紙に溶けた花火模様
紅蛇
蝉がうるさい。あつい。アイス食べたい。
「花火が見たい」
「行こうか」
。
口の中の紙は溶け、唾液と溶け合っている。右手を他人の左手と結んであるんだけど、洪水並みに汗ばんでいる。海。寄っては、引いていく。荒波。錨。縛り。首輪。ネックレス。汗とからだを揺らしながら、胸元でクラブ中。みんなで踊り明かそ。
「ねぇ喉乾かない?」「乾いたね」「コンビニ行こう。これから先、混むと思うし」「天才じゃんいこ」「しってるわー」「さすがだね」
人の波を逆走する形で進んでいく。
空は少しづつ、
「ビール?」「違うのがいい」「ストロング?」「違うのがいい」「氷結?」「違うのがいい」「あ、ジンジャエールあるよ。ウィルキンソン」「それがいい。それ以外いらない」「りょ」
はじめて見た花火はいつだったのか。幼い頃、父と母と一緒に見た景色。はじめての花火と、はじめてのかき氷と、はじめてのブルーハワイ。食べなれず、カップの底に溜まった青色は、沖縄の海を思い描かせた。シーサーが出迎えてくれた朝。みずてっぽうで遊んだ昼。焼きそばを食べた夕方。津波に襲われる夢を見た夜。思わず泣いてしまって、殴られて、地べたで寝た夜。同じ波でも、津波じゃサーフィングはできないんだって。
けど私の夢の中ではできた。私の夢の中では、乗れたんだ。魚の子みたいに、どすぐろく、ぬめついた、なみいろ・なみのかたちの魚に乗って。
私、サーフィンをしていたんだ。
「トイレ借りられるか聞いてくる」
「大丈夫か?」
カゴの中には私の飲み物。彼の飲み物。
緑色に染めたばかりの前髪が、ちらちら。うーざーいー。どかす。どかす。もどってくる。うける。まって、めっちゃおもしろい。モンスターエナジーのマークみたいだって言われたけど、海中のワカメって感じ。
もう、どうにでもなれ。
「タニさんーちょっとみてみー」「どうしたー?」「髪がね、ずっと戻ってくるんよ」「いや、わからんし」「クッソウケる」「キマってるなぁ」「違うし」「はいはい」「トイレ行ってくるわ」「りょ」
げつかーすいもくきんどーにち。げつかーすいもくきんどーにち。げつかーすいもくきんどーにち。あしたは月曜日ー。けれどもバイトなし。うーいえーい!
(
べつの片隅は水中。珊瑚のカーペット。色彩がひしめき合った世界。私を優しく包む海。生き物たちが寄り添い、私に子守唄を歌う。波がかぷんかぷんと音をたてながら、身体を揺らす。揺り籠のよう。私の楽園。私のいるべき居場所。あのまま逃げだしていれば幸せだったのだろうか。
「すんません。トイレって借りれます?」「あ、うちやってないです」タバコを数字の書かれた棚に入れてく制服姿の中肉中背。やってないのねーしょうがないなぁ。あ、髪がまた戻ってくたわ、ウケる。またふきだしそう。まって、まじワカメ。ダンシング・シーウィード。ダッツ・マイ・ヘアー。ライク・ア・シーウィード。ウィード。スモーク・イット・エブリーデイ。ぁ、嫌な予感。
「いますぐ漏れそうな場合、どこですればいいですか?」「え?」「緊急なんです」「ぇーと」「緊急なんです」「あ……じゃあいま誰もいないんで、従業員用の使っちゃって下さい」「タニさんも使っていい?」「タニさん……え?」「タニさん」「どなたですか?」「あそこでポテチを物色してる金髪」「あぁカレシさんですね」「ううん。あれはタニさん。カレシさんじゃない」「タニさん……はいはい彼もいいですよ」「タニさん聞いた、いいって!」「お静かにお願いします。本当はダメですから。緊急とのことなので……」「タニさん!」「だから!」「んー財布忘れた」「タニさん!?」「貸して」「うるさい!」「え!?」「トイレ行く!」「はいはい」「だから……」「タニさん!」「んー?」「これ財布」「あざーっす」「後で返して」「えー」「うるさい! トイレ!」「だから……!」
がたりごとりで、排泄。
(赤い点が下着についていた。トイレットペーパーを敷いて、ひとまず無視をする)
鏡に映る私はいつも通りに見えて、何かが違ったように感じた。目の奥にはうずくまっている子供がいて、緑色に近い
あ、アイラインが歪んでる。
わたしの瞳はわたしじゃないけど、顔にあって、けど顔は瞳じゃなくて、わたしは顔ではない。この全てを形作るものが『私』なんだ。一つ一つが私なんだ。瞳だって顔だってわたしだって、私だ。私は私だ。何者でもない。
アイラインを直さないと。
空色は青ではない。→ 桃色。桜色。茜色。紅色。菫色。柿色。
すれ違う浴衣のような、あわい、うつくしさ。私にはない、うつくしさ。
デニムのショートパンツ、古着屋で買ったKISSのバンドTシャツ、黒いスポーツサンダル、十字架のネックレス、リングピアス計三つ。何一つ「あわさ」がなくて、もののあわれさ、いとせつなげなり。可愛くなりたい。
「今日の格好、可愛いね」
まるで今私が考えていたことを読み取ったみたい。何を見てるんだろう。ピッと思考を読み取るバーコードリーダー。しましま。しろくろ。彼のTシャツの英文。
なんでみんなすとぅーしーを着ているの?
