九ミリの蛍
パEン
ばいばい
今日、僕は初めて煙草を吸った。十八歳も半ばの夏、貴女のマンションのベランダ、深夜二時。もう結構酔いが回っていた、ちっぽけな犯罪者二人が並んで座る夜。
口に入った煙を逃がすように吐くだけの作業だった。美味しいも何もあったものじゃない。でも貴女が目を細めて幸せそうに溜め息をつくから、僕も「意外と美味しいね」って慣れない刺激に咳込みながら言った。貴女の手に僕の手を重ねて、格好悪さを誤魔化しながら。
煙を口に入れて吐くだけの僕と、肺で味わってから吐く貴女とでは吐いた時の煙の色が違うのだと教えてもらった。何かに距離を感じた僕は、煙を肺に入れようと大きく息を吸う。当然だがさっきより激しく咳込んでしまった僕を見て、「おこちゃまだね」って貴女は頭を撫でてくれた。
ベランダで煙草を吸う人を蛍族というのだと、痛む喉を無視して僕はとっておきの知識を披露した。「素敵だよね」と言う僕の声なんか聞こえないみたいに、もう二本目を吸い始めていた貴女は「田舎の何もないトコでしか生きられない蛍って可哀想」と幸せな溜め息と一緒に溢した。そう話す貴女の横顔がやけに遠くを見ているみたいで、僕は変に寂しくなって。短くなった細い蛍の尻を地面に擦って殺した。
煙草に満足して、二人でベランダからミッドナイトブルーの景色をぼうっと眺める。レモン味の缶チューハイをちびちびと呑みながら。重ねた手は、いつしか指の絡んだ恋人繋ぎになっている。他愛もないことを話した。お互い大学を卒業できるか危ういね、就活ってやっぱり大変なの、このお酒美味しいね。そんなレベルの話を僕が延々と話して、貴女はそれに相槌をうったり短い言葉を返してくれたりした。
かこん。僕と貴女の缶を置く音が重なる。軽い音からして、もうお互い呑み終わったようだ。また口寂しくなったのか、貴女は煙草の箱を拾った。そして、今度は貴女から口を開く。
「昨日、卒業したら結婚しようって言われたの」
貴女の彼氏の話だ。社会人の彼氏の話。繋いだ手は離さない。少し強く手を握り、ありもしないアイデンティティを証明するフリをした。ここでは何者でもない僕の、存在しないアイデンティティを。
「ずっと振り回してごめんね。好きでいてくれてありがとう。……今日で、終わりなの」
彼氏がいる貴女を好きになって、一年が経っていた。月に一回くらい呑みにいき、そのたびに貴女の家に泊まっていた。彼氏に不満こそあれど好きで、それでも迷いがあって。そんな状態の貴女にとって僕は都合よくあるように心がけた。もしかしたら振り向いてくれるかもと、無駄と分かっていた期待を抱きながら。
今日で終わりなのだと分からないほど馬鹿じゃなかった。普段は吸わせてくれない煙草を吸わせてくれて、「それは浮気だから」と繋がせてくれなかった手を繋がせてくれて。
思い切ってハグをした。貴女は抱きしめ返してくれる。銀のピアスが頬にあたってくすぐったい。
頬にキスをした。貴女は何も言わないでくれた。何度も、くどいくらいにキスをした。急に貴女がこっちを向く。そのせいで頬にあてた唇が、貴女の唇に触れてしまう。「事故、だから」と。これは事故なのだと何度も二人確認しながら、唇を重ね続けた。
ベランダを閉め、またハグとキスをして、同じベッドに入った。これも初めてのこと。貴女の頭を腕で支えながら寝た。僕よりずっと小さな貴女は、今だけ僕と同じ目線で寝息をたてていた。
―――朝起きると。貴女はいつも通り学校に行っていた。セミが騒がしい。このまま帰るのが「いつも通り」だ。鍵は閉めて、一階のポストに入れる。そのルーティンをこなせば、終わりだ。
特別な『貴女』が、ありふれた『誰か』になるのを感じた。『貴女』は僕の中で特別な人への呼び名だ。初めてそう呼べた人だった。もう、そうやって呼べる人には出会えそうにもない。
……最後にベランダへ出た。一箱貰った煙草を吸う。二度目の喫煙。パーラメントの九ミリ。また咳込んだ。気に入っているパジャマから、初めて誰かの匂いがして消えてしまいたくなった。
ばいばい。
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