眠り続ける君はキスでは目覚めない
黒くて長い髪。肩出しの白いワンピース。ぱっちりとした二重。優しい声。そして、僕に見せる笑顔。
彼女の全てが大好きだった。それは『恋』と呼ばれる類のものなのだろう。僕は一瞬で彼女の魅力に気付いてしまったのだ。
彼女の名はミシャー。僕の愛する人。そして僕はエリック。ただの物書きだ。
僕とミシャーが出会ったのは、今から数年前。僕がこの町に越してきて、初めて行った花屋さんにミシャーは働いていた。
僕は一目惚れをした。花を持つ彼女があまりにも美しいかったのだ。
告白に赤いバラなんてあまりにキザなことをしたなと、今なら笑って言えるが、その時の僕は必死だった。『貴方を愛しています』なんて言葉に、ミシャーは笑って答えてくれた。
それから色んな所へ行った。二人で時間を共にできることが、何よりも嬉しかった。僕が笑うと彼女も笑う。彼女が笑うと僕も笑う。一緒にいるだけで『好き』が溢れる。それがただ、幸せだったのだ。
そんなある日、僕はミシャーの家を尋ねた。ドアをノックしても返事がない。不信に思って家に上がり、ミシャーの部屋に入る。そこにはベットに寝ているミシャーがいた。
最初はただのお寝坊さんなのかと思っていた。けれどミシャーはそれから六日間起きなかったのだ。
——『クライン・レビン症候群』
彼女が患っている病気の名前を、目を覚ました彼女から告げられた。
通称『眠れる森の美女症候群』。それは何日も眠り続けてしまう病気だ。眠れる森の美女……。確かに眠っていたミシャーは死人のように真っ白な肌で、長いまつ毛がよく見えて。あまりにも美しかった。
「もう何年も前からこの病気にかかっているの。治す方法は分からない。」
僕の知らない間、彼女はずっと苦しんでいたのだ。それに気が付けなかった自分に心底腹が立った。どうして僕が傍にいなかったんだと。自分を攻めた。でもミシャーはそんな僕の手をとる。
「貴方のせいじゃない。私は貴方に出逢えて幸せなの。」
そう微笑むミシャーに、僕はただ泣くことしか出来なかった。そして、僕はずっとミシャーの傍にいることを心の中で誓ったのだ。
街の図書館で、書物を読み漁った。どうやらこの病気はだいたい数週間程度眠り続けてしまうらしい。けれど僕はその間もミシャーと時を過ごしたいと思っていた。
——でもミシャーの身体は特別だった。
ミシャーは僕と出逢ってからあまり眠り続けないらしい。長くても一週間。それは眠れる森の美女症候群の中では短い方だ。普通は喜ばしいことだ。けれどミシャーの表情は曇っていた。
「ツケが回ってくるの」
その言葉の意味を僕は理解していなかった。そしてその翌日、僕はミシャーの母親から全ての話を聞いた。
「あの子はエリックに出逢ってから確かにあまり症状が出てない。でもね、今まで症状が軽かった分が後でやってくるの。今回の場合ミシャーは、短くても五年は目を覚まさないわ。」
絶望した。五年なんて考えもつかないくらい長い時間だ。その時間を彼女はずっと眠ったまま過ごすだなんて。そして、ミシャーの母親は僕に問いかけた。
「エリック、貴方はミシャーを愛し続けるの? ミシャーに別れを告げるなら今しかないわよ。もうすぐで、あの子は貴方の声も届かなくなるのだから。」
その言葉に心が揺れなかった、と言ったら嘘になる。けれど僕は誓ったのだ。だから僕は……。
「もしもミシャーが五年後目覚めたら、その時は結婚しようと思います。」
それは僕の決意だった。ミシャーの母親はただ静かに頷いた。そして「ありがとう」と、か細い声でそう言った。
僕はミシャーともっと一緒にいるようになった。そしてミシャーの母親に言ったことをミシャーにも伝える。
「この病気は対処方法が分からない。それでもいいの? こんな私でもいいの? 」
答えるよりも先に体が動く。ミシャーを優しく抱きしめ、「僕は君がいいんだ」と彼女の耳元で言う。その言葉にミシャーは涙を流した。それは初めて見た、彼女の涙だった。
それから、僕はミシャーの家に住むことになり、ミシャーと一緒に過ごした。この時がずっと続けばいいのにと心で願いながらも、それが叶わないことを僕は知っている。時が経つにつれ、ミシャーの笑顔は暗くなっていった。
——そしてその日が来た。
「ミシャー、僕はずっと君を愛している」
僕はベットに横になっているミシャーの手をそっと握った。ミシャーの瞼がだんだん重くなっていくのを感じる。呂律も回っていない。
「わ、私……も……エリックを…あい、し…てる……。」
その言葉だけで僕の目からは涙が溢れた。その雫がミシャーの頬を通る。ミシャーは微笑みながら最後のお願いをした。
「ねぇ……キス……し、て……」
ミシャーの瞳から涙が零れる。
僕は何となく分かってしまった。彼女にキスをしてしまったら、彼女は眠ってしまうと。
嫌だ。嫌だ。……でも!
