ドーナツの穴を埋める

赤原吹

ドーナツの穴を埋める

 『カレ』の足音があまりにも軽く空虚だったので、その足音に合わせてキョム、きょむ、虚無、と『わたし』は口ずさんだ。

「どうした?」

 カレは少し後ろを歩くわたしの方を振り返り言う。そして立ち止まる。梅雨近くの湿った空気が通り過ぎていって、それが妙に心地悪くて、わたしは手に持っていた缶麦酒を一口飲んだ。苦いようで、甘いような炭酸が咽喉を通り過ぎてから、だって、と口を開く。

「君の足音がそう聞こえそうだったから」

 わたしは隣に並んで、また麦酒を一口。カレもわたしにつられて缶を口元にもっていった。わたしの赤い缶とは違う緑色の缶が僅かに兆した夕日色の空に映えた。

「暑くなったなァ」

 カレは一息吐いてから言う。風が吹いて、カレの短い髪が空を泳いだ。

「そうだねぇ。缶が冷たいのが嬉しいよ」

 カレのサンダルがキョム、と鳴く。わたしも一歩踏み出す。

「なあ、」

「にしても、やっぱりあのコンビニ、遠いねえ。帰りは上り坂だし。行きはよいよい、だ」

 わたしはカレの言葉を遮った。きっと、『あの子』のことを言うつもりだったのだ。わたしにはわかる。だって、私も『あの子』のことを思い出したから。『あの子』も外で歩きながら缶麦酒を飲むことが好きだったし、そもそも暑い季節は『あの子』の季節だ。

「……そうだな」

 カレはわたしの話題転換にそのまま乗る。カレの目の色が暗い夜を滲ませる。カレのその色がわたしは嫌いだった。でも、カレはよくその色でわたしと向き合う。その度にわたしは目線を逸らして無理矢理他の言葉を口にする。

「家に帰りながら缶麦酒を飲んで、丁度飲み切るくらいで帰れるのは楽しいけどね」

 わたしは、カレのそんな夜の色なんか知らないふりをして、大きく足を踏み出す。今度はわたしの方が一歩くらい先を歩く。ペタン、わたしのツッカケが間抜けな音を立てた。わたしがそれに少し笑うと、カレも少し笑った。

「というかさあ」

 カレの声が間延びする。急に暑くなったから、カレの頭もわたしと同様に溶け切っているのだろう。そう考えると、少しだけ夏の暑さに感謝したくなった。シャンとしているカレが間抜けな姿を見せるのは大層珍しいのだ。

「お前、ちゃんと飯食べている?」

「食べているよ」

「でも、痩せた」

「痩せていない」

「肩、掴んだときに痛かった。あと、腰も」

 わたしはカレをじっと見つめる。どうしてカレがそんなことに気付いたのか察せられて、少し恥ずかしくなってきて、缶を両手で弄る。なんだよ、とカレが呟いて立ち止まる。

「君、そんなのもわかるの?」

 カレは真顔になる。カレは美しい顔をしているから、何の感情を出さない顔は左右対称に美しい一つ一つのパーツを展示する。しかし、数秒で破顔した。わたしはその顔をあまり好きになれなかった。

「わかるよ」

 それで、何が食べたい? とカレが尋ねる。それから私を追い越した。

「なんでもいいよ」

 わたしも止まりかけていた足を動かす。それから缶をグイっと呷る。

「それ困るんだよな……」

「じゃあ、素麺」

「作り甲斐がないもん言うなよ」

「だって、君を困らせたいのだもん」

「もん、とか言うな、もんとか」

 また隣り合って、わたしのボロアパートへと歩く。さっきの暗く霞んだ空気が嘘のように消えて、穏やかないつもの夕暮れみたいな空気が二人の間に満ちる。

「でも、こってりしたのは食べたくないなあ」

「そう言っているから、また痩せたんだろう」

 カレは缶麦酒を飲み干す。漸く、わたしのアパートが見えてきた。草臥れた灰色の壁、錆びた階段と柵、汚れた室外機、わたしにお誂え向きの建物だ。一度、立ち止まって缶麦酒を一気に飲み干した私の隣を、小学生の兄弟らしい少年が二人、自転車できゃらきゃら笑いながら走り去っていく。その、正しい風景に胸が締め付けられた。わたしは、ねえ、とカレを呼び止める。カレが振り返る。カレの動きに合わせて、白いTシャツが膨らんで揺れる。再び風に吹かれた艶やかな髪が宙に舞って、その髪の奥から、アーモンド型の瞳、甘えたようにわたしを見る。美しい映画のワンシーンのような一瞬をわたしの一言で台無しにする。

「帰ったら、セックスしようよ。そういう気分なんだ」

 カレは返事もしないで足早にわたしから遠ざかる。それがカレなりのイエスでわたしは安心する。今日も、まだカレの荷物のままでいいことに。




 『あの子』が笑う。春の霞んだ夜空の下で、まだ夜は寒いね、と言って、赤い缶の麦酒を傾けていた。自分はなんと言ったのか忘れたが、『あの子』は口を大きく開けて笑った。酔っ払うと大きな声で笑う、そんな子だった。

「君は、君が思っている以上に楽しい人だよ」

 『あの子』はクスクスと笑いながら話す。その声が、コロンと自分の心の中に転がり込む。

「だって、わたしは、君といてこんなにも楽しいのだから! だから、わたしとお付き合いしよう! 空虚な似た者同士、きっとうまくいくよ」

 『あの子』は空っぽだった。空っぽを見せないように笑って歩く子だった。自分はそんな『あの子』に寄りかかってしまったのだ。自分が上手く感じ取れない幸福だの愛だの、そういうものを『あの子』が教えてくれる気がしたから。




