さようなら
——————————枕から、君の香りがした。
深夜、彼氏との電話。ベッドの上に座って、私はどんな顔をして声を聞けばいいか分からなくて舌を噛み切ってしまいたくなる。でも、話してみたら案外何も思わなかった。罪悪感は昨夜で使い果たしたみたい。ああ、この人のことが好きじゃないなあと思うばかりだ。
それでも、別れることが出来なかった。「この人には私がいないといけない」なんて、ありふれすぎて豚の餌にでもなってしまいそうな理由でついに結婚まで承諾してしまった。
『どうしたん? 元気ないやん』
「なんもないよ。ええからはよ帰り」
車で帰宅している彼が心配をしているフリをする。抱かれる時以外に言葉を交わすのは、携帯を通しての機会しかない。彼に好かれているわけではないと分かりつつも、今日も私はこの人を捨てられなかった。君の髪の毛は、犬に触れている時のように心地がよかった。
また途切れた会話の中、枕に顔を埋めた。もう二度と会えない、君の香りがする。不思議な石鹸の香り。何だか甘めの香りで、私はそれが好きだった。ツーブロックの刈り上げをわしゃわしゃと触るのも好きだった。
「ごめん、お手洗い」と彼氏に言い、通話をミュートにする。ベランダに出て、煙草とライターのキスを味わうためだ。
彼は私が煙草を吸っているのを許さない。一緒に吸うのが好きなのに、「女が吸うモンやない」って聞いてくれない。だから、石鹸の香りがする君との時間は好きだった。二人の『悪いコト』を共有できるのが好きだった。彼氏との約束と、法律の枷を二人で無視するのが何よりも楽しくて仕方なかった。
吸殻を捨てるバケツの中に、やけに長い状態で捨てられている煙草を見つけた。帰る前に、君が吸ったものだろうか。
「おこちゃまだね」
私も同じくらいの長さで早々に火を消し、携帯電話に戻る。——————ミュートを解除したら、本当に君との繋がりは消える。何となく、そんな風に思った。
前に進まないといけない。君の未来のために。彼氏への義理のために。……私の、エゴのために。
君の髪の毛が落ちているのを見つけて、捨てた。
君の香りがする枕を抱きしめた。
「ずるい大人でごめんね。好きだよ」
彼の声はしない。車の走る音だけがする。
『あ、おかえり』
と、思い出したように言う彼の声が、妙に掠れて聞こえた。
さようなら。
九ミリの蛍 パEン @paenn
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