笑ったような気がした。
「と言うことは、押し付けられていた実感があるのね」
「ルールはどうなんだ。ルールから抜け出すのは」
「人は二人居ればルールが生まれるわ。場合によっては一人でもルールがある。トイレはどこ、寝床はどこ、食事はいつ、みたいにね。だからルールから脱却するのを目指すのは、自由を得るための方策としては却下ね。自由であることはルールの存在を知りつつ、作る側に回るでもなく、ときにはみ出してでも、自分がどうあるかを貫くことになるわ」
言われてみて、社会のルールから抜け出した極道が今度はアウトローの中のルールに縛られると言う話を思い出した。
「ルールの有無は自由に関係がないのではなくて、ルールは常にある、と言うことか」
「ある中でどうするかよ。破ってもいいのよ」
モモコに「ルール」と書いた障子紙を構えられてような気がした。そしてそれを意味なく破ることには価値がない。自分がどうしたいかを通すためにやむなく破るのならば価値がある。そう言うことだ。
「モモコはどうしてそんなに自由を知っているんだ?」
暗にそんな場所に居ながらと熱弁しているのは伝わると思う。そこに閉じ込めたままにすると決めたのはリコと俺なのに。
「世界と繋がっているわ」
俺は咄嗟に彼女と世界の交流部位を見た。あまりに狭くて、本体の通ることの叶わない穴。ボトルの穴。キャップを閉めればモモコは死ぬ穴。でも、彼女にとってはその穴は希望の穴で、哲学の穴なのだ。人間もボトルに入って生活したらもっと高尚になるのかも知れない。セックスと金と地位とパワハラのことだけを考えることから抜け出せるようになるのかも知れない。
「確かに、繋がっている」
「私の行動範囲が狭いのは自分で分かっているわ。だけどね、世界との繋がりは絶たれてない。私の精神はどこまでも自在にあるわ」
「自在?」
「自由とは違うからよ。自在、つまり、自分の思う方に行ける力が、ちゃんとあるってこと」
「俺も自在なのだろうか」
「当たり前よ。ただそれを発揮していないだけよ」
「今発揮していない力は、永遠に発揮しないと思う」
「そうかもね。でも、発揮しようと決めたら、いつでも出来るわ」
モモコがじっとこっちを見る。もぐもぐした口元からは想像の出来ない知性。いやそれ以上の迫力。
ラジオに急にノイズが入る。手に取って振ってみて変わらないからヘルツ数を変えてみる。それをモモコは見ている。何も言わないで見ている。急にピタリと合って「kampo medicine for animal」と聞こえた。
「モモコ、動物にも漢方薬を使うのかな」
「ほら、自在じゃない」
俺はラジオを遠くに放り投げた。小さくなった声で処方の説明をしているのが辛うじて届く。風が向こうに吹けば聞こえない。
俺は水平線を見る。どこか桃色がかった空との境目は、手前では波打っていても奥では静かにしか見えない。見れば、モモコも同じ景色を見ている。でもきっと、感じるものは天地の開きがあるのだ。俺はモモコを捨てるためにここまで来た。モモコは勘付いているだろうか。今話しているのが今生の別れで、遺言の応酬で、思い出のピリオドだと言うことに。
「別にいいのよ」
突然モモコが言うから、俺の考えに応じたものだと思った。でも、いくらなんでもそれはないと首を振る。
「何が、いいんだ?」
「私の人生がこの中だけなこと」
ボトルの中で一生を終える動物が、自然な訳はない。だけどだからこそかけられる愛情があって、その歪さがボトル・ペットの醍醐味だ。そしてそれは動物のことを一切無視しながら、その状況に愛を注ぐ。最初からそうだと決まっていたからと言って疑問を持たなかった訳じゃない。リコが普通にそうしていたからでもない。やってみたら、その歪みが心地よかったのだ。モモコの幸せは考えてない、俺が心地よかったのだ。
俺はモモコのことを今日まで考えて来なかった。
最後になって。
モモコ。
俺は首を振る。
「ごめん」
「だから、いいのよ」
俺はじりじりとパラソルから出られないままで居ることをもうやめようと思った。
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