 洗濯機の回る音で目が覚めた。

 夢で見た涼やかな夜とは違う、蒸し暑いような水分を含んで冷たいような風が、控えめに開けられた窓からそよそよと入り込んでいた。陽はすっかりと落ちていて、布団の中にはカレがいなかった。わたしは怠い身体を起こして、暗い部屋の中でカレの名前を呼んでみる。当たり前のように返事はなかった。わたしは、もう一度体温が残って気持ち悪い布団の中に沈む。きっとカレは煙草でも買いに行っているのだろう、きっとそうだ。洗濯機だけ回して帰るなんて言うこと、カレにはできないのだから。自分に言い聞かせながら、もう一度目を瞑る。早く、早く帰ってきてくれないかなあ、どうにも……

「一人は、辛い……」

 わたしは強く胸を抑えた。まるで、身体に穴があって、そのまま腕が入っていくのではないかと錯覚する。そんなことはないと、わたしの鼓動が煩いくらい手に訴えかけるのに、わたしの頭はその幻想から離れてくれなかった。もしも、腕がわたしの身体を貫いたら、そうしたら、わたしのこの穴は満たされることになるのだろうか? そうだったらいいのに、簡単に埋まる穴だったら、良かったのに。

 暗闇に耐え切れなくなって、目を開ける。カーテンの隙間から、街灯が差し込んでいて、部屋の中は少しだけ明るかった。しかし、それにも得体の知れない恐怖を感じて、右手の人差し指を噛む。さっき、カレに抱かれながらついてしまった噛み痕を上書きするように、強く噛み締める。洗濯機の動作音が大きくなる。わたしを責め立てる。息が上がる。冷蔵庫が低く唸る。手が震えて、それが、全身に毒みたいに広がって、そして、

 『あの子』が呼ぶ。夏はすぐそこだよと、わたしを呼ぶ。わたしは、『僕』は、『あの子』の背中を、

「……ただいま、ごめんな」

 黒い一対の瞳が、わたしを覗き込んでいた。カレだ。視界が段々はっきりとしてくる。

「……おかえり」

 カレはわたしが口を開いた隙に、手を口から離す。唾液の糸が伸びて切れ落ちた。汚いなとわたしは他人事のように思った。カレは噛み痕を自分の手で包み込んだ。乾燥して僅かに温もりがある掌。そうだ、カレだ。ここにいるのは、間違いなくカレだ。わたしは、カレの名前を呼ぶ。

「どうした?」

 カレは優しく問いかける。わたしは、その声に少しだけ満たされて、その満足感を掻き消すような精神的な得体の知れない痛みを感じた。

「……どこ行っていたの?」

 わたしは誤魔化すように口を開く。

「スーパー。晩飯の準備しようと思ったら、冷蔵庫に何もなかったから」

 カレはただ笑う。

「今晩、何?」

「牛肉を甘辛くしたの」

「……よくわからない」

 カレはわたしの頭に手を置いて、そのまま二三度撫ぜる。

「まあ、お楽しみにしておきな」

「……食欲、無いのだけど」

「食べられる分でいいよ」

 カレはわたしの手を取って立たせる。

「風呂、入ってきな」

 わたしは頷く。それから、タオルと着替えを持って、風呂に向かった。

 カレが料理を始める音を聞きながら、わたしは狭いユニットバスの中にしゃがみこんだ。カレの優しさが胸を抉って、穴を広げている。このまま、うずくまってカレの優しさが無くなるまでじっとしていたいけど、きっとカレは物音一つしないこの部屋を心配して声をかけに来る。だって、カレは心配性だから。わたしはノロノロとシャワーのコックをひねった。生温い水が頭から背中に流れていく。色んなものが流されていく。さっきの情事の跡も、わたしのか細い息も排水口へ流れていく。それなのに、どうにも埋まらない空虚だけは微動だにしない。わたしは、口元を歪ませた。空虚さはわたしの一部だと主張するのか。わたしはこれを心底嫌っているのに! シャワーを止めて髪や身体を洗っていく。機械的な作業をしていくうちに、大体いつも通りに振舞えるくらいに落ち着いてきた。わたしはいい加減に身体を拭いて、浴室を出た。

「髪、ちゃんと拭けよ」

 夕ご飯の匂いを纏ったカレが、わたしからタオルを奪って頭をガシガシと拭く。

「痛い」

「じゃあ、自分でやれよ」

 少しだけ力が緩んだ手で、引き続きカレはわたしの頭を綺麗な手で揉んでいく。なんとなく、さっきのカレとのアレソレを思い出して、わたしは俯く。カレは何も言わずに黙々と手を動かす。わたしはカレのシャツを指先で遊びながら、カレの満足がいくまでじっとしていた。

ずっと控えめに開いていた窓から冷たい風が吹き込んだ。

「お昼は暑いと思ったけど、まだ夜は少し寒いね」

「そうだな」

「……ねえ」

 わたしがタオルの隙間からカレを見上げると、カレはその手を止めてわたしを見詰めた。

「夏を越えて、秋になるまで私が生きていたら、そうしたら、君との関係はどうなるんだろう?」

 カレは口を真一文字に結んでから、重々しく口を開けた。

「俺は、お前にずっと生きていてほしい」

「知っているよ。君のおかげでわたしは生きているんだから」

 カレはわたしの手に触れる。ここで、抱き締めてくれないのがカレの優しさで、わたしはそれが大嫌いだった。

「秋になっても、わたしが生きていたら、君とのこと、ちゃんと考えるよ」

 わたしの提案をカレは随分と弱々しい声で受け入れた。わたしは、それに笑ってお礼を言う。久々に笑った気がした。




 カレに会ったのは、晩夏の始まりだった気がする。夜には薄手の長袖が必要だな、なんて考えながら大学に通っていた頃だ。たった一年前なのに、ずっと昔にも思える。

 場所は当時のバイト先で、今の職場だった。昼間はコーヒー、夜は酒を出す店だった。近所では「ドーナツの美味しいコーヒー屋さん」という認識だったと思う。ドーナツは店長が妙に拘っている、理由はよく分からない。わたしはよくレジ担当としてカウンターに立っていた。