「どうして」
「凄い好み」
ガム捨てたいな。
「ありがとう、嬉しい」
はにかんで、手を少し強くにぎり、体を寄せる。このTHREE STEPで、彼は安心する。あ、ゴミ箱あった。うける。花火はまだ打ち上がってないのに、ペットボトルはもう弾けてる。
なんで私、こんなやつと花火見にきたんだっけ。私はそう思っているけど、別の私はずっと馬鹿みたいに笑ってる。(心の底ってどこにあるんだろう。聖書には、仏典には、コーランには、書いてあるの?)意味がわからない楽しさ。人生、笑ったもの勝ちっていうし。私まだ若いし。それとも舌の上で溶けたもののせい?
馬鹿な私の独り言。
ずるりずるりと人の波が、水のあるほう水のあるほうへと進んでいく。野生動物みたい。父がいた頃、母がいた頃、テレビが家にあった頃、見ていたヌーの大移動のよう。たえず、たえず、ながれゆく。いっぽ、ずつ、いっぽ、ずつ、すすんでいく。ぁ緑色がちらりと見える。ぁ赤色の『花火大会』が見える。ぁブルーシートとお弁当が見える。ぁアホヅラの私が見える。ぁ……あ。あぁ。ああ。
烏の群れが飛んでいる。
「俺さ、中学の時にいじめられてから、ほとんど家出なくて。そんなときに、実家の物置に白色の塗料用スプレー見つけて。いけないもんを見ちゃったような気がしちゃって。思わずスプレーを持って、夜中家を出たんだ。それで学校のブロック塀に、俺をいじめた奴の名前、担任の名前、いじめがなかったことにした偉い奴らの名前、見て見ぬふりした奴らの名前、クラスの奴らの名前、親、テレビでよく見る政治家、偉人、ゲームのキャラクター、思いつく限りの名前を書いてやったんだ。サイコーに楽しかった」「バレなかったの」「バレたさ。けど俺の親、金持ちだったから」「よかったね」「帰り道、オヤジにブン殴られて、先生たちがくそ焦っててよ。——に見せてあげたかったよ」「そう」
(自分の名前が聞き取れない。雑音。雑音。雑音。雑音。雑音。雑音。雑音。雑音。雑音。雑音。雑音。雑音。雑音。雑音。雑音。雑音。雑音。雑音。雑音。雑音。雑音。雑音。雑音。雑音——)
「——え? なんて?」
「ここでいいかって言ったんだよ」
「あぁ、いいよ。ぁ……袋一つ持てたのに」
笑っている「今更かよ」の言葉が反響する。いまさらかよ。えぇ、そうね。
(ブルーシートを広げる。カバンを下ろす。袋を下ろす。バッタが飛んで驚く。追い払う。辺りを見渡す。座る。落ち着く。鼓動が聞こえる。ばくばく。違う。花火の音。周りを見渡す。違う。ただの鼓動。浮遊感。雲に乗っているような、感覚がしては、笑いが漏れ出る。雨雲のよう。堪えきれなかった雨粒が、笑いになって漏れ出る。私は雲。私は雲。私は蜘蛛。)
「はい、ジンジャエール」
ぁ……。ペットボトルの中に蜘蛛の子。泡が弾けて、子が産まれて、死して、また泡が弾けた。ペットボトルの中の輪廻。蜘蛛の子の人生。また死して、またしして。またしして。
「ありがとう。ポテチ開けるね」
「ん。乾杯」
彼の手には三つの星。
「乾杯。人多いね」
私の手には未開封のウィルキンソン。
「トイレ混んでるな」
「行きたいの?」
「行きたい」
「いってら」
「ん……」
「どうしたの?」
「キス」
「——なに?」
「キス」
生暖かい風が吹く。
暗くなっていく空に影。
頭をひと撫でしていく手。
さっさといけばいいのに。
スマホを開いて、時間を確認。あと五分。
ビニールシート越しに草が刺さる。アリを追い出す。家から飛び出た夜みたい。外は雨模様。ポケットの中にはくしゃくしゃの千円札。足元がきついのは、母のサンダルだったから。走って、走って、居心地の悪い家から離れた。父の怒鳴り声。どこへでも行ってしまえと唸る声。死んでやると吠える声。声。声。雨音。
