地の文とセリフ ─地の文編─ ①
皆さんは地の文を書くのが得意だろうか?僕は普通だ。
自分の小説を見返してみると、他の人の作品に比べて地の文の比重が大きいような気もするが、かといって得意という話ではなく、ただの傾向だ。
この作品は地の文を延々と垂れ流していると言えなくもないが、読者に語りかけるという体裁上、ずっとセリフと言えなくもない。
まあそんな具合で、僕は地の文もセリフも特に苦手意識無く書いている。
しかしながら、色々な人の近況ノートや、流れてくるツイートなんかを見ていると「地の文が苦手」とか「セリフが思い浮かばん」とか、言っている人を見かけることがある。
どうやらそういう人は少なくないらしい。言われてみればレビューのために読んだ作品の中にも、極端にどちらが稚拙な作品をちらほら見かけた覚えがある。
ということで、今回は地の文とセリフについて話していこうと思う。
さて、タイトルにもある通り、今回はその二つの中でも地の文にフォーカスしよう。
地の文の話をする前に、大前提として小説の「人称」について話さなければいけないだろう。
まあ小説を書いていれば、一番最初に考えることなので、今更言うまでも無いだろうが、一応。
小説には「一人称小説」「三人称小説」そして、本当にごくごく稀に「二人称小説」がある。
順を追って説明しよう。
一人称小説は、ネット小説において、恐らく最もポピュラーな書き方だ。
その名の通り、語り手(大抵の場合主人公)の一人称から物語が語られ、主に主人公の感情や考え方を通して描写される。
「俺の名前は丸山 智。若い女が大好きな盗撮魔だ」といった感じの出しから始まれば、基本的には一人称小説である。
先述の通り、主人公の考え方等を強く反映するため、主人公がとんでもない異常者だったりすると、読みずらくなる場合がある。注意が必要だ。
異世界転生作品では、主人公が読者に近い場合が多い。そのため、ネット小説は何となく一人称で書く、みたいな風潮が出来上がっている。
ちなみに、僕は一人称小説をよく書く。
次は、二を飛ばして三人称小説。
三人称小説は、その場には居ないはずの、誰でもない視点から語られる。
一人称小説とは違って、読者に伝わる情報に登場人物の考え方が反映されないため、没入感がない代わりに、全体を見渡すような視点から作品を見ることになる。
大きな利点として、視点の切り替えや時間の切り替え、場所の切り替えなど、物語が大きく切り替わる場合に混乱を招かずに書ける。ということが挙げられる。
一人称小説の場合は、感情移入をしながら読ませる傾向が強い兼ね合いで、視点移動が起きると頭をリセットしてから読まないといけなくなる。ここで、無駄な労力が発生してしまうのだ。
その点、三人称の場合は視点が変わっても語り部が変わる訳では無いので、混乱は起きにくい。
「丸山 智。車窓から外を眺める彼は、若い女を好む盗撮魔であった。」なんて書き出しだったら、基本的に三人称小説だ。
長期連載によって、話の規模が大きくなってきた終盤の異世界モノでは、主人公の視点のみでは語り尽くせないために、三人称に変わることがよくある。現時点ではその予定がなくても、三人称で書く練習はしておいた方がいいだろう。
あまり良い手法ではないが、所謂「神の視点」というのも一種の三人称小説で、その場にいないはずの誰か、という視点を神に置き換え、登場人物の知りえない情報を読者に開示する。ということも出来る。
最後に二人称小説。
こいつはかなり曲者で、こんなものを書いてるやつは大抵頭のおかしな天才野郎だ。ちなみに、2013年度の芥川賞受賞作品は、二人称小説だ。読んでみようとしたが、難解すぎて途中で諦めてしまった。
とにかく「読みやすさ」が追求されるネット小説では、まず避けた方がいい書き方だろう。百害あって一利なしだ。
一部のインターネット小説評論家様(笑)を「おや?」と思わせることは可能かもしれないが、そんなことしても意味ないので素直に辞めよう。
「彼女はあなたへ痛烈に批判するような眼差しを向けている。無論、盗撮魔だからだ。」なんて書き出しなら、恐らく二人称小説。
書き方も、一人称小説の人称をとりあえず二人称に変えればいい。というものではないので、小説を書くのとはまた別の才能を必要とする書き方だ。
といったふうに、それぞれの書き方にメリット、デメリットがあるので、自分に合った書き方を探していくといい。
では、人称についても触れたところで、僕が地の文を書く時に気をつけていることをいくつか書いていこうと思う。
まず言っておきたい。
小説はセリフがなくても成立するが、地の文がなければ成立しない。
だから、セリフより地の文が大事。という話ではなく、安定した地の文無くして、読みやすいセリフを導くことは不可能だ。という話だ。
小説の勝手がわかっていない人に多くあるパターンとして、セリフの間にキャラクターの動作や表情の動き、声音などの描写が挿入されていない。というのがある。
セリフが多いシーンで、地の文を挟んでいくのが難しいことは、小説を書いたことがある人間なら誰でも知っているだろう。しかし、我々はそれでも地の文を書かなければならない。
地の文の重要性について、例文を使って説明しよう。
「おい、お前後ろ見てみろよ」
「冗談言うなって、そんなんじゃ騙されねえよ」
「嘘、だろ……」
このセリフだけだと、パニックホラーみたいな雰囲気を感じないだろうか。少なくとも、僕はそのつもりで書いた。
では、ここに地の文を挿入する。
「おい、お前後ろ見てみろよ」
薄暗い部屋の中、AはBの後ろの辺り、何も無いはずの虚空を指差す。