 昼の忙しい時間が過ぎて、店内に空席が多くなってきた時間帯だった。わたしは店の前の通りを歩いている人々を眺めながら、癖になっていた右手の人差し指の噛み痕を包帯の上からなぞっていた。窓越しの雑踏とコソコソとした店内の話し声、ゆったりとしたジャズと珈琲の香り、ここはほんの少しだけわたしを落ち着かせてくれる場所だった。だから、ドアベルが揺れる音はまるでサイレンの様で苦手だった。控えめに、カラリン、リン、とベルが揺れるとわたしは作り笑いをして、いらっしゃいませ、と少しだけ声を張り上げる。

「お好きなお席へどうぞ」

 やってきた客はわたしをちらと見てから、奥の薄暗いテーブルに座った。わたしはグラスに水を入れて、その客のもとに向かう。

「注文、いいですか」

 客はわたしを見るなり口を開く。

「ええ」

 わたしはポケットに突っ込んでいたメモ帳を手に持つ。初めて客の顔を見た。綺麗な顔だと漠然と思った。

「珈琲と、ドーナツ」

 はい、とわたしは返事をして厨房に注文を伝えに行く。なんとなく、客の刺すような視線が気になった。

 その日から、その客は度々店に来るようになった。視線の様子も変わることがなく、こちらをじっと見つめているようで、少し不快だった。

「やあ」

 この店には『あの子』もよく来ていた。わたしみたいなのが普通に働いているのが、とても愉快だそうで、しかし、わたしは『あの子』の姿を見ると、どうにも落ち着かなくなるから嫌だった。

「いつもので頼むよ」

 『あの子』はカウンターのわたしにそう言うと、窓際の席に歩いて行った。わたしは厨房に注文を伝える。紅茶とドーナツ二つ、『あの子』はいつもこれだった。それからグラスの準備をして、『あの子』のところに行く。

「今日も暇だったの?」

 わたしがそう言うと、『あの子』は鞄の中から本と紙の束を取り出した。

「忙しいよ。課題の提出あるし」

 そう言うなり、本のページをめくり始める。わたしはそれをちょっとだけ見詰めてから、厨房に向かう。少し待っていると、店長が準備した紅茶のポットとティーカップ、砂糖とミルクの小瓶、ドーナツを二つ載せた皿をわたしに差し出した。

「いつもの子だろう」

「はい」

 店長はニヤニヤと笑う。『あの子』が甘ったるい気配を消さないせいで、すっかり店員全員の知るところとなったわたしと『あの子』の関係に、わたしは仏頂面になる。その顔のまま、わたしは『あの子』のところに向かう。

「はい、お待たせ」

 『あの子』の前で気取るのも段々恥ずかしくなっていたから、わたしはちょっとズルをしながら、いつも運んでいた。

「ありがとう、ついでに紅茶に砂糖とミルク入れてくれると嬉しい」

 本から手を離さないで言うのもいつものことで、わたしは砂糖を二杯、ミルクをある分だけ入れてティースプーンでかき混ぜた。

「ありがとう」

 『あの子』はへへ、と笑いながら、ティーカップを両手で持ち上げる。わたしはそれに少し頬を緩ませる。

「じゃあ、頑張って」

「あ、待って」

 『あの子』が呼び止める。わたしは、ちょっと面倒臭いなと思いながら振り向く。

「今日何時まで?」

「あと一時間」

 わたしがそう言うと、了解と笑う。

「待っているから」

 わたしの返事なんか関係無いというように、ドーナツに噛り付いた。形の良い歯が柔らかい生地を噛み切って咀嚼しているのを見ると、妙に安心した。いつか、わたしの胸に巣食っている空虚を噛み砕いて飲み込んでくれるような気がしてならなかった。

 口元を見ていると、カウンターの呼び出し用のベルが鳴った。わたしは頭を切り替えてレジに向かう。

「お待たせしました」

 最近、常連になったあの客だった。相変わらずの視線で伝票を差し出す。

「好い人?」

 落ち着いた声が聞こえて、顔を上げると、目の前の客が口元に微かな笑みを乗せていた。

「さっきまで話していた子、仲良さそうだったから」

「……まあ、そうですけど」

 わたしは少しぶっきらぼうに答える。さすがに自分のことをペラペラと喋る趣味はない。

「ああ、気を悪くさせてしまったね。申し訳ない」

「いえ。公私混同ですし」

 わたしは客の顔から逸らしてレジを操作する。

「いや、仲良くね。また来るよ」

 そう言ってその客は出て行く。変な人が常連になったものだな、なんてその背中を見ながら思った。それがカレを強く意識したきっかけだった。




「君、今日は仕事早かったのだね」

 わたしはハイボールをカレの目の前に置く。

「最後のレッスンの子がさぼったからね」

 カレはくすりと笑いながら唐揚げを頬張った。カレはジャズバーでピアノを弾いていた。最近では開いている昼間に知り合いのピアノ教室で先生も始めたようで、偶に問題児みたいな生徒の話が出てくるようになった。

「そう、それでいいの?」

 わたしはカウンターに肘を置いて、そのまま頬杖をつく。

「そういうお年頃なんだ。来週にはまた顔を出すだろう」

 カレの長い指先が黄金色のジョッキをなぞる。少し指が反り返って、つぅとほんの少しけだるげに。わたしはその指から目が離せなかった。いつもわたしの肌を撫でる時と同じ動きであったせいだ。

