あたしは願いを叶えない

尾八原ジュージ

あたしは願いを叶えない

 ネイルハンマーを持ち歩くのが好きだ。

 今日もあたしは、ほっそりしたそれを学校指定の通学カバンに忍ばせて、高校の夏期講習に行ってきた。カバンが重くてちょっとしんどいけれど、そこは仕方ないと我慢できる。

 ネイルハンマーは通販で売っていたごく普通のやつで、お小遣いで買えた。グランドピアノがあるあたしの部屋は防音なので、試しにテーブルを殴ってみたら天板の端っこが弾けてなくなった。それからあたしは毎日、ハンマーを振り下ろす練習をしている。

 夏期講習を終えたあたしは、家に帰るため、ネイルハンマー入りのカバンを肩にかけて地下鉄に乗った。学校は夏休みだけど、大人にとってはただの平日の昼間だ。車内はちょうど座れないくらいの混み具合で、あたしはドアの近くの座席の前に立ってつり革を掴んだ。

 あたしの前に座っているおじさんは、頭を前に傾けてウトウトしている。うちのパパよりいくつか年下だろう。こちらに向けられたつむじが、的の真ん中の星みたいに見える。

 ここにネイルハンマーを振り下ろしたら死ぬかな、とあたしは考える。体格のいいおじさんだし、一撃じゃ死なないかも。でも怪我はするだろうな。結構重傷じゃないかな。

 もちろんあたしはそんなことやらない。このおじさんは年齢や服装からして、誰かを養っている可能性が高い。毎朝「いってらっしゃい」のチューをしてくれる奥さんがいるかもしれないし、帰ったら「パパー!」って言いながら抱きついてくる子供がいるかもしれない。働きすぎていないか心配している年とった両親がいるかもしれない。あたしがおじさんのつむじにハンマーを振り下ろしたら、おじさんだけでなくその人たちの人生までめちゃくちゃになる。だからやらない。

 でも考える。頭の中でなら何をしても自由だ。名門高校の制服を着たごく普通の女子高生が、地下鉄で突然他人の頭にハンマーを振り下ろしたら、同じ車両に居合わせた人はどうするだろう。平凡な日々の、すぐに忘れてしまうような1ページが、突然違ったものに変わる。混乱と恐怖が車内を駆け巡る。悲鳴が上がる。

 その瞬間のことを考えると、あたしは爪先から脳天まで、何かがゾクゾクッと駆け上るのを感じる。そしてほんのつかの間、とても満ち足りた気持ちになる。

 日常を強引にひっくり返すためには、振り下ろす一発目が大切だ、と、おじさんのつむじを見ながらあたしは考えた。特別力が強いわけじゃないけど、このネイルハンマーを振り下ろすことに関しては、あたしはそこそこいい線行ってると思う。最初に練習に使っていたテーブルはすぐに壊れて、とっくに捨ててしまった。毎日、毎日、部屋でなにかを壊している。

 あたしは努力とか、練習とかいうものが好きだ。試験の成績もいいし、3歳から続けているピアノで賞をもらったこともある。ハンマーの振り下ろしもかなり動きが洗練されてきたと思う。でもやらない。もしもニュースやネットであれこれいいように言われたり、インタビューにあたしの家族や同級生なんかが「まさかあの子があんなことをするなんて」とか答えるのを撮られたり、挙げ句の果てに中学の卒業文集をテレビで読まれたりしてもやむなし、という絶好のターゲットとシチュエーションが訪れたら話は別だけど、とにかく今はそのときではない。

