殺し文句
湯煙
殺し文句
お小遣いが足りなくなると、妻は外食や映画などに私を誘う。当然、妻の給料日前に頻繁に。
今日もそうだ。
LINEに入った妻からのメッセージ。
「十九時に〇〇に寄ってから一緒に帰らない?」
あ、来たなと心の声。〇〇は自宅のある駅近くにあたらしくできたイタリアンレストラン。ネットで見かけた「アクアパッツァ」がとても美味しそうと先日楽しそうに話していた。
「キリの良いところまで仕事終わらせたい。遅くなりそうだから厳しいな」
「遅くなるってどのくらい?」
「〇〇に着くのは二十時になるだろうね」
「その程度なら待つ! 二十時にしよう!」
本当はもう少し遅くなりそうだけど、こちらから二十時と送ってしまった以上は間に合わせなければならない。壁にかかった時計をチラ見して、急がなければと気が焦る。
「判った。じゃ、二十時に〇〇の前で」
メッセージを送り、スマホからモニターに視線を移す。
・・・・・
・・・
・
二十時五分前に〇〇の前に到着したけれど、妻の姿はない。
これもいつも通り。多分、いや確実にあと十五分は来ない。判ってるのだから、私も多少遅れて到着すればいいと考えたこともある。でも性分ってこういうときに出るもので、やはり約束した時間より前には到着しないと落ち着かない。
たかが十分程度の遅刻だけど毎回のことだから、結婚当初愚痴ったことがある。
「でも愛する妻を待たせる罪悪感を持たなくて良いでしょ?」
クスリと笑って言い返してきた。この野郎と思わないでもなかったけど、ま、それもそうかとそれ以降は気にしなくなった。
面白いことに、十分を越えるような遅刻のときはきちんと連絡してくるんだよ。ま、だいたいは仕事上の話で、事故のような深刻なトラブルは無かった。とにかく遅刻十分まではノーアクション。妻の中では、十分までの遅刻はきっと遅刻じゃないのだろうと諦めて受け入れている。
結婚三十年以上経ってもこの状況は変わらない。ここに息子達が居れば、文句を言い合うこともできるけど、一人だともう慣れたもので何とも思わない。行き交う人達を眺めながら時間が過ぎるのを待つ。
やがて到着し「おまたせ」と平然と言う妻に苦笑しつつ〇〇へ入った。
・・・・・
・・・
・
金銭管理が面倒なので、私と妻はクレジットカードは滅多に使わない。その代り電子マネーで支払うようにしている。現金より楽に支払えるのはいいよ。
今日も、使用可能なお店が多い交通系ICカードでお会計する。
レシートに記載された電子マネー残高を見て、妻が言う。
「あら? 私の方が残ってる」
「交換してもいいよ」
「それは嫌」
「この後どこかで奢ってくれてもいいんだけど?」
「少し飲みたい気分だけど、お腹いっぱいだから今日はもう帰る」
まぁそうだよね。
お目当てのアクアパッツァはもちろんパスタやピザも食べていたし。
「で? 〇〇はどうだった?」
「うーん、あまり期待していなかったから……」
「おい! それでも呼び出したのかよ」
「でも良かったわよ? これってあなたと一緒だからよね」
「あなたと一緒だから良い」は妻の殺し文句だ。
これを言われてしまうと、私は黙るしかない。
本音はどうかは判らない。
私が反論しなくなるから使い続けているだけかもしれない。
だけど、私もチョロいもので、こう言われてしまうと嬉しくなるから困ったものだ。
「しょうがないなぁ」
妻の手をとり、「次の機会にはどこへ行こうか?」と帰宅路に足を向けた。
※ 2020/07/31 コロナが外出自粛を伴わない病になるまでは軽々に外出できないでしょう。
再び、気軽に外食を親しい人と楽しめる日が来ることを祈って。
殺し文句 湯煙 @jackassbark
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