「そういえば、君のピアノ、聴いたことなかったね」

 わたしは指から意識を逸らそうとカレに話しかける。

「そうだね。遊びに来なよって言っても、店に来ないから」

「なんか恥ずかしくてね」

「なんにも怖がることないのに」

 そう言ってカレは首をすくめる。その口元には優しげな笑みがチョンと乗っていた。それを見て、わたしは傷跡を隠すように巻いている右指の包帯を撫でる。包帯の上には幅の広い指輪が嵌められている。包帯がなるべく目立たないようにとカレが送ってくれたものだ。銀色の細い線が幾重にも重なって指に絡みついているのは、カレの優しさみたいで溜息が出る。

「怖がってはいないよ、気が乗らないだけ」

 これ以上、カレのこと知りたくない、これが本音だ。

「残念だな」

 カレはハイボールを飲み干す。皿の上の唐揚げもなくなっていた。カレは食べるにしても飲むにしてもひょいひょいと口の中に入れて飲み込んで、すぐに空にしてしまう。薄くて小さい唇のくせに、一口が豪快なのだ。そして、白ワインとナッツ、カレは次の注文をする。

「あと何時間?」

 わたしが白ワインを先に差し出すと、カレがその手に人差し指でトンと触れる。ピアノの鍵盤もこんな風に触れるのだろうか、そうであるならどんな音なのだろうかと、そんな馬鹿なことを考えていると、少し気分が明るくなった。もう店の酒気に酔ったのだろうか。

「二時間」

 機嫌が良くなったから、素直に勤務終了までの時間を教えてやる。

「待っている」

 そう言って笑った顔が『あの子』に似ていた。ああ、また胸の穴が大きくなった。




 別に、カレのことは嫌いではないのだ。

 隣にいて不快に思うことはない。煩い人間ではないし、家事は趣味だからと言って進んでやる。お互いに夜が仕事の時間になりがちだから、すれ違いの生活にはならない。それに、カレはわたしの核心には踏み込んでは来ない。

 カレだって知りたいはずだ。わたしの中の『あの子』のこと。わたしのこれからのこと。カレは優しいから、踏み込んでこないだけだ。わたしは、一年間、何も言わないでカレの優しさに甘えていた。

「君は、いつまで、わたしのことを、待ってくれるの?」

 仕事が終わって、準備を終えて裏口から出ると、カレは煙草をふかしながら待っていた。

「帰ってくるまで、かな」

 そういうことじゃないけれど、でも、今の状況的にそうだよなぁなんて思う。

「今日、君の家に帰っていい?」

「いいのか、明日の仕事は?」

 カレの家からこの店は少し遠い。とは言っても、電車の乗り換えがあるだけで、別にそんなに気にかけてもらうほどじゃないのに、カレは気にしすぎなのだ。

「明日は夜からラストだから。君は?」

「いつも通り」

「なら一緒の時間に出ればいいよね」

 わたしは歩き出す。カレも煙草の火を消して、隣に並ぶ。

「まあ、そうだけど……。どうして急に?」

「さあ? あの家に帰りたくなくなっただけ」

 『あの子』のことを思い出したせいで、あの家の周りに染み付いた日々を見たくなくって、カレのところに逃げたくなった。ほら、わたしはまたカレの優しさに甘える。

「少しくらい家事も手伝うし、今晩は君の好きにしていい。朝まででも付き合うし、どんなことでもやってあげる」

 カレは溜息をついた。

「何も、しなくてもいい」

「それじゃあ、ダメだ」

 わたしは強く否定する。

「わたしは、君の優しさにつけ込んでばかりだ。ねぇ、耐えられないんだ。優しくされるばかりじゃ、辛いんだ」

 カレは立ち止まる。

「……優しくしないで、ひどくして……」

 カレは、路地にわたしを引きずり込んで、二人の手を握りこむように力を込めた。カレの手は僅かにわたしより大きくて、手入れが行き届いていて、形も整っている綺麗な手だった。それに比べてわたしの手は荒れていて、噛み痕は消えないままで、弱々しく丸まっている手だった。

そして、わたしたちは、キスも抱擁も躊躇うような仲だ。わたしもカレもお互いに見えている以上に抱え込んでいるものが多すぎるせいだ。

「俺は、十分ひどいやつだ」

 わたしは、声が出なくて、首を横に振る。

「俺は」

 それ以上、カレの声を聞きたくなくって、わたしはカレの口の中に指を入れた。カレの温かい舌がわたしの右の人差し指に触れた。本当は触れ合うのさえ、少し迷うし嫌悪だってあるのだ。でも、カレの言葉を止めたかった。カレはわたしを傷つけることができないと知っているから迷わず手を伸ばした。

 本当はキスで言葉を閉じ込めてしまうのが、正しいラブストーリーなのだろう。ロマンティックで、女の子が一度は夢見る強引で熱い恋。それなら、ここはキスで愛を分からせるのが正しい。でも、わたしたちの間に在るのは、正しい恋の物語ではないのだ。歪な形の二人が、歪な箱の中に無理矢理入って、お互いに足りていない何かを埋めているふりをしているだけだ。何も生み出さない、停滞したまま、有限の時間を食いつぶしていくだけの二人。そうであるのなら、キスなんて必要無いだろう。愛の象徴みたいな、くそったれなもの、わたし達には不必要だ。

「おい、もう……」

 カレがわたしの肩を壁側に押して突き放す。

「なあ、もう、帰ろうよ……」

 わたしは縋りつくようにカレのシャツを掴む。

「ごめんね……でもね、本当なんだ……せめて、ひどくしてほしいんだ……」

 カレは、泣きそうな顔で、わかった、と言った。ひどくッて言っているのに、カレの声は随分と優しかった。




 カレにとっての『ひどく』とはわたしをとことん甘やかして、グズグズに溶かすことだったらしい。おかげさまで、わたしは散々啼いたし、随分とはしたなくカレを誘った。最後の方はお互いに絡み合って、熱を激しく混ぜあったから、まあ、ひどくと言ったら、ひどくなのかもしれない。