 目の前のおじさんが、はっと目を覚まして立ち上がった。降りるのかなと思ったら、ドアの近くに立っていた若いお母さんに「ここ、座ってください」と声をかけた。

「いえ、次で降りますから」

「カーブがあるんで危ないですよ。どうぞ」

「すみません。ありがとうございます」

 若いお母さんは、ベビーキャリアで赤ちゃんを抱っこし、大きな買い物袋を持っていて大変そうだ。あたしはお母さんが座りやすいように体を動かした。

「ありがとう」

「いいえ」

 お母さんはあたしの前に座り、今度はあたしの目の前に、ぽやぽやの毛が生えた赤ちゃんの小さな後頭部が差し出される。おじさんの頭よりよっぽど簡単に壊れそうだ。そんなことを考えていたら、赤ちゃんが体をひねってあたしの方を見た。ほっぺたはふっくらで目はぱっちり。かわいい子だ。

 あたしは赤ちゃんににこっと笑いかけた。ねぇきみ、お姉さん今ネイルハンマー持ってるんだけど、それできみの頭を殴ったらどうなると思う? いやたぶんきみは死んじゃうんだけど、周りの人はどうするかな? たとえばきみのママは? たぶんすっごく驚くと思う。自分にちょっとだけど親切にしてくれた真面目そうな女子高生の、突然過ぎる変貌……なんて、急には信じられないかもしれない。昔から「母は強し」なんて言うし、きみのママは怒ってあたしからハンマーを奪い取って、あたしの頭をぶち割るかも。

 もちろんそんなことはやらない。何の抵抗もできない赤ちゃんをハンマーで殴るなんて、そんなことは最低で格好悪い卑怯者がすることだ。あたしはそんなダサい卑怯者に成り下がりたくないし、やっぱり卒業文集をテレビで読み上げられるに違いない。だからやらない。

 進行方向が明るくなる。あたしたちの乗った電車は駅のホームに滑り込む。別の路線に乗り換えられるから、たくさんの人がここで降りる。あたしの前に座っていたお母さんも立ち上がったので、あたしはまた体を動かして道を開けた。

「何度もありがとう」

「いいえ」

 赤ちゃんが抱っこ紐の隙間から、ちっちゃな手をこちらに差し出してくる。「こっちに来るな」と言われているような気がしたけれど、お母さんは「お姉さんにバイバイね」と言いながら下りていく。入れ替わりに新しい乗客が乗ってきて、空いた席が次々に埋まる。

 あたしの前に、見覚えのある女の子が滑り込んだ。

「あっ、唯じゃん」

 今気づいたみたいな顔をして、彼女は挨拶をする。「夏期講習? おつかれ~」

「マイナじゃん。おつかれ~」

 別に疲れてないだろうけど、と内心思いながら、あたしは形だけ笑ってそう返す。マイナは私服だった。彼女のクラスは、夏休み中のカリキュラムがあたしのクラスとは違うから、これから遊びにいくか、遊んできた帰りのどちらかだろう。

 マイナは一方的にベラベラしゃべって、あたしはそれをうんうん言いながら聞くふりをする。半分くらいはガタンゴトンという走行音で聞こえないから、あたしは地下鉄に乗っていてよかったなと思う。彼女は中学からの同級生だけど、目立つのがむかつくとかよくわからない理由であたしをハブろうとし、実際そこそこ成功した過去がある。ところが高校に入ってから、別の子相手に同じことをやろうとしたら逆にハブられてしまった。そこでクラスの違うあたしに、同中だもんね~とか言ってやたらと絡んでくるようになったのだ。

 今あたしの前にはマイナの額があるし、やろうと思えば顔にネイルハンマーの平らな方でも釘抜きの方でもぶち込むことができる。あたしの動きは見られているけど、彼女は鈍いから成功する確率が高い。つまりこいつの生殺与奪権はあたしが握っているわけだけど、やっぱりあたしはハンマーをおもむろに取り出して振り下ろすということはしない。中学であったいざこざのことは周りに知られているから、そんなことをしたら「いじめを恨んでの犯行」とか言われるに違いない。あたしはそんな理由でネイルハンマーを持ち歩いているわけではない。怨恨を晴らすために誰かの頭をぶち割る妄想をしているんじゃない。

