香る少女

IZUMI

香る少女

 ふんわりと、不思議な香りがした。

 グレープフルーツみたいな、甘い匂い。なんだか懐かしい。

 いても立ってもいられず、少女はガラスばりの工房を覗き込んだ。

「咲希ちゃん?」

 ふいに名前を呼ばれて上目遣いに、扉を開けたその人を見た。

「黒目がぴかぴかで、美人さんね」と言われたので、慌てて目を背けた。頰が熱かった。母は少女の頭を手のひらで押しながら、深く頭を下げさせた。

 招かれた部屋はさっきの香りに満たされていて、壁一面が森林の写真で覆われている。所々に本物の植物もあって、柱の向こうでたえまなく蒸気が上がっている。

 中学校に入学してから、いや、小学生の頃からずっと学校のどこにいればいいのかわからずにいた。だれかと一緒にいても、だれもいないような気がして、心のいちばん奥にあるはずの軸がすっと抜き取られ、真ん中が空洞になってしまっているようだった。

 ずしりとした白革のソファに母と座ると、重みが中央に集中したせいかお互いの体が斜めに触れ合って、少し恥ずかしい。

「もうすぐ今年も終わるというのに、いつまでもぐだぐだしていて。何考えてるんだかもう、わからないんですよ。ほら咲希、きょろきょろしてないで、…いつもこんな調子で」

「好奇心があっていいじゃない。その写真は武蔵野の原生林なの。遠慮しないで、近づいて見てみてね」

 立ち上がり、写真を覆っているプラスチックに手を重ねてみると、森のエネルギーが身体を突き抜けてくるみたいだった。

「武蔵野は火山灰の地層でできてるから、田畑の開発が進まなかったの。おかげで原生林が残っていてね、地下を流れる湧き水がたくさんの動植物を育んできたのよ」

 精油の調香師だという真理子さんは笑って、

「今焚いているアロマは、青森県で見かけた花が武蔵野にも咲いていると聞いて探して作ったんですよ。私はいつも、香料の瓶を持って武蔵野を歩くんです。この香りにはその時見えた景色とか、心にしみた感覚がすべて詰まっているの」

 真理子さんの言葉ひとつひとつに、母は大きく頷いている。

 

 学校に行けなくなった。

 自分で選んで受験させてもらった学校なのに。

 いじめられたわけでもないし、成績がひどく悪いわけでもない。

 世界には、学校に行きたくても行けない子どもたちがいることもわかる。

 病気なのにがんばって登校している子がいるのも、知っている。

 病院に連れて行かれて、ほんとうの痛みに蓋をしているんですよ、と言われたけれど、痛いとは感じていない。

 このことで母が悩んでいることも、だからこんな自分ではよくないことも、わかっている。

 なのに、悲しいのかつらいのかもよくわからなくて、止まった時の中に、次々と熱いとか痛いとか眩しいとか強いとか速いとか、いろいろな感覚が押し寄せてきて、もうそれだけでいっぱいいっぱい、ただ今の今に集中するだけで、あっという間に一日が終わってしまうのだ。


 森林の写真のよこには街の航空写真があり、今自分がいる場所を確かめようと目を凝らしていると、長い人差し指が「ここだよ」と言った。筋ばった手の甲から青いセーターに包まれた腕に沿って見上げていくと、背の高い少年だった。真理子さんが「章ちゃん」と言った瞬間、パッと手が引っ込められた。

 真理子さんは、大学生の息子が冬休みで帰って来ている、と母に話していた。「章太郎、どこか行くなら、咲希ちゃんのことも連れて行ってあげてよ」

 彼はふと考えている風だったけれど、すぐに「わかった」と答えた。

「玉川上水の先の林に連れて行ってあげたら? 今年は紅葉が遅くて、もう十二月だっていうのに今がちょうど見頃なんですよ」

「咲希、よかったじゃない。行って来なさいよ」

 母は娘のことを真理子さんに相談するためにここへ来たものの、いざ本人を目の前に話すとなると気遣うようで、結局さっきからありきたりな世間話ばかりしていた。写真を観ながらそういう気配を感じていたので、外に出られることになってほっとした。

 赤いダッフルコートの鈕をかけていると、深緑色のジャケットを羽織った章太郎が「お待たせ」と玄関に手招いた。

 表に出ると、章太郎は、はああ、と大げさにため息をついた。

「親たちの前ってなんか肩こるよね。あ、何したい? いま中学生って何がはやってるの?」

「中学校へはまだ、ほとんど行ったことがないから、わからない、です」

「そうか。…よし、よし、いいよ。わからない者同士、気ままに行こう」

 冷んやりと乾いた風が頬をさらって、見上げると雲ひとつない青空だった。話しているうちに足が弾んで、いつのまにか薄の茂る小道に出ていた。その先には武蔵野の森が広がっているのが見え、思わず足を止めた。

「すごい! 見て見て見て」

 少女は舞い降りてくる色づいたもみじと銀杏を、紙風船のように幾度も幾度も放り上げた。足元の枯葉をさくさくと音立てて崩しながら、両手を精一杯天高く伸ばしている。

 思い出した、昔、幼稚園くらいの女の子がおんなじことしてた。あれも、この子だったんじゃないか。

 章太郎は「ああ」と言って口を閉ざした。


 あの時僕は中学一年生で、旅先の事故で父を失ったばかりだった。僕は葬儀後、生活が落ち着くまで二ヶ月間学校を欠席した。母が平常の仕事を再開した時、女性のお客さんが母の調合を待っている間、その子どもがここで遊ぶのをみてあげたことがある。僕は疲れ切っていて、一緒に遊んであげるというより、本当に、ただぼうっと見ていた。