「からだ、へいき?」

 寝ぼけた声で、カレはわたしを腕の中に閉じ込めたままに尋ねる。背中から抱き抱えられているから、カレの温もりと鼓動が背中から伝わってきて落ち着かなかった。

「……わかんない」

 声がうまく出なくて、けほけほと小さく咳をした。咽喉が乾いていた。

「ごめん、簡単に後始末はしたんだけど」

 カレの声は少し起きてきて、掠れているけれど少しはっきりと聞き取りやすくなってきた。

「構わないよ。どうせ、わたしはすぐ寝たんだろう」

「無理させちゃったかな」

 そう言って、カレはわたしの頭を撫ぜる。

「全然。もっと酷くされるかとおもったのだけど」

 できないよ、とカレは言う。

「君を丁寧にしまっておきたいんだ、許されるなら、だけど」

 カレの手が頭から首の後ろに下がってくる。ぞくりと背中が震える。恐怖? いや、快感だった。誰かに支配される、わたしの意思を勝手に定義する、心地いいことだ。でも、穴は埋まらない。埋まったふりをして、ボタボタと支配された時間を垂れ流す。

 わたしは、カレの手に触れた。

「……秋になったら、閉じ込めてよ」

 いっそこのまま、埋まらないまま、無意味な愛情を貪ってしまおう。

「ねえ、いいでしょう?」

 外から水の落ちる音が聞こえ始めた。雨が降り始めた。まだ、夏は始まらない。もう少し、雨が降ったらきっと夏だ。そうしたら、そうしたら、

「……夏を越えて、生きていられるのか?」

 カレの縋りつくような声が聞こえた。その声は助けたくもなるし、見捨ててしまいたくなる声だった。

「……わからないよ」

 わたしは、素直に答えた。このことについて、カレに嘘は言えなかった。カレの腕に力が入る。

「俺は、お前だけが欲しいんだ。お前を生かしたいんだ。何もかも俺のままに、俺だけのものにしたいんだ、一生だ。一生、俺はお前を縛りつけて、縛りつけられていたいんだ。なあ、お前だってそうだろう? お前だって、そうしてほしいって、そうされると安心するくせに、何で拒絶するんだ? 俺だからか? 俺が『あいつ』じゃないからか? 俺の定義する『お前』はお前には苦しいものなのか? 教えてくれよ、俺に足りないものはなんだ? 俺ができることはなんだ? どうしたら、お前は、受け入れてくれるんだ」

 カレの言葉が、わたしの穴の中に投げられる。それはなんにも音を立てないで、奥底に突き刺さった。それだけ。わたしは何も返せない。

「…………分からないよ、ずっと考えているのに、君のものになりたいのに、なれないんだ。捨てられないままで、君に、釣り合わないままなんだ」

 カレがわたしの背中に爪を立てた。短く切り揃えられているから、血は滲みなんかしないだろうけれども、わたしは痛いなあと嬉しく思う。これくらいひどくでいいのだ。これくらいひどくしてくれないと、わたしの残酷さに釣り合わない。

「……ごめん、変なこと言った。飯、食える?」

 不意にカレの腕が離れた。わたしは布団の中で、いや、要らないと言った。





 雨が降る日が減って、日差しが強くなってきた。夏が来てしまった。いつの間にか、紫陽花は色褪せ、代わりに、向日葵や閉じた朝顔が何処かの家の庭先から見えるようになった。ああ、もう時間がない、早く、わたしは生きるか死ぬか、はっきりしなくてはいけない。カレの為にも、『あの子』の為にも。

 わたしは溜息を身体のうちにため込んだまま、カウンターの中から外を歩く人を見る。みんな、夏にうんざりしながらも楽しそうに歩いていく。わたしは涼しい店内で、それを遠い世界のように眺める。カレは一日中レッスンだから店には来ない。夜は一緒にいようと約束していた、明日は二人とも休みだから。でも、そうじゃなくても、最近のカレはわたしとなるべく一緒にいようとする。うんざりするくらい、些細な時間さえ支配する。呪いのように次の予定を決める。わたしを生かすために、あらゆる手を尽くす。

 確かに、わたしは死のうとは思っている。今はどうやって死のうか考えているから生きているだけで、死に方と準備ができたらすぐにでも死んでやる。なぜか? わたしはわたしを許せなくて、『あの子』がどうにも離れなくて、わたしの穴は埋まらなくて、カレの優しさが辛くなったからだ。

 しかし、それでも、理由を付けて、みっともなく生にしがみついている。カレのせいだ。カレを残して死ぬのはどんなことよりも恐ろしかった。一人になったカレが死を選ぶというのが、訳も無く嫌だった。きっと、カレはわたしにとって生の象徴だから。きっとそうなのだ、だから、わたしはカレを殺せない。

 わたしは溜息を吐く。店長がシャキッとしろと肩を叩く。そこは昨日カレに痕を付けられたところだな、とボンヤリと考える。カレが生の象徴なのは、わたしがカレにセックスを強請ってばかりのせいかもしれない。自分の浅ましさに失笑。でも、しょうがない。カレに抱かれるのは安心するのだ。穴がわからなくなるほどに溶けて、何も考えられなくなるほどに溺れる。わたしが消えるような感覚に安心していたから。そうだな、今日もカレの上に乗って、強請ろうか。

 わたしの空虚な穴が震えた。これは寂しさなんかじゃない、性的快感を思い出しているだけだ、と薄く笑う。ほら、わたしはどうしようもない。浅ましくて、命を無駄にするような淫乱。

 早く夜になってくれやしないかと視線を彷徨わせると、ガラスケースの中のドーナツが目に入る。ドーナツを食べて、その穴が無くなるような、そういう簡単な穴だったらよかったのに。埋まらない穴の縁を消し去れてしまえばよかったのに。