 あたしの願いはたったひとつ。平穏な日常が裏返って牙をむく、そういう瞬間をこの手で作り出したいだけだ。

 その瞬間があたしの手によって生まれるとき(それが実現するかどうかはわからないけけれど)、かつてない快感と幸福感に包まれるであろうことを、あたしは本能レベルで知っている。だからこそマイナなんか殴るべきではない。あたしの求める瞬間は、完璧に唐突で理不尽で残虐な行為によってのみ達成されるのだから。

 マイナはどうでもいい話を話し続けた。唯さぁ前髪ガタンゴトン絶対かわいいよガタンゴトンガタンゴトンは夏期講習がガタンゴトンあたしら凡人とは違ガタンゴトン今度勉強教えガタンゴトンガタンゴトンもう二次関数の辺りから全然ガタンゴトンやばいよねほんとエスカレーター乗れなガタンゴトン進路とか皆どうガタンゴトンねぇ唯はどうする? とかなんとかかんとか。うるせーなやばいと思うんなら遊んでんじゃねーよと思いながら、あたしはまだ決めてないよと答える。そうしているうちに何個目かのホームに電車が滑り込み、マイナは電車を降りる。

「またねー」

 手を振るマイナが、ドアの向こうに消える。

 あたしはマイナがいた席に座った。どうやったらあたしの願いを叶えることができるんだろう? あたしと何の接点もなく、かつ死んで困る人もいないような誰かが、あたしが都合よくネイルハンマーを持っていて、程よく周りに人がいるときに、目の前に現れたらいいのに。たとえばホームレスだったら、そういう人がいるかな? いやダメだ。非生産的で汚ならしい彼らは社会にとっての害悪なのだ、みたいな危ない思想に基づいての犯行だと思われたくない。ホームレス狩りなんてイキッた不良みたいだし、絶対にダメ。

 あたしの前に、制服姿の男の子が立った。同じ学校の男子だ。

「長谷部さんだよね?」

 顔を上げると、クラスメイトの有沢くんが爽やかに微笑んでいた。頭がよくて顔がよくて性格がよくてスポーツもできて人気者。彼のことを悪く言う人は見たことがない。

「有沢くんもこの電車乗ってたんだ」

「うん。隣の車両にいたんだけど、長谷部さんがいるなと思って」

 わざわざこっちに来たと言いたいらしい。有沢くんは以前からあたしに好意的だ。クラスメイトとして一応連絡先を交換した程度の仲だけど、あたしも彼のことは嫌いではない。マイナみたいにヤバいヤバいと言いながら何もしない奴ではないし、嫌いな人をハブったりもしない。真の陽キャは性格がいい、と言われたときに、一番最初に思い浮かぶような人だ。

「結構人いるのに、よく気付いたね」

「実はさっき、S駅で乗客が入れ替わったときに気付いたんだ。でも誰かと話してたっぽかったから声かけそびれちゃって」

「ああ、同じ中学の子が乗ってきたから」

「へー。女子?」

「女子。っていうか、2組の牧原さんて子」

 ふたりで話しているうちに次の駅に着いて、あたしの隣に座っていた人が下りた。有沢くんはその席を指差して、「隣、座っていい?」と尋ねた。

「どうぞ」

 有沢くんが隣に座る。一瞬だけ肩と太股があたしに触れる。見た目よりがっしりしてるかも、とあたしは思う。有沢くんか。彼ならどうだろう。

 あたしが有沢くんの頭をハンマーでかち割ったら、皆びっくりするだろうなぁ。そう思った瞬間、あたしの心臓がどきんと跳び跳ねた。爪先から脳天まで、ゾクゾクと何かが駆け上がってくる。あたしはそのとき、すごいことに気付いてしまったのだ。

