第四章 二百年祭

◉第33話 「考えろ そして動け」

 ユス教は神を持たない。

 多くのルクス教徒がそう誤解していたほどに、ユス教の教えには行動を重んじるものが多かった。

 信じることはさほど重要ではない。それよりも考えろ。そして動け。


 ユス教の経典は神という絶対的な存在があることを前提に構成されていたものの、その神というものはユス教徒たちに何かを教えるわけでも、彼らを裁くわけでも、彼らに罰を与えるわけでもなかった。

 つまり、ルクス教で当たり前のように教えられてきた因果応報の概念はユス教には存在しない。

 何か悪いことをしでかした子は、親や年長者からこう諭された。

「そのようなことで、ガガラ様に顔向けできると思っているのか」

 そう言われた子はしゅんとなって反省する。このように、ユス教では名前を持たない神よりも、教祖やその血を継ぐ神君の方がよっぽど権威が強かった。


 ユス教における神は大体において至上理念を意味した。神とは、ガガラが生涯をかけて追究したこの世の根本原理だったのだ。ガガラはよくこう言ったと、経典には記されている。

「神の考えることは、私たちには到底理解できない」

 だからこそ考えろとガガラは教えた。考えて考えて、できる限り神に近づけと。後世の人たちは、その教えの前半のみを実行し、後半においてはほとんど忘れてしまった。

 ガガラの唱えた名もなき神は、次第にガガラ自身に取って代わっていった。それに気付く人がいたとしても、それを問題とする人はいなかった。


 ユス教の経典は増刷された。そしてそれは、城下の全戸に有償で配られた。

 代わりにルクス教の経典や、その祭儀に関するものは全て没収され、城の庭で一つにまとめられて燃やされた。

 多くの者は、ユス教の経典を奥深くにしまいこみ、目に見えないようにした。それを破り捨てる勇気がなかったのは、それがあまりに高い金とひきかえに配られた物だったからだ。


 群衆の中で文字が読めて、それほど反抗心のない者は、ちょっとした興味からそのユス教の経典を手に取り、それを開いてみることもあった。そして中でも一部の者は、ユス教の教えに感心することさえあった。ガガラの教えはより実用的で、社会生活に即していたし、ルクス教に真っ向から反する教えばかりでもなかった。

 そしてこれが一番大きなことだが、神がいないと言われたわけではない。

 国王も神君も意図しなかったところで、ユス教布教政策には巧妙な穴があった。ユス教はルクス神を否定しないという