「夜が楽しみだったんだ」

 『あの子』が笑う。付き合い始めて一か月が経とうという頃だった。

「どうして?」

「君に出会ったのが夜だったから。君は、夜の雰囲気が良く似合うし」

「褒められている気がしないな」

「褒めているよ」

 『あの子』は綺麗に並んだ歯を見せて笑った。笑うと寂しそうな瞳が隠れる子だった。それは『あの子』の人生みたいで、わたしは気に入っていた。

「それに、わたしは、君に処女をあげてしまう今晩というのを楽しみに待っていたんだよ」

 その言葉にわたしはうんざりしたのを覚えている。

「そんなに気軽にあげてしまうようなものではないと思うけれど」

「わたしにとっては、大したものじゃないの。君のことをね、愛してしまったから」

 その言葉に、わたしの穴が少し小さくなった気がした。

 愛、それがわたしの中に響いた。




 わたしは、またカレにされるがままになる。

自分の甘ったれた声にはもう慣れた。どうせ、このアパートにいる住民はろくでなしだ。わたしは我慢することなく不出来な楽器みたいな嬌声を零していた。

「……なんか、あった?」

 カレはわたしの腰を撫でながら問いかける。

「……なんにも、ない……ッ」

 カレの綺麗な一部がわたしの中に入り込む。ぞくりとわたしの身体が震えた。わたしから綺麗な旋律なんか流れはしないのに、カレはわたしを翻弄したがった。

「そう……か」

 カレはわたしの耳を噛んだ。

「いつもと、変わんないっ、よ……」

 アア、と嬌声、わたしはカレにされるがまま、抱かれていた。

 いつもと変わらないんだ。わたしが『あの子』のことを思い出すのは、いつものことなのだ。その事実に、わたしの穴がまた大きくなる。結局、わたしは、カレを一番に優先してあげられないのだ。



『今に始まったことじゃないでしょう?』



 媚びたわたしの声の裏で、『あの子』が笑う。まるで、娼婦のように笑う。

『君は、わたしすら優先させなかった』

 わたしはカレに身体を寄せる。二人の凹凸が噛み合うように形を変えていく。

「ね、もっと……」

 忘れたいのだ、ただ、忘れたいのだ。

『わすれるの?』

 幼い迷子の少女ような顔になる。そのくせ、目はまだ娼婦の色だった。違うだろう、君は寂しい目の子だった。誰にも理解されない思考と人生に諦めていた目だろう。僕だけがそれを受け入れられた、違う、受け入れたかった、その代わり、空虚な穴を忘れさせてほしかった、君が良かった、そのはずなのに、

『いやだな、わたしは君だけだったのに』

 わたしは、もっと、ひどくしてもいいから、とカレに頼む。

『今度は、その人に満たしてもらうの?』

 カレはわかったから、とわたしを揺らした。

『はしたないね』

 わたしもカレに合わせて腰を振った。

『君は、本当に、救いようもないよ』

 わたしの目から涙が落ちた。

「おい、なあ」

 カレがわたしの名前を呼ぶ。そして、わたしの全てがカレに支配される。




 カレがわたしの頭を撫でる。

「髪、綺麗だな」

 何度も同じことを言う。

「……煙草、とって」

 カレはわたしの安い煙草の箱を手に取る。

「一本貰ってもいい?」

 わたしは頷く。カレに長い指がくすんだ白い煙草を摘まむ。さっきまでわたしの腰を掴んでいた指、汚らわしいものに触れていたくせに、カレの指はいつだって神聖なものに見えていた。

「……何かあった?」

 また同じことをカレは訊いてくる。

「何もないよ」

 わたしは掠れた声で答える。

「『あの子』のこと?」

「違うよ」

 わたしは咄嗟に嘘を吐いた。カレにはもう関係無いことなのだ。これはわたしの問題なのだ。

 カレがわたしにすり寄る。カレとわたしの汗ばんだ肌が触れた。それに安心よりも不快感を覚えた。わたしという思考が消えて、また戻ってきて、周りの世界を認識させられる、この時間が嫌いだった。

「なあ、夏だよ」

 知っているさ、もう夏だ。夏は足早で、すぐ終わってしまう。

「なあ、もう、忘れちまえよ、あいつは忘れちまえ。俺を選べ」

 カレの縋るような声、その中に嫉妬と独占欲の悲しい色があった。わたしはその声に絞殺されるような気がした。いや、殺されたいと願った。カレがわたしの首を絞めてくれやしないか。そうしたら、わたしは楽に死ねて、カレはわたしを永遠にする、一石二鳥だ。

「わたしは、君だけを選べないよ」

 煙草を灰皿において、もう、終わるかもね、そう言ったら、カレは鬼の形相になって、わたしを布団の上に叩きつけるように仰向けにした。

 首、胸、腹、急所がカレの目の前に晒される。それに、処女のような恥らしさと歓喜を覚えた。間違いなく、わたしは幸福を感じていた。カレの指がわたしの首に回される。わたしがカレの楽器になる。綺麗な音が出るわけないのに、カレはわたしの音を永遠にするのだ。それだけで、わたしの身体は歓喜に震え、絶頂へと向かうようであった。

「……もう、終わる」

 わたしの小さな声に、カレの指は震え出す。目は見開かれたまま、荒い呼吸が聴こえた。それから、灰皿に置かれたままの煙草の火、消えそうな光はわたしのようで、背骨がぞくぞくと震えた。今までで、一番興奮していた。