 まずあたしが有沢くんをネイルハンマーで殴る。車内の人達は一瞬ぎょっとして、そのうち何があったかを悟る。日常は非日常へと裏返り、皆がこちらを見る。そのときあたしの願いは叶い、あたしは幸せな気持ちに浸っているだろう。

 すごいのはここからだ。有沢くんの死を知ったあたしたちの共通の知り合い、つまりクラスメイトたちも、事件のことを知った途端に日常をひっくり返されてしまうのだ。真面目で優等生のあたしが、人気者で誰にでも好かれる彼を突然殴り殺したのだと知ったら、きっと皆その唐突さと理不尽さにショックを受けるだろう。あたしはおそらく逮捕されているだろうからその様子は見られないけど、見ず知らずの人と違って、知っている人ならその困惑に包まれた表情を想像できる。

 つまり有沢くんは、あたしの願いを2回も叶えてくれるのだ。

 あたしはそのことに夢中になってしまって、おじさんや赤ちゃんのときはちゃんと考えていたはずの、彼の家族や友達が悲しむことなんか、頭の外にすっ飛ばしてしまった。そりゃあ悲しむ人はいるだろう。でもおじさんと違って、有沢くんは誰かを養ってるわけじゃない。赤ちゃんと違って、抵抗できない弱い存在でもない。マイナと違って、あたしに恨まれるべき理由があるわけでもない。全国放送で卒業文集を読み上げられる罰ゲームのことすら、どうでもよくなってしまった。

「ちょっとごめんね」

 あたしはそう断ってカバンのジッパーを開け、中に右手を入れる。ノートと参考書の間に挟まれたネイルハンマーの柄を握る。よくなじんだラバーグリップの手触り。握りしめたときの頼もしい固さとほどよい重さ。あたしはグランドピアノのある部屋で、何度も何度もテーブルの天板やホームセンターで買ってきた木材やヘルメットを叩いたことを思い出す。ちょうどピアノのコンクールのとき舞台袖でそうやったように、今まで練習してきた記憶を再確認する。

 あたしは練習してきた。何度も何度も何度も何度も。

 深呼吸をひとつする。

 手をカバンの中に差し込んだまま、あたしは有沢くんを盗み見る。彼はあたしから目を離し、正面を向いている。チャンスだ。彼の整った横顔と丸くて形のいい頭蓋骨を見ているうちに、また爪先からゾクゾクと何かが上がってくる。あたしは一度前に向き直り、


 そして冷水を浴びせられたようになる。


 有沢くんがあたしを見ている。

 正面を向いて、向かいの窓ガラスに映るあたしを見ているのだ。

 窓ガラス越しに、あたしと彼の目が合う。

 あたしは滑稽なほど強ばった頬をひきつらせ、カバンの中でこっそりネイルハンマーを手放し、ジッパーを閉める。

「どうしたの? 長谷部さん」

 有沢くんがこちらを向いて尋ねる。

「ううん」あたしは彼の方を向いて、一所懸命笑う。「数Ⅰの教科書、学校に置いてきちゃった」

「大丈夫? 使うんだったら、俺の貸そうか?」

「ありがとう。大丈夫、今日は別の教科やるから」

「長谷部さんてすごいよね。いつも頑張ってて」

「有沢くんもすごいじゃん」

 危なかった。有沢くんはマイナと違ってスポーツマンだ。あたしの動きを見られたら、逃げられたり抵抗されたりするかもしれない。万全の状態でことを起こさなければならないのに、とんだリスクを冒すところだった。

 有沢くんと当たり障りのない話をしながら気持ちを落ち着けていると、電車があたしの下りる駅に停車した。

「じゃあ、また学校でね」

「ん。またね」

 有沢くんは太陽のように明るく笑い、あたしもそれに応えるべく口角を吊り上げた。

 ホームに下りる。ドアが閉まり、彼を乗せた電車が遠ざかっていく。

 あたしは今日も叶わなかった願いのことを考えながら、ひとりで家に帰る。

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