雑木の王

成田葵

雑木の王

 その年、高句麗こうくりは滅亡した。

 天智七年(西暦六六三年)十月。のちに白村江はくそんこうの戦いと呼ばれる極東全域を巻き込んでなされた戦は、結果としてふたつの国を滅ぼし、倭国をいわゆる「日本」へと変える引き金となった。

 亡国のひとつである高句麗の民の多くは倭国へと渡来し、国号を日本と変えるまでひっそりと暮らしていた。それが霊亀二年(西暦七一六年)、時の朝廷により、日本に住まう一七九九名の高句麗人が、武蔵野国の一郡である「高麗こま郡」への移動を命じられたのだ。


 駿河の国からどれだけ歩いたか。老いたとてもともと軍王であった若光じゃっこうにとっては、さして我慢のならない旅程ではなかった。しかし、彼の民には女子どもも多くいる。この寒さに凍え、すでに死んだ者もいた。

高麗王こまのこにしき。彼の地にはもうしばらくで到着します」

 若光の家来がそう告げた。

「幾人死んだ」

「一〇〇ほど。……本日はひとり幼子が野犬に食われました」

 後ろを振り返る。民の顔からは生気が失せ、今にも皆膝から崩れ落ちそうだった。

「皆の者、よく聞け!」

若光が轟かせた声に、民は顔を上げた。

「彼の地、高麗郡まであとわずかだ!我らが故国、今は亡き高句麗の名を引く地を、天は与え給うた!あとわずかの辛抱だ。わずかの辛抱で、我々はもう一度、我々の国を手に入れることができる!今は前を向け!そして歩け!進み続けるものだけに、未来は約束されるのだ!」

 若光の激励に民は雄叫びを上げた。「玄武げんぶ様!」「我らが王よ!」と口々に若光を讃え上げる。

 若光にとって、この「こにしき」というかばねは、自らの不甲斐なさを再認識させる、あまりに重い肩書だった。王族がひとりという意味を持つこの姓は、既に国を亡くしながらまだ王を名乗らんとする己を、さながら揶揄しているかのようだと若光は感じていた。

 しかし高句麗亡き今、かつての民たちにとって、自らの縋る先としての「王」は必要な存在だった。こうして自分が声をかけることで、民たちはもう一度生気と士気を取り戻す。そう考えると、やはり己はこの姓から逃げることは許されないのだと、若光は奥歯を噛み締めた。


 それから更に一晩歩いた頃、ようやく彼の地に若光たちはたどり着いた。駿河の国から歩くうちに、彼に付いてくるかつての民の数は増え、実に一五〇〇名近い民が、この高麗郡に新たに住まうことになった。

 道中で死んだ者たちの墓を簡素に作り、まずは家を建てることになった。ありがたいことにこの武蔵野の地は多くの樹木が生い茂る。どれも黒く硬く、家を建てるのには相応しいものばかりであった。雨風を凌ぐための家屋は、民が人間らしい生活をするためには必要不可欠なものだったが、もとよりこの地に住んでいた民たちの手もあり、何とか建てることができた。

 やがて冬が終わり、春がやってきた。実りの季節。女たちは森に木の実を拾いに行き、食料とした。男たちは狩りで兎を捕まえ、銛漁などで近くを流れる川から魚を取ってきた。冬が厳しかった分恵みは多く、ほしいいもなくなろうとしていた若光らにとって、食料問題が解決したことは大きかった。しかしそれでも、根本的な問題の解決には至っていないことに、若光は頭を悩ませていた。


「稲作が必要だ」

 ある晩。かつての家来たちを呼びつけ、若光はそう言った。若光のいる家は郡の中でも真っ先に建てられた、最も大きい屋敷だった。初めの冬、民の幾人かはここで眠り、春の訪れを共に待った。

「糒が足りた故、何とか種籾にまでは手を付けずに済んだ。武蔵野の地は豊かだ。しかし、いくらなんでも一冬分の民たちの食料までは賄えまい。我々自身で、食料を手に入れられるようにならねばならない」

 若光にとって、寧ろこの地に未だ稲作が根付いていないことが驚愕であった。朝廷から遠く離れれば、こうも文明が遅れるものなのか。

「高麗王よ、恐れながら申し上げます。今、我が民たちは目の前の生活で手一杯。とても稲作になど気が向きません」

「そなたが申すこともわかる。しかし、我々が考えねばならないことは、今を生きることだけではない。この先どう生きるかということも考えねばならぬのだ。我が臣下たるそなたが、短い目線で語るとはなんと心得る」

「申し訳ございません。しかし、慈悲深き高麗王であれば、民たちが今の生活で手一杯なのはお気づきのはず。どうぞお気をお鎮めください」

 若光にとっても、そのようなことはわかりきったことだった。しかしそれでもやらねばならない。民はあの後さらに増えた。さもなくば、一体幾人の餓死者がこの冬に出るというのか。

「……わかった。ならば、私が直接開墾すべき土地を見繕おう」

「王、何をおっしゃいます」

「民は今を生きることで手一杯なのは間違いない。それは私とてわかっている。ならば……。今先を見通すものが私しかいないのなら、私がやらねばならない。……明朝よりしばし出る。私の留守の間のことはそなたたちに一任する」