「……は、ああ……ああ!」

 カレがわたしの首から手を離した。見開いた瞳から涙が落ちてきた。熱に浮かされたまま、わたしはそれを浴びた。

「……俺たちは、いつまで、このままなんだ」

「……君は、後悔していない?」

 わたしが口を開くと、カレの涙が口の中に入り込んできた。体液の味、美味しくもなんともない。強いて言うなら、口をすすぎたかった。

「え?」

「わたしと出会ったこと、出会う為の選択をしたこと、後悔していない?」

 静寂。それがカレの答えだった。カレの愛の重さに吐き気がした。




 わたしは布団を抜け出す。カレは身動きもしなかった。静かに着替えて、何も持たずに外へ出る。朝日の昇る気配だけが静寂の中で息づいていた。

 湿った空気。誰かの吐息みたいで嫌だった。だから、キスも嫌いだ。わたしは、溜息を吐きながら駅へと向かう。くたびれたスニーカーがキョムと鳴く。

 大した話でも無いのだ。歩きながら言い訳をする。

 カレは『あの子』を恨んでいた。わたしは『あの子』を愛していた。カレはわたしを愛してしまった。それだけの話だ。

 『あの子』は今でもあそこで待っているのだろうか? わたしの足は自然と海に向かう。『あの子』の処だ。




 『あの子』は些細な罪を犯していた。カレの大事なものを永遠に奪い取った。カレの妹だ。カレの妹は、『あの子』の同級生で、『あの子』の些細な一言を苦にして、屋上から飛び降りた。『あの子』がそれを知ったのは、カレが店に通うようになってすぐのことだった。きっかけは『あの子』がカレの顔を思い出したことだ。それはそうだろう、カレの顔は驚くほどに整っている。それこそ、美術品のようであった。だから、『あの子』はカフェで尋ねてしまったのだ。「何処かで会いましたよね?」と。それはカレにとっては残酷な一言であった。『あの子』は妹のことなんか忘れている、いや、妹を死なせたことにすら気づいていないのだと。カレは、静かに怒ったのだ。そして、カレの全てを明かした。

 本当は、見つけた瞬間に、怒鳴りつけてやろうと思っていた。だが、『あの子』は『わたし』と笑っていて、幸せそうだった。何より、無関係な『わたし』を巻き込みたいとも思わなかった。それどころか、カレは『わたし』にどうしてか、惚れてしまった。わたし達の平穏を守る為、カレは口を噤んだ。しかし、『あの子』は何も気づいていなかった。だから、カレは告げた。

 それから『あの子』は少しずつ壊れていった。完全に壊したのは、『僕』だ。

 僕たちは恋人だった。春の夜、路上で缶麦酒を飲んでいた『あの子』がふらついて、僕に麦酒をぶっかけたのがきっかけで、ベタベタとしてくるわりに、肝心なところには触れてこない『あの子』を僕は気に入っていたし、気を張らなくても良いという僕の存在は『あの子』にとって気軽な関係で、僕達は何の進展もしない関係をだらだらと続けていた。

「ねえ。質問」

 ある日、『あの子』が問い掛けた。

「些細な言葉で誰かを殺してしまったとして、君はどうする?」

「突然だね」

「課題だよ。そういう課題」

 当時、僕は『あの子』の嘘に気づかなかった。だから、僕がとどめを刺したのだ。

「僕は、死ぬかな」

「ふーん……わたしならどうすると思う?」

 僕にとって『あの子』は純粋無垢、無邪気の代名詞だった。だから、『あの子』の「ハジメテ」を奪ったのも、気が向かなかったし、僕らは肌を重ねることは殆ど無かった。だから、僕は勝手な印象、こうであってほしいという願望を『あの子』に言ってしまった。

「君はそういうの、絶対ないでしょ」

 『あの子』は笑った。その日の笑顔が諦めたように見えたのは、きっと記憶が歪んでいるせいだ。

 次の日の朝、『あの子』は砂浜に打ち上げられた。それをニュースで知って、これまでの生活も将来も捨てた『僕』は、『わたし』はカレに生かされているのだ。




 「…………どうしようか」

 海に着いた。朝日はまだ遠くにある。薄暗い海の中に足を入れ、横になる。スニーカーが波の中から出たり入ったりを繰り返す。

 わたしの空虚な穴は誰にも埋められない、そう思っていた。それなのに、『あの子』は空虚を食べて、無かったことにしてくれるのではないかと思った。『あの子』は寂しそうな目をしているくせに、楽しそうに笑う子だった。僕が何も言わなくても、隣に居てくれるだけの子だった。『あの子』がドーナツを齧る瞬間、僕の心を咀嚼してくれているように錯覚したことがあった。『あの子』と一緒ならば、僕もいつか、愛を受け取って、同じだけ、いや、それ以上の愛を返せる正しい人間になれるのではないかと思った。なのに、僕は『あの子』を殺してしまった。『あの子』の心の揺らぎを見ることができなかった。違う、僕は『あの子』を知ろうとしなかっただけだ。『あの子』だけだと思っていたのに、過去も未来も知りたいと思わなかった。ただ、夢を見て『あの子』に押し付けただけだ。僕は、正しい人間にはなれなかった。

 だから、カレの優しさに付け込んでいる。与えるだけ与えてくれる、カレの甘い優しさに寄生している。如何したって、カレを愛せやしないのに。『あの子』すら、最後まで「愛していた」と言い切れないのに。ぼたぼたと零れていくだけのベタベタで甘い優しさと愛に付け込んで、カレを苦しめている。『あの子』が妹にした方法と同じ方法で『あの子』を殺してしまったカレの前にいる、『あの子』が愛した『僕』。罪悪感で押しつぶされそうな中、『わたし』を生かすことで、カレは生きていることを肯定して、『あの子』への罪滅ぼしにしている。

 では、『僕』『わたし』はどうだろうか? 『あの子』と一緒に『僕』は死ぬのか、『カレ』と一緒に『わたし』は生きるのか、どうしたいのか、分からない。死にたい、空虚な穴を消し去りたい。埋めてくれるのは『あの子』じゃなくちゃダメだ。これを愛と呼んでいいのならば、『僕』は今すぐ死にたい。生きたい、カレを苦しめていたい、それ以上に、カレと共に『あの子』への罪滅ぼしをしたい。妹を殺されたカレを生かし、幸福にすることをきっと『あの子』は望む。それにカレを殺したくない。だから『わたし』は生きたい。