「すごい! 見て見て見て」と、小さな女の子が舞い散る色とりどりの枯葉をすくい上げて遊んでいた。時々すごい勢いで僕のところに駆けてきては、また戻って行った。そしてふと僕の隣にちょこんと座って、金色に燃え立つ銀杏の木を眩しそうに眺めていた。僕はただ、「学校に行きたくないなあ、行きたくない」と一人で呟いていた。「疲れた、もうぜんぶ嫌だ」と呟く僕に、その子はじっと耳を澄ませて、またきゃっきゃと笑った。


 そんなことを章太郎は思い出していた。

その時、小さな木枯らしが吹いて、散ったばかりの落ち葉が螺旋状に巻き上がった。「すごいね」と言ったが、彼は小さく頷いただけで、まばたきもせず木のてっぺんの方を見ていた。

「咲希ちゃん。ごめんね」

「え」

 自分が「見て」と言った時ぼんやりしていたことを、こんなに切実に詫びてくれる彼の態度に、胸の奥がとくんと鳴った。

「大丈夫。そんなこと、全然気にしてないよ」

「そうか」

 彼が軽く頭をたたくように撫でてくれた時、少女はなぜだか、自分の方がお姉さんになったように感じて、ふと、真理子さんの口調を真似てみたくなった。

「章ちゃん。」

 でもその声は甲高くて、真理子さんのとは全然違う言葉に聞こえた。

 章ちゃんはまだ柔らかい銀杏の葉を一枚拾い、小瓶の蓋をあけた。あの時から、彼の母親がいつも持たせている精油だ。中の液体を数滴振りかけてから手渡してくれたそれは、玄関先で自分を強く引き寄せたあの香りだった。

「わたし、ずっと前にここに来たことがあるような気がする」

 かざしてみた銀杏の葉の先に見える景色がなつかしくて、いとしかった。

「咲希ちゃんは、どうして今の学校に入りたかったの?」

「看護師になりたくて」

 自分には助けたい人がいる。だれかを救える人になりたい。なぜなのか、ずっとそう思い込んでいた。だけど、思いは強まれば強まるほど雪だるまのように頭の片隅で転がり続け、固まってしまう。何より、その助けたい相手が誰なのか、自分でも思い出せなかった。

「これは葛の香りだよ。青森の方にあるらしいんだけど、母が近くで探して作ったんだ。

 僕、思うんだけど、一気に全部を出すのは難しいから、何でもいいから今できることをしていくと、少しずつ通り道ができて、本当に出したい大きなものも表せるようになる。だから、声だけでも、息だけでもいいから、一瞬一瞬、何かを少しだけ自分らしく色づけて表現してみたらいいんじゃないかな」

 そう言いながらも、章太郎は自身が少女の人生に何か重いものを与えてしまったのではないかという疑念を払えずにいた。でも彼女は、もう一度精油を垂らした銀杏の葉に鼻先を近づけて深呼吸し、「ありがとう」と微笑んだ。


 心の空洞が葛の香りで染め上げられると、そこに軸を差し込むスペースがあるということを感じ取ることができた。章ちゃんは赤いコートのポケットに小瓶を入れて在処を確かめるように上からとんとんと二度たたき、「うわっ」と声を出した。

「咲希ちゃん。子猫がいるよ」

 落ち葉を集めてできた小さな塊の中に、モールみたいに細い手足をした白っぽい生き物が横たわっていた。僅かに濡れているようで、淡く透き通った毛に玉露が光っている。

「死んでるのかな」と言うのを聞いた瞬間、私の心にスイッチが入った。

 ハンカチを取り出して猫を包んだ。猫は冷たくて、小さすぎて、呼吸しているのかしていないのかさえわからなかった。

「章ちゃん」

 隣で屈みこんでいる章ちゃんの息遣いがゆっくりと伝わってくる。彼の体温がコート越しに私と、私に抱かれた猫に広がっていく。指先が、震える。

「章ちゃん、助けよう」

 そう言うと、章ちゃんは私の腕を掴んで走り出した。

「駅前に、動物病院があるから」

 青空を遮る澄み切った陽光が、二人の頰を照らした。私はちらりと空を見上げ、奥歯に力を込めて脚を速めた。

「あ、猫が」

 手のひらは子猫の皮膚が小さく収縮したのを感じていた。

「生きてるか?」

「生きてる!」

 章太郎と咲希は瞳を見合わせた。

「急いで」猫は章ちゃんの左腕に抱かれて、章ちゃんは改めて私の手を握った。章ちゃんのあたたかい体温を感じながら、差してくる太陽の光に向かって走ると、全身がかっと熱くなって、瞼から大粒の涙が溢れてきた。

 汗とともに、体のあちこちに染み込んでいた葛の香りがじんわりと肌からにじみ出て、甘く清洌な空気の膜を作り、私は、何度も何度もその膜を破りながら、全力で駆け抜けた。

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