 去れ、と一言残し、若光は部屋を後にした。


 開墾には水源が不可欠だ。この高麗郡にはひとつ川が流れていた。若光の屋敷のそばにも川は流れており、まずはそれに沿って開墾に堪えうる土地を探すことにした。

 若光は川に沿って歩き続けた。川から水を引けば、極論どこでも稲作は可能だ。しかしそれではあまりに非効率的。広く、平らで、開けた土地こそが、稲作には必要なのだ。

 二日ほど探索したが、おおよそ稲作に最適といえる土地は見つからなかった。若光は頭を抱えた。これでは、籾まきの季節に間に合わない。悩んだ末、若光は試しに山へ登ることにした。

 山のような高地は、稲作に最も向かない地形だ。若光は決して開墾の土地を求めて山に登ったわけではなかった。高い場所から自らの国を見つめ直すことで、新たな考えが浮かぶことに期待したのだ。

 果たして、山から眺めた高麗郡は広く平らであった。木々が多く生い茂り、林というよりは森の中にいくつかの集落があるように、若光には見えた。この樹木が多少なければ、今すぐにも稲作は始められる。しかし木を切り倒し、そこから開墾となれば、かかる時間は計り知れない。まずは初めからひらけている土地で、稲作を始める準備をする必要があった。

 若光はこの国を俯瞰から見て、改めて考えた。これでは到底稲作など無理だ。少なくとも、今年中に始めることは到底不可能。今から木を切り倒しながら、来年の開墾を目指していくしかないのか。そう諦めかけた若光の目に、不思議な光景が飛び込んできた。

 そこには、なぜか木々がほぼ生えていなかった。川が大きく湾曲し、さながら円を描いているかのようだ。その周囲は木々が生い茂っていたため、地上で彷徨っていた間は気づくことができなかった場所である。

 若光か大急ぎでその土地へ向かった。改めてみればそれなりに広い土地であった。やや低木は生えていたが、このくらいなら籾まきの季節までの開墾も難しくない。何より周りを川に囲まれているのが実に興味深かった。このような土地を若光は初めて見たが、四方から水を引けるこの地形は、まさしく稲作のためにあるような土地に思えた。


 若光は忙しなく集落へ帰った。直接歩けばさして時間もかからない距離に、その土地はあった。若光は民に稲作に最適な土地があったことと、その開墾をしたいということを伝えた。また、生来この地に住まう民に、稲作とはどういったものかを説明した。世話をこまめにすることで、一年中食に困らないほどの実りが手に入る。原住の民たちは驚き騒めいていた。

「高麗には今や多くの民が住まう。この者たち全員の一冬を賄うだけの体力は、おそらくこの森にはない。何よりあまりに不安定だ」

 若光は民を見回した。このひとりひとりが自分の国の民だ。二度と滅ぼすわけにはいかない。

「皆が今の生活を送ることで、最早手一杯であることは理解している!しかし、我々はこの先、百歳ももとせ千歳ちとせと繁栄せねばならぬ!今、目の前のことばかり考えていては、我々に未来はない。……どうか頼む。どうか、開墾を手伝ってはくれぬか。我々がこれから先も永久に栄えられるよう、ともに協力してはくれぬか」

 この通りだ、と若光は首を垂れた。亡国の王であり、今やこの地の王である高麗王若光。それほどのものが民に頭を下げるのは、異様な光景とも言えた。

 その心底からの懇願、そして民への愛は、果たして彼らに届くこととなったのだ。


 その後農民の出であるかつての高句麗の民たちを中心に、開墾が進められた。稲作を伝えるという意味もあって、原住の民たちもそこに加わった。

 秋。かつての若光が如く首を垂れた黄金こがねの稲がそこにはあった。豊作である。民は喜びに湧き、稲を刈り取った。来年の種籾を残し、脱穀した米はあらかじめ建てられていた高床の倉庫に保存された。

 その夜は祭りであった。神へ収穫した米を捧げるため、そして民が生の悦びを存分に謳歌するための祭りだ。この日のために捕らえられた猪たちはどれも丸々と太っており、その焼いた肉は民たちがいくら食べてもなくなる様子はなかった。

 若光は囃子に合わせ踊る民の様子を高い櫓から眺めていた。運ばれてきた猪の肉はとろけるような脂身が美味で、若光はそっと微笑んだ。思えば高麗郡への移動が決定してから、本当に久方ぶりの笑顔であった。

 これから訪れる冬は厳しいものになる。昨年春を待たず死んでいった民たちのことを、若光は思い出した。彼らのようにひもじく寂しく死んでいく者を、少しでも減らさねばならない。今年は藁も豊富にある。まずはこれを編み、蓑や藁ぐつ、脚絆を編み、冬を少しでも暖かく越せるようにせねばならない。

 国というものは安定することなどあり得ず、この先もいくつも苦難が降りかかることは間違いない。しかし、この民たちの笑顔と悦びだけは二度と失ってはならない。何としても守らねばならぬのだと、若光は胸に誓ったのだった。

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雑木の王 成田葵 @aoi_narita

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