 次第に空が白くなっていく。砂を踏む音、そしてわたしの名前。

「……死ぬのか」

 カレがわたしの頭の横に立った。

「さあね。運試しだよ、このまま、海に引っ張られるか、どうか。決められないから」

 わたしの下半身は既に波に洗われている。冷たくて、肌に張り付く服が心地いい気すらしてきた。

「やめてって、言っていいかい?」

 カレの男にしても、女にしても短い髪が潮風に揺れている。涼やかだと評価される顔が、精一杯の悲しさを表している。

「起死回生みたいな、そんな言葉でも言ってみたらどうだろう。気分が変わるかもしれない」

 空が朝顔の色を覗かせる。

「……俺達は、正しくない関係だろうよ。お互いに罪滅ぼしみたいに、依存しなくてもいいのに、一緒にいる。ただ、自分たちが安心したいからって引っ付いてばかりで、お前は寂しがってばかりだ。そのくせ、俺から離れたそうにする。分かっているよ、お前が『あいつ』の所に行きたいの。俺は、お前の孤独とか、そういうもの、きっと埋めることできないよ。だって、俺達一緒じゃないか」

「一緒?」

「ああ、埋められない孤独があるの。俺だって、誰にも理解されてこなかったよ。だから、上手に埋めてあげられないんだ」

「……ああ、それもそうか。気にしたこと無かったよ。君は君だろう」

 名前だって些細なものだ。わたしが心の中で呼んでいる『カレ』が『彼』なのか、それとも名前から、例えば「かれん」とか「枯木」みたいな名前から、適当にとった渾名なのか、それくらいのものだ。カレの短い髪も、わたしの男でも女でも中途半端な長さの髪も、カレの白いシャツと黒いパンツの定番の格好も、わたし達の一人称も、言葉遣いも、

 男にしても女にしても少しだけ視線が高くなることも、男にしては華奢でも、女にしては大きい手も、取り繕うように化粧をすることも、要らない体毛を処理することも、身体の凹凸も、生殖器も、そんなもの、性別なんて、わたしは気にしていなかった。

 だって、カレはカレで、わたしはわたしで、それだけだった。

「気にしていなかったのか……ずっと、その言葉がほしかったんだよ」

「簡単だなあ。いいの、わたしを諦めても」

 君にはね、とわたしはカレの目を見て言う。カレの目は甘えるように私を見ていた。寂しがっているのは、きっと君の方だ。わたしには重すぎる愛でも、必要な愛なのだろう。此処にいてほしいと、居場所があると、そういう愛なのだろう。

「君にはね、もっとピアノを弾いてほしいよ。わたし、本当に好きだったんだ、君の綺麗な手。これが鍵盤を踊るのだろうと思うと、ね。君は、綺麗で格好良くて、そんな君を浅ましいわたしで汚しているのが、心苦しかったのに、少し嬉しかったんだ」

 ねえ、教えてよ、とカレに問う。

「どうして、わたしが好きなの?」

 彼はわたしの横に腰掛けた。

「いつだって、寂しそうに道を見ていたから。店の窓から、画面とか水槽とか見るみたいに、窓を見ているのに気づいたんだ。俺と一緒だなって。この人も居場所が無いのだろうなって勘違いしたんだ。本当は、違っていたのに。俺が満たせるようなものじゃなかったのに」

「……そうでもないよ。同じだよ。形が違うだけで、処理し切れない空虚があって、それを埋められるのが限られていて、わたし達はずっとそれを探していた。それが『あの子』で『わたし』だった。ねえ、君は楽しかった? わたしと、少しでも笑ったこと」

「満たされたよ。今まで、一番」

「それで良いんだ。空虚ばかりのわたしにも埋められる何かがほんのちょっぴりあるだけでね。それにね、わたしもね、思ったよりも楽しかった。『あの子』のこと、空虚さも忘れたいって思ったんだ。君に何か、返してあげたくなった」

 わたしはいつも貰ってばかりだ。それすらうまく受け取れない。でも、返したくなる時だって有るのさ。

「返さなくていいよ。受け取ってくれるだけで良いよ。俺があげたい分だけ受け取って。空虚が埋まらなくていい。注いだ端から零れたっていい。足音がキョムって泣いても良い。二人でキョムキョム歩いたっていいじゃないか。いつまでも、空っぽの足音で、軽い靴の音で、歩こうよ」

 カレは涙を零した。美しいカレのそういう表情は好きになれなかった。無表情な顔が好きだし、酒を飲んでいる時の眉間にしわが寄った顔も好き。百歩くらい譲って、笑顔も好き。本当は、カレのこと、気に入っていた。カレの体温も、愛情も愛してみたかった。

「……きみ、よく覚えているなあ」

「おぼえているよ。だって、君の足音もそう聴こえたから、一緒の音だったから」

 わたしは起き上がって、カレに口づけた。どうして、なんか知らなかった。ただ、カレにあげたくなった。潮に隠れてミントの香りがした。リップクリームだろう。カレのそういうところも、可愛らしくて好ましいと思った。初めて、口づけも悪くないと思ったけど、これ以上は要らないとも思った。

 カレが帰ろう、と言った。

 わたしは、君のところがいいなと言った。

 カレは良いのかと尋ねたけど、わたしはそうしたいんだよと答える。

 あのアパートを引き払おう。それから、夏を越えて、


 それからまた、二人でキョムと歩こう。『あの子』に許してもらえるまで、それから二人で空っぽの音を楽しめるようになるまで。

 願わくば、ドーナツの穴みたいに、その空虚さを当たり前だと受け入れられますように。

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ドーナツの穴を埋める 赤原吹 @about_145cm

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