僕はベットに自分の重心をかける。ゆっくりとミシャーに近づく。ミシャーの瞳は閉じていき、僕と唇を重ねた。
ミシャーから顔を離すと……ミシャーは長い長い夢の中へと連れ去られて行った。
「愛してる。愛しているよ、ミシャー。」
あれからどのくらい時が過ぎただろう。起きるはずの五年は遠の昔に過ぎた。それでもミシャーはまだ、僕の隣で寝続けている。体がピクリとも動かないミシャーは、まるで呪いにかかったプリンセスだ。
プリンセスは、王子のキスで目が覚める。そんなのはただのお伽話だ。何度彼女にキスをしてもミシャーは目を覚まさない。
一日の終わりには彼女に愛を伝える。でもいつからだろうか、「愛してる」に意味なんてないと感じ始めたのは。愛してるが嘘になっていったのは。
眠り続けるミシャーを見て心がぐちゃぐちゃになる。僕はこのまま彼女の目覚めを待ってていいのだろうか。それとももう諦めてしまおうか。
そんなのことを考えると、いつもミシャーの笑顔が浮かんでくる。
優しい眼差しで僕を見てくれる。僕のいい所も悪い所も全部受け止めてくれる。そうだ。そんな君だから僕は好きになったんだ。
最後に見た笑顔は切なげな笑顔。それを見た時から誓ったじゃないか。なら僕はずっとミシャーを待ち続けるんだ。でも、少しは弱音を吐いてもいいだろうか。
未だに目覚めないミシャーの手をとって膝をつく。彼女の手をぎゅっとしながら僕は涙をこぼした。
「会いたいよ……ミシャー。」
それは届かない言葉。それは伝えられない想い。でもやっぱり会いたいんだ。はやく君の笑顔を見せてくれ、ミシャー……。
でもそんな願い事が簡単に叶うはずない。また時が過ぎた。今日で丸12年、ミシャーは目を覚まさない。
仕事を片付けてから、ミシャーの手を握る。ここの所徹夜続きだったせいか、眠気が襲ってきた。
「みー……しゃ……」
——気が付くとそこは知らない場所だった。
今まで隣で寝ていたはずのミシャーも、書き終えた原稿もない。
目に入るのは広がっている草原と、青い空だけ。理解が追いつかないまま、辺りを歩き回っていると、どこからか声がした。
「エリック。」
頭に響いているような、この空間に響いているような。そんな声が聞こえる。その声の主を探していると、また声が聞こえてきた。
「哀れな子」
「悲しい子」
「罪深き子」
「妬ましき子」
「その名は」
「その名は?」
「その名は・・・・・・」
「ミシャー。」
「ミシャー・ライデンス・ディーツァ」
笑い声がきこえる。一人ではない。またもっとたくさんの声が束になって僕を襲ってくる。
その声に僕は大声で叫んだ。
「やめろ! ミシャーを侮辱するな! 」
笑い声がピタリと止まる。そして別の声が僕に問いかける。
「エリック。貴方はミシャーを愛しているのですか。」
「もちろんだ。」
僕は即答する。愛し続けると昔から決めていたのだから。
「ミシャーを助けたいのですか。」
「もちろんだ。」
何度救いたいと思ったことか。今もその気持ちは変わらない。
「そのために。どんな代償でも払うと約束しますか。」
「もちろんだ。僕はなんだってやる。ミシャーの為になら。」
ミシャーがまた笑ってくれるのならば僕はなんだってできる。
その声は少しの沈黙の後でまた喋り出す。
「その言葉、死んでも尚忘れないで下さい。貴方を信じて、ミシャーの呪いを解放します。」
突然光が襲ってくる。その光に目がくらみ、ぎゅっと閉じた。
そして再び目が覚めた時僕の前には寝ているミシャーがいた。原稿もあった。外を見たら朝になっていた。そして。
「……ん……あ、んんー……」
それはずっと待ちわびていた時間だった。
「ミシャー……。」
朝日が彼女の顔を照らす。まるで祝福するかのように小鳥達が鳴き出す。
朝日の眩しさで彼女はゆっくりと目を開けた。
彼女は涙を流す。僕も涙を流す。
優しく微笑んだ彼女は、僕にそっと手を伸ばした。
瞳を開けた彼女の最初の願いは。
静かに息を吸い込んで、あの時の、初めて逢った日の笑顔で僕にそれを言った。
「——ねぇ、キスして。」
五分で泣ける(?)恋愛短編集 桜部遥 @ksnami
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