後編

 レヒトを救った男——エイハブの脳裏にこびり付く鮮烈な記憶は、自らの故郷が滅ぶまでの一部始終である。その忌々しい出来事は、家の窓を叩く雨音がきっかけだった。


 崖の上に建てられた小規模な集落は、滅多に雨が降らない気候を前提に生活していた。乾いた大地に根を張る作物は水を与えすぎると枯れるため、年に数回降る雨で十分だった。村の人々は近隣を流れる小さな川から生活用水を汲み、野生動物を狩ることで生活のサイクルを維持していた。彼らは富むこともなければ、食料に困ることもない。自然と調和し、大地に感謝することで共生していたのだ。


『今日は荒れるぞ』


 エイハブが父親に狩りの仕方を教わり始めて数ヶ月経ったある日、ナイフを研いでいた父親が呟いた。刃物の振り方を覚えたばかりの息子に研いだばかりのナイフを預け、彼の父親は家を出た。

 雨音がコツコツと窓を叩き、暗い外を稲光が照らす。エイハブは父親の体温が残ったナイフの柄を握ったまま、空が晴れることを祈って震えていた。この世に神が居れば、どうか助けてください、と。

 数時間経っても、雨は降り止まない。それどころか、さらに強くなった風がどんどんと家の壁を叩くのだ。幼いエイハブは恐怖に負け、家から脱出しようと扉を開けた!


 刹那、彼の目に飛び込んできたのは惨劇だった。風雨によって周囲の家は半壊し、地面だったはずの場所は激流に変わっている。どす黒い雲が空を支配し、その下には純白の『何か』が、悠然と空を泳いでいる。

 巨大な蛇を思わせるその身体は暗い空で仄かに発光し、一対の捻れた角は磨き上げた水晶のように多面的な輝きを放っている。その捻れた角の間に、エイハブの父親が必死の形相で掴まっていた。

 人間よりも遥かに大きいその生物は、尻尾の緩やかな一薙ぎで崖を抉り取った。呼応するように付近の川もうねり、歓喜の声のように流れる激流が家々の残骸や倒れた人々を下流へ押しやっている。


『エイハブ、逃げろ!!』


 かつて耳にした“地獄”が顕現した。そうエイハブは思った。逃げねばならないのに、彼の身体は動かない。それは恐怖ではなく、畏れだった。

 この美しい生物を『水神』と呼ばずして、他にどのような呼び方があろう。エイハブはその姿に魅入られ、咄嗟の反応ができない! 激流が彼の視界を覆うまで、エイハブは父親のナイフを握ったままだった。


 流された下流の果てで目を覚ましたエイハブは、手にしたナイフが父親の形見になったことを知る。彼は傍らで眠る骸を丁重に葬ると、泥が混じった水で口を濯ぐ。

 生きねばならない。生き残った者の宿命として、死んだ者の未来を代わりに背負わねばならないのだ。彼はナイフを振るい、新鮮な獣の肉に喰らいつく。身体を鍛え、生存競争の果てに傷ついても、果敢にナイフを振り続ける。


 父親は自然を愛し、自然と対話する男だった。だから最期も武器を持たずに、対話を行おうとしたのだろう。だが、天災に人間の話は通じない。神と崇めて必死に祈りを捧げても、息をするように平然と牙を剥くのだ。

 そんな理不尽を許していいのか? エイハブは憤りを隠せなかった。実体を持って触れられるなら、生命活動を行っているはずだ。それなら、殺せる道理がないわけがない。自らの可能性を極限まで研鑽すれば、あの綺麗な肉体に消えない傷を残すことが出来るはずだ。

 エイハブは、水神の足跡を辿るように歩き始めた。殺さねばならない。不意打ちでも、毒殺でも構わない。不確かな物に祈るのをやめ、自らの身一つで神を地面に墜とすのだ。


    *    *    *


「じゃあ、先に祈っていいんですね?」

「祈れる物ならな。もしそれでお前の村に雨を降らせることができたら、その後で水神を殺す。これは決定事項だ」

「なんで殺す必要があるんですか……」

「こればっかりは理屈じゃねぇんだ。悪いな……」


 エイハブの手を取り、レヒトは引き上げられるように断崖を登る。彼の案内がなければ水神に会うことはできないことはレヒト自身もわかっていたが、なぜ自分を連れていくのかが理解できなかった。目的が部分的に一致しているだけで、その本質は違うはずなのに。


