☆♡第34話 ユス教のいろは

 レイヤの家庭教師は翌日にはもうやって来た。

「ゼノン・ハイタスだ。ゼンと呼んでくれ」そう名乗り、「お前が孤児のレイヤだな? 噂どおりのちんちくりんで生意気そうなガキだ」


 ゼン・ハイタスは見上げるほど背が高かった。体の小さいレイヤからはその表情を読み取ることすらできなかったが、言葉の割に口調は弾んでいて、刺々しさは感じられなかった。ゼンはからからと笑って言う。


「さあて、お手並み拝見といこうか。お前が孤児街で何を学んできたのか、お目にかけようじゃないか」


 レイヤは言われた通りに経典の冒頭を諳んじた。ゼンはその大きな体をどすんと椅子に落とし、腕を組んでレイヤの話を聞いている。

 その身長からもっと年上を連想していたが、存外にゼンは若い顔立ちで、レイヤよりは大人なのだろうけれど、ロイズと比べればもっと年齢は低そうだった。

 細い相貌はきつい印象を与えたが、人懐こい笑みがそれを打ち消していた。


「それで」

 冒頭を全部語り終えたところで、ゼンが口を挟んだ。

「お前が信条にしているのは?」

「なんだと?」

 聞き返すと、ゼンは驚いたようだった。

「だから、信条だよ。教義じゃなくて、お前の考えが聞きたいんだ」

「なんのことだよ」

 ゼンはまた、からからと笑った。

「所詮、孤児のレイヤもそこまでだったってことだな。自分の信条を語れずして、一人前のユス教徒を名乗るなんて百万年早いぜ」


 レイヤの顔がかあっと熱くなる。ゼンは苦笑しながらも、レイヤに教えてくれた。

 ユス教の教義の根本は、思考と思索、そしてそれの実行であると。だから本質的に言えば、ユス教の経典は必要ないのだとか。ただものを考えられる頭を持っていさえすればよいのだとか。

「お前は、経典を丸覚えしただけだろう。中身が全く伴っていない」

 確かに、その通りだった。

 レイヤは毎晩毎晩街灯の下に行って、明かりに照らして経典を読んだ。口に出して音読した。音読しながら覚えた。

 ただそれだけだ。別に、本当にユス教徒になる必要などなかったから。


「こんなので、よくサミーダ卿に取り入ったな。どんな手を使ったんだ」

「取り入っていない。向こうがおれを引き抜いたんだ」

「へえ。あの人も何を考えているんだか、分かったものじゃないな」

 本当に、何を考えているのだか。ロイズの下にやって来て今日で三日になるけれど、その疑問は解決するどころか深まる一方だ。ロイズにそれとなく尋ねようとするたびにはぐらかされて、ついには聞き出す気も失せそうになる。


「まあいい。確かに、孤児にしてはなかなかだ。けれど、俺たちの水準には全く達していない。これから全部教えてやるよ。ハイタス家のゼノンの名にかけて、お前を一人前に育て上げてやる」


 レイヤはゼンをじっと見た。内心で、焦ったのとほっとしたのとがないまぜになっている。

 ユス教のいろはも分かっていないことがばれてしまった。けれどそれはたいした問題にはならなかったようだ。

 しかし、これからのことに少し不安を覚える。レイヤは誰かからものを習ったことはないし、そうしたいと思ったこともない。「契約だからな」そう言うロイズの声が、耳の奥から響いてくる。


 ゼンは下男に経典を持ってこさせようとしたが、壁に掛かった時計に目をやってはっと腰を上げた。

「悪い、用事があったんだ。今日はここまで、また明日来るから」

「毎日来るのか」

「ああ、来るようにする」ゼンは外套をはおりながら答えた。「お前をできるだけ早く城に上げたいという要望だから」

「要望……ロイズの?」

「ロイズ・サミーダ子爵が俺の父にお前の教育を頼みに来たんだ。父もお前に会ったことがあるって言っていたぜ。ハイタス侯爵って覚えていないか?」


 レイヤは首を振って、足早に立ち去ろうとするゼンを呼び止めた。

「なあ、ミナは」

 それでゼンは足を止め、レイヤを振り返った。

「おれの妹なんだけれど」

「へえ、妹がいたのか。悪いけれど俺には分からない。別の人が教えに行っているんじゃないかな」


 ゼンが言った通り、ミナのところには別の家庭教師が回されていた。

「初めまして、ミナ・サミーダ。私は今日からあなたに礼儀作法を教えに来たカトレアよ。先生とお呼びなさい」

 ミナはびっくりして何も言うことができなかった。いかつい表情の中年の女は、ただでさえ細い目をさらに細くし、ミナを上から下までその視線で舐め回した。


「挨拶は。それすらもできないの」

 ミナはすっかり縮こまって、震えながら「こんにちは」と言った。女は呆れたようにふんと鼻を鳴らした。


「親戚だか何だか知らないけれど、こんなみすぼらしい娘を抱え込んで、サミーダ子爵は何のおつもりかしら」

 口早に言うと、彼女はずかずかとミナの部屋に上がりこんだ。ミナはおずおずと彼女を見上げる。


 ミナの背後で、扉がぎいと閉まる。見知らぬ女と二人きりで閉じ込められて、ミナの不安は最高潮に達し、呼吸が段々乱れてきた。


 最初ミナをああでもないこうでもないと叱責していた女も、ミナのおかしな様子を見て、慌ててロイズを呼び出した。

 やって来たロイズが下女に何か指示を出すのを横目で見ながら、ミナは大声で泣いた。

 泣いたら兄が来ないかと思って泣いた。


 しかし、レイヤの部屋は離れていたため、その声が彼まで届くことはなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

正義の門 朝斗 真名 @asato_mana

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