その指は、プルプルと震えていた。
「冗談言うなって、そんなんじゃ騙されねえよ」
Bは少し小馬鹿にするように言いながら、細身の指を指した方へと目を向けた。
「嘘、だろ……」
Bはあまりにも予想外な光景に、自分の目を疑った。二度、三度両目を擦る。そして、それに書かれた内容を改めて読んだ。
『誕生日おめでとう』
適当に飾り付けされた紙が、エアコンの風に吹かれてユラユラ揺れる。Aは、震えながら笑いを堪えていた。
こんな感じで殺伐としたパニックホラーが、地の文次第ではサプライズ誕生日パーティに変わる。
セリフには不可能な芸当だ。
このように、地の文というのはセリフだけでは補いきれない登場人物達の動向を、読者に伝えるためのものである。
いくらストーリー展開が面白く、キャラクターの設定が凝られていても、地の文が拙ければ作品としては評価されない。面白い、と感じる所まで読者を連れていくことが出来ない。
それは絵の下手なマンガや、手ブレしまくっている映画と同じだ。
では、地の文を描けるようになるにはどうすればいいのだろうか。
これに関しては、明確な方法というのはない。
自分が面白いと感じた作品を読み込み、その作家の傾向を理解して、同じような書き方をしながらオリジナルを探っていく。長い道のりになるが、おそらくこれが最短距離だ。
つまり練習あるのみ。
しかし、いくら練習をしていても、それが闇雲であっては意味がない。なので、ここからは僕なりに自分を書くときに気をつけていることなどを書いていく。
地の文を書くときに、まず気をつけることは「セリフをできるだけ減らして、地の文に書き換えること」だ。
現実世界には、原稿用紙一枚以上にもなる文章を、カンペなしでペラペラ喋られる人間というのはほとんどいない。僕だって、パソコンに向かって一人で黙々と打つ分には、それなりに文章は出てくるが、他人を前にして、同じように口から話せるかというと、正直わからない。
例えば、沈黙や余韻を表す「……」
カクヨムで作品を読んでいると、これがめちゃんこ大量に出てきて、クソ読みづらかったりする。
ひどい作品だと、セリフ、地の文関係なしに八割くらいの文の末尾に、この記号が挿入されている場合があるので、どうやらこれを異常だと感じる感性は人を選ぶらしい。
この現象の問題点は、単純に見栄えが悪い、読みづらいなどの視覚的な部分はもちろん「なぜこいつは今黙ったんだ?」とか「なぜこいつはこのセリフで余韻を残したんだ?」とか、意味的な部分がかなり大きい。
「許せねえ……」
というセリフがあったとして、常識的に考えれば発言者はおそらく怒っているのだろうが。もしかするとこのシーンは新喜劇のようなコントの最中で、発言者は笑いを堪えているのかもしれない。
そういう微妙な違いというのを、セリフでは描写できないのだ。その上、記号が頻出すると、文章は見栄えが悪くなる。
なので、
「許せねえ」
Aは強く拳を握り込み、怒りに震える余韻を残した。
なんて書き方をすると、三点リーダーを省略して、地の文に置き換えることができる。
地の文の置き換えは、記号だけの話ではない。
「その拳銃貸してみてよ。そう、その腰に挿さってるやつ」
これを置き換えてやると、
「それ、貸してよ」
彼女は、触るだけで崩れてしまいそうな白い指で、僕の腰のあたりで黒光する拳銃に差して言った。
という感じになる。
日本人はなんでも端折るのが好きなので、現実の会話でも、わざわざ「腰に挿さっている拳銃」なんて言わずに「それ」と言いながら指を差すはずだ。
むやみやたらにセリフで話を進めようとせずに、そのセリフは短かくできないか、地の文に置き換えられないか。一度考えてから書いていくことを推奨する。
次に気にすべきなのは、地の文自体が冗長でないか、である。
これは、セリフの時のように単に短くする工夫を行う。という話ではなく、地の文を短めに区切っていこう。という話だ。
というのも、地の文に限らず、文章というのは一文が長ければ長いほど、読むのに疲れていく。全体の文字数が同じであっても、一文あたりの文字数が多いと、読者に不快感を与えることになるのだ。
一文に入れていい動詞は四つまで。という話を聞いたことは無いだろうか。
どこでこれを知ったのか、僕自身覚えていないが、誰でも感覚として持っているのではないだろう。
叶うことなら、一文に動詞は一つしか入れないのが一番いい。しかしながら、それでは意味が通じずらいので、二つ、三つと動詞の数は増えていく。
必要なら増えてしまうのはしょうがない。だが、不要な動詞は削った方がいいし、それが無理なら、二つの文に分けるなどの別の工夫を行うべきだ。
文章力が足りていない人は、特にこの傾向が強いと言えるだろう。
書いた文章に自信が無いために、あとから継ぎ足しで一つ一つの文が長くなっていく。
本当に文章力があるのは、最小の言葉で最大の意味を伝えられる人間だ。そのためには、作中の状況を表すのに最適な言葉を選べるだけの、ボキャブラリーが必要である。
これは一朝一夕で叶う話ではない。長期的に語彙を育てていく必要がある。以前話したように、そのためにもインプットは重要だ。
長くなってしまったので、1度ここで区切りをつけて投稿しようと思う。
次は引き続き地の文についてあれこれ話していこうと思う。
ある程度の前置きは終わっているので、恐らく次回は短めになるだろう。
それでは次回更新までさようなら。
異世界嫌いによるハウトゥー異世界小説 四百文寺 嘘築 @usotuki_suki
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