「僕なんかが着いていって良かったんですか? たぶん、邪魔になるだけなのに」

「……砂漠で野垂れ死なれても寝覚めが悪いんだよ。それに、どれだけ俺が持ってる残りの水を持たせても、それだけで村が潤うわけじゃないだろ? 水神を殺すにしろ、その巣である水場の水くらいは持ち帰っていけよ。あとは水路を引くなりなんなり出来るだろ……」

「僕の信仰心があなたの邪魔をするかもしれませんよ……?」

「それをやる気なら、わざわざそんな事言わないだろ? 非力な子ども一人に邪魔されるほどヤワな鍛え方はしてないしな」


 エイハブは苦笑し、再び崖を登っていく。レヒトは納得がいかないとばかりに首を振り、更なる言葉を重ねようとした。それを止めたのは、振り向いたエイハブの一言だ。


「俺みたいな捻くれた大人にはなるなよ、少年」


 着いてくるのを止める理由がないのだ、とレヒトは理解した。


 破れたブーツの先が濡れる。水だ。レヒトの顔が期待に綻ぶ。それは窪地のように抉れた大地に点在する水溜りだった。坂のようになった崖を登れば、視界に映るのは巨大な池である。


「着いたぞ。ヤツは眠ってる。今のうちに済ませようぜ……」

「わかりました……!」


 水源に足を踏み入れ、レヒトは祈りの姿勢を取る。視界の奥、彼の頭上で水神はその巨体を丸め、惰眠を貪っていた。鱗に覆われた体表から滝のように水を流し、窪地の湖を満たしている。この中でどれだけの水がレヒトの村の井戸から運ばれたものなのだろうか。彼はそんな疑念を脳内から取り除き、足を浸す冷たい感触を切り離すように祈りに集中する。


「水神さま、水神さま。お目覚めください……。矮小なヒトの身で貴方に祈りを捧げるべく、やって参りました。此度は謁見の機会を与えてくださる、と……!?」


 水神が、穏やかな表情でレヒトを見つめていた。レヒトはその表情に慈愛を感じ、顔を綻ばせる。やはり、想えば届くのだ。彼がそう確信し次の言葉を継ごうとした、その瞬間である。


 水神は飽くまで穏やかに、必要最小限の動きで排除を試みたのだ。それは巨大な質量の尻尾を一薙ぎに振り抜く、人間にとっては暴風めいた一撃だった。


「——危ない!」


 レヒトの眼前に迫る巨大な脅威は、一本のナイフによって食い止められた。それは密集する鱗の鎧を砕き、白銀の身体に楔めいた深い傷を残す!

 全体重を乗せた小さな刃による一撃は、水神にとっては蚊が刺す程度の傷しか与えられない筈である。だが、その一撃は巨体を苦悶に暴れさせるほどの効力を発揮している!


「……砂漠モグラの毒だ。肉に直接打ち込めば、どんな生物でも数十秒は痺れさせる麻痺毒だよ。地の底の動物の分泌液なんて、味わったこともないだろ?」


 制御を失った水神の身体が水面を跳ねる。エイハブは突き立てた刃を抜き、その巨体にしがみ付いた。噴出する血飛沫が水上に咲く徒花めいて湖を赤く染める!


「なぁ、祈っても聴かない相手だったろ!? ここは俺がる! お前は適当に水を汲んだら、逃げろ!」

「いや、でも……」


 唖然とするレヒトを尻目に、麻痺毒の効果が切れた水神は小規模な竜巻のように回転しながら敵を振り落とそうと暴れ回る。尻尾を岩盤に叩きつけ、山脈の岩肌を削り取る!

 エイハブはなおもナイフを振り抜き、武器の一つである尻尾を切り取ろうと、刃をより深く押し込めた。濡れた体表は滑りやすく、回転によってバランスを崩せば自身が落下してしまう。ここからは、根気の勝負だ。エイハブの腕に力が籠もる。


 一方のレヒトは、状況を徐々に理解しつつあった。自らの祈りは通じず、自分を助けたエイハブは上空で水神の身体に必死にしがみ付いている。彼らの実力は、辛うじて拮抗しているようだ。

 このままでは、どちらかが確実に死んでしまう。何かできることはないか、と考え、レヒトは自らの無力を実感した。ここから石を投げようにも、彼らは上空。非力な彼の遠投では、届くはずもない。


