覆水盆に返らず

雨宮吾子

覆水盆に返らず

 床に落として割ってしまったご飯茶碗の釉薬を飼い猫が鼻先に嗅ぐのを私は見ていた。見る、見つめる、眺める、視界に入れる。今の私がそのどれに合う行動を取っていたかは分からないし、どれが正しい行動なのかも分からない。とにかく猫を抱え上げて別の部屋に運んで扉を閉め、ゆっくりゆっくりとご飯茶碗の欠片を拾っていく。大事にしていたのにどうして落としてしまったのだろうと自分を責めたり、数少ない食器の一つだから今日の午後にでも新しいものを買いに行くしかないなと冷静に考える自分がいたりして、けれど気忙しい気分の移り変わりではなかった。却って静かに、その動作に見合った心の動きをしている。そんなふうに考えられるのだから、どちらかというと冷静さが基調になっていた。

 自宅で三食とも食べるときは一日分の食器洗いを夜にまとめて行う。一人だから大した量ではない。けれど、ご飯茶碗は三つしかないから、その一つが欠けたのは不便ではある。ただ、今はそれ以上に感じるものが大きい。そのご飯茶碗は前に好意を持っていた人と選んだものだった。その人とは結局どうにもならず、どうにもできなかったけれど、その分だけ澱のようにして心に蓄積されているものは多い。今、ご飯茶碗が床に落ちて割れてしまったとき、封印が解けたかのようにそうした経緯が頭の中に広がっていくのを見ていると、そのことがよく分かった。

 箒でご飯茶碗の欠片を一所にかき集め、ちりとりに収める。その、掃除に必要な僅かな動作を、気が遠くなるような気持ちで進めていく。一人で良かった。ここに誰かがいれば、きっと八つ当たりでもしたかもしれない。けれども食器棚の空間が暗示するものは、私の人付き合いの悪さなのだった。

 扉の向こうの気配はうるさくはない。リボンと名付けている私の飼い猫は普段から物静かなものだ。時折、何かの拍子に私の周りをそわそわと歩き回ることがあるけれど、ご飯茶碗を落としたときにスイッチが入らなくて良かった。リボンはきっと私よりもずっと利口だから、私が不器用にご飯茶碗を落とすのを見ていただろうし、どうしようもないくらいに取り乱しかけている私の心中を察したのだろう。私すら分からない、私の心中を。一人で暮らす生活は寂しいだろうからと、あの人が連れてきてくれた。黒猫は好かれないというけれど、私はそうでもないなと自分を見つめ直すきっかけになったあの子。私にとって、あの人の名残の片方が欠けてしまった今では、もうあの子だけなのだ。

 ああ、この気持ちは膨らんでいくのだろうか、それともしぼんでいくのだろうか。少なくとも私とリボンとの生活は、新しい回転をし始めるのだ、と私は直感した。

 覆水盆に返らず。早速、私の気持ちは揺れ始めている。ご飯茶碗の話なんてどこへやら。でも、きっとそれが人の世の常なのだ。去った者はいずれ忘れられる。でもそれを悲しむ気持ちだけは忘れたくないと、私は思うのだ。だからしばらくはこの場所を歩くときはスリッパも靴下も脱いで、ご飯茶碗の小さな欠片が足の裏をちくりと刺すのを、嫌がらずに引き受けよう。私の決意なんてあの古い浄水器のフィルターの効能よりも当てにならないけれど、とにかくそう思ったのだ。

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覆水盆に返らず 雨宮吾子 @Ako-Amamiya

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