学校の近くまで走った頃に、握りしめていたスマホの存在を思い出した。誰かに電話をかけよう。そう思いながらも、浮かぶのはサン=テグジュペリの名前のみ。飛行機が目の前に墜落して、やってこないかな。迎えにきたよと、微笑んでくれないかな。ほどいたポニーテール跡に、冷たい雨粒。
生暖かい風が吹き、翳った。
「大丈夫か?」
「え?」
「大丈夫か?」
「ああ……タニさん」
「どこか遠くに行っていた」
「だいじょうぶ——」
アナウンスが会場に響いた。
「——花火大会を開始します」
その合図で、音が生まれた。四方八方、せわしない音。いつの間にあたりは暗くなっていた。何もなかった場所から、次々とスマホの明かり、拍手、乾杯の声。もう花火が打ちがっているみたい。光のない花火。いつも窓辺から、音だけは聞いていたんだ。アパートの二階から、アイスを食べながら聞いていた。この日はいつも一人だった。なんだか餌を待ち構えている鯉の口みたい。ぱくぱくぱくぱく、波動を作り出す。窓辺から聞こえなかった音。
ぽつ。ぽつ。火花を咲かせる蕾の気配。
ぱち。ぱち。缶ビールを開ける音。
ひゅー。ひゅー。命が芽生え、ぱんっと弾けて花が咲く。
赤、花、満開、咲く。景色が遅く。おそく。
振り向くと彼の顔がかすんだ。
(どうしてこいつといるんだっけ)
手を、ふると、ブレる。
(二重にも三重にも四重にも——無限)
て。はな。かお。あわ。
他人。
誰。
歪み。
(また花が咲いた。歓声。)
(こわい。こわい。こわい。こわい。嫌っ)
右手に他人の左手が触れている。
ざらら。
腰に回る手。
ずるる。
首元に口付け。
どろろ。
赤い花が下着の血に見える。そういえば、滲んで花のようだった。トイレットペーパーは汗で萎んで、枯れたハイビスカスになっているのが私の予想。
(緑色の花が咲く。食い入るように見ている私。彼は夢中になって首を貪り食う。気持ち悪い。抵抗する。彼の表情に疑問がみえる。私は一人で花火を見たい。今度は金色。それよりも瞳孔は尋常じゃないみたい。日食。虹彩は太陽で、瞳孔が月。また金色。ああ……馬鹿なことをしないで、普通に花火を楽しむべきだった。)
ぶれる。ぶれる。ぶれる。心臓が痛い。
二重にも三重にも四重にも。花火が重なり、満開に。
(普通ってなに。私って普通? 周りにいる人々はみんな普通なの? 普通。瞳孔が開いてない状態。普通。父親に殴られない娘。普通。死にたい気持ちにならないはず。普通。普通。普通。死にたい。消えたはずの痣が痛む。お腹が痛い。痛い。視界がぶれる。芝生を映しているはずの水晶から、花火が見える。光。輝き。瞬き。光。輝き。瞬き。火花が躍っている。光の粒、一つ一つが愉しげに、るんと弾けて舞っている。金魚の尾のよう。ぱくぱくぱくぱく。みたくない。みたくない。花火なんてもういやだ。視線を移すとジンジャエール。透明な容器の中には蜘蛛の子。母
「タニさん、喉が渇いた」
動かなくなった彼を揺らす。
「喉が渇いた」
動かない。
「ねぇ」
動かず。
「ねぇってば」
動かず。
「こたえてよ」
動かず。
「ねえってば!」
心臓が波打つ。
「こたえてよ!」
声が震える。
「おいてかないでよ!」
ぽつ。
「うごいてよ!」
ぽつつ……。
つ。
ぽつ……。
つ……。
っ。
つ……。
「ん」
っ。
視点の合わない瞳と目が合う。
「タニさん、喉が渇いた」
っ……。
「ん」
空の缶。
「空っぽだよ」
「俺みたい」
っ。
「うん」
「うち来る?」
「うん」
っ。
「泊まる?」
「うん」
「もうすぐ終わるし、もう帰るか」
「うん」
「大丈夫か?」
っつ……。
「死んだかと思った」
「俺は死なないよ」
「いつか死ぬよ」
「俺強いし」
「だっさぁ」
「笑うなよぉ」
つ。
つ……。
っっ……。
っ。
ジンジャエール飲も。
「次は海に行こう」
「行こうか」
紙に溶けた花火模様 紅蛇 @sleep_kurenaii
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