水神とナイフ

前編

 破れたブーツの底に砂が溜まり、レヒトは苦い顔で空を見上げる。太陽は相変わらず空の中央に陣取っていて、巻き上がった砂が薄いカーテンのように視界を覆っていた。他の生き物の気配のない荒野にも、雨が降る気配はないのだ。

 レヒトはゴーグルに付着した砂塵を拭い、鞄の中に忍ばせた薬瓶を手に取る。村の枯れかけた井戸から汲み出してきたなけなしの水は、とうに空になっていた。長旅で少量ずつ飲んでいたが、昨晩飲み干してしまったのだ。

 視界がふらついた。もはや汗も流れず、渇いた喉が声にならない悲鳴を上げる。だが、今更引き返したとしても、どうにもならないのだ。枯れ井戸の水はある種の初期投資であり、レヒトはそれを元手に冒険に出る理由があった。

 もう一度空に雨を降らせるために、もう一度川に水を取り戻すために。彼は『水神さま』に祈りを捧げるのだ。


 空を泳ぐ水神が通った下の大地は、水に愛されなくなる。村では誰も信じることのなくなった御伽話に突き動かされ、彼はその旅の終着地を目指すことに決めた。そこは水神の巣がある水源であり、綺麗な水が流れる理想郷なのだ、と。

 レヒトは水神の巣に赴き、再び雨を降らせることを祈るつもりだ。稚児の夢めいた、楽観論に支配された計画である。村の大人からも止められたが、黙って抜け出してきたのだ。


 身体が震え、突如として力が抜ける。辛うじて正面を向いていた視界が空を映し、彼は卒倒した。

 流れるはずの涙はとうに枯れた。何も為せずに死ぬのは嫌なのに、身体が動かない。レヒトは辛うじて動く頭で、黙々と祈りを捧げる。彼の信じる神に、奇跡を起こしてもらえるように。


「これ、口に含んでくれ」


 口の中に広がる瑞々しい刺激が、嗄れた喉を癒していく。言われるがままに、レヒトは染み出す液体を嚥下する。決して美味ではないが、命を繋ぐには十分だ。


「か、み……さま……?」

「……そんな高尚な者じゃねぇよ」


 霞んだ視界がぼんやりと復活し、緩んだ筋肉に力が籠る。止まっていた汗が流れ出し、レヒトは身体を震わせる。


「……太陽に愛されたな。立てるか? 一旦影に行った方がいい」

「……祈りにいかなきゃ、いけないんです。早く行かないと、村の人たちが……」

「ずいぶん気高い精神だが、実力に見合わない行動は唯の蛮勇だ。死なないために、今日は休め」


 レヒトの身体が持ち上がる。何者かに担がれ、運ばれているのだ。朦朧とする意識の中で彼が見た何者かの背中は、想像よりは広くない。


 切り立った崖の下は日陰になっており、赤茶けた岩が砂塵を防いでいる。わずかに涼しい砂の上に横たわったレヒトは、彼にとっての救世主から先ほど口に入れられた物を再び分けられていた。


「……塩漬けにしたサボテンだ。この砂漠の外に生えたサボテンは、少しだけ水分を含んでいる。最近じゃどこも水不足で、生えている数も減ったがな」


 レヒトに背を向けてナイフを研ぐ男は、独り言のようなトーンで説明をする。砂に塗れた襤褸ぼろを纏い、無造作に切り揃えた髪に浅黒い肌が目立つ偉丈夫だ。


「助けていただいて、ありがとうございます……」

「こんな不毛の地に小瓶1本で……よく保った方だよ。動物も植物も生存を諦めた土地だぞ?」

「我慢だけは慣れてますから。村の人たちが少ない水で苦しい思いをしてるのに、たくさん持っていくわけにもいきませんし」

「だからって、生存のための希求を忍耐で誤魔化すな。早死にするぞ?」


 男は研ぎ終えたナイフの切れ味を試すように、手元の燻製肉を雑にスライスした。厚い一切れを摘むと、背後のレヒトへ投げ渡す。


「地下深くにいる砂漠モグラの肉だ。毒抜きはしてるから、安全なはずだぜ。食えるうちに食って、帰るんだな。ここは素人がいる場所じゃねぇよ」

「そういうわけには……! 水神さまに祈って、雨を降らせてもらわないといけないんです!」


 自分の食糧を用意していた男の動きが静止する。彼はレヒトの方へ向き直ると、険しい視線で見つめる。何らかの思いがこもった、奇妙な熱意を湛えて。


「それ、どこで聞いた?」

「村に伝わってる御伽話です。もう誰も信じてなくて、村の人からも止められたんですけど……。不毛の地を歩いていけば、いつか水神さまの巣に辿り着く、って」

「そうか、まだ疑われているのか……」


 男は苦笑すると、頭上に指を差した。レヒトがそこに目を遣れば、崖の壁面を抉るような線状の痕がある。それはレヒトが進んできた方向から伸び、レヒトが向かうべき方向へ向かっていた。


「空を泳ぐ水神は暴れることで空気中から水を奪う。あの痕が、水神がいる証拠だ」

「……やっぱり、本当にいるんですね?」

「俺は生き証人だよ。ガキの頃、村に現れた水神を見たことがある。長くて銅の太い、蛇みたいなヤツだ。全身真っ白で、水晶みたいな綺麗な角が二本生えていた。ソイツは黒い雲と一緒に現れて、俺の住んでいた村を……」


 男の瞳は、ギラギラと輝いていた。その真意にレヒトは気付かず、笑顔で礼を言う。実物を見たことのない彼にとって、それは重要な手掛かりだったのだ。


「ありがとうございます! これで本物に祈りを捧げられる……」

「祈りを捧げて、どうする? もし水神が人の願いなど聞かない頑固者で、自らの利益のために動く存在だとしたら?」

「本気で祈れば、思いは通じるはずですよ。それが人生を賭けた望みであるなら、なおさら!」

「……そうかい。だとすれば、俺の望みも叶えてくれるかもな」


 男は立ち上がり、脂の滴るナイフを丁寧に拭き取った。太陽光を反射した刃が輝き、彼の決意に満ちた瞳を映す。


「今の水神の巣は、かつての俺の故郷だ。沈められたんだよ、天災の気紛れにな。だから、殺す。俺は、水神ヤツを殺す。人間を蹂躙する理不尽の息の根を、刺し違えてでも止めてやるんだ。俺の望みはそれだけだ……」

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