 ぷすり、と間の抜けた音と共に、水神の傷口が開く。数十回の刃の交錯によって、大木の幹めいた太さの尻尾は半分ほど肉体から離れつつあった。

 美しい白の身体が暴れ続けて砂煙に汚れていく姿を見つめ、エイハブは静かに呟く。


「お前がもっと悪い奴なら、痛めつけるように切れたんだけどな。この近辺から水を奪うのも、俺の村を沈めたのも、お前にとっては悪意あることじゃないのはわかってるさ。だが、だからこそ相容れないんだ。神が災害を起こす時代は終わったんだよ。これは、俺なりの介錯だ」


 辛うじて尻尾を繋いでいた肉片を切断し、湖にその残骸を落とす。水神の身体の一部が着水するたび、血で染まった水は浄化されていくのだ。それは、まさしく神の御業だった。

 エイハブは水神の頭部に近寄ると、次は首を切り落とさんとする。父親の形見であるナイフは研ぎ続けていくうちに斬れ味を増していき、比例するようにエイハブの狩りの実力も上がっていった。全てはこの瞬間のために。自分なりの決着をつけるために——。


「……一目惚れだったんだ。初めて見たときから、お前を超えるために生きてきた。お前の綺麗な身体に俺の手で消えない傷を付けて、最期の相手として寄り添う、ってな。これが、俺の唯一の望みだよ。たとえ俺が死んだとしても、たとえ何が起きたとしても、呪われても、貶されても、諦めるつもりはないんだよ……!!」


 エイハブが脳天に刃を突き立てると同時に、暴風が巻き起こる。最期の力を振り絞った水神が、身体を大きく捻ったのだ!

 エイハブは支柱を失い、ふわりと宙に浮き上がる。その隙を突き、水神は両角で彼の身体を貫く!


「——ッ!?」


 力が入らない。全身の骨が砕けるような激痛の後、エイハブは急激な虚脱感に襲われる。

 さらに、彼の瞳が驚愕によって見開いた。水神の頭上に集う黒雲は、雷を纏っているのだ。故郷を沈めた雷雨を連想し、エイハブは声にならない声を上げる。


 一方のレヒトも、湖の上空に現れた雷雲を目撃し、その巨大な威光に畏怖を抱いていた。生まれて初めて見る光の塊は槍のように尖り、落下していくエイハブの身体を轟音とともに焼き焦がそうとしているのだ。

 反射的に、レヒトは祈っていた。ただ無心で、がむしゃらに、己が信じるものを信じる。エイハブに、生きてもらうためだけに。


「神さま、彼を助けてください。都合が良いかもしれませんが、それが私の願いです……!」


 無駄かもしれない。それでも、自らにできることを全うするのだ。たとえ人智を超える奇跡など滅多に起きないとしても、自らの祈りでその可能性をこじ開ける一助にしなければ。彼の願いは水神ではなく、その上のそらに向かっていた。


 断末魔めいた咆哮が響き、勝敗は決した。雷が落ちたのは、水神の頭部だ。突き刺さったナイフに稲妻が直撃し、脱力した巨体は湖に落下していく。それが、水神の最期だった。

 後を追うように湖に落ちた数秒後、エイハブは水面に顔を覗かせる。レヒトは咄嗟に接近し、彼の身体を助け起こした。


「これ、食べてください」

「……それ、俺が渡したやつだろ?」


 全身の痛みに顔を苦々しく歪め、エイハブはレヒトから食糧を受け取る。砂漠モグラの燻製肉は硬く、弱った体では咀嚼に時間がかかる。それでも、彼は苦心しながら食事を終える。


「まったく、救い主はずいぶん身近にいるもんだな……」

「そんな高尚なものじゃないですよ、僕は」


 陸地に上がった彼らは、緊張の糸が切れたかのように乾いた大地に転がる。このまま眠ってしまおうかとレヒトは考えるが、エイハブのナイフが水底に沈んだままであることに気づき、残りの気力を発揮しようとした。再度飛び込もうとする彼を、寝転がったままのエイハブが止める。


「いいんだよ、もう俺には不要な物だ。アイツの墓標代わりに沈めておけばいい。俺の望みは満たせたんだから」


 空を見上げていた彼は流れる雲を眺め、笑う。広がる雲は徐々に集い、レヒトには見慣れない形になっていた。


「どうやら、お前の願いも叶うらしいぜ」


 水神を殺したからなのか、天がもたらした奇跡か——。

 馬鹿らしいほど巨大な雲が、不毛の大地に雨を降らした。

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水神とナイフ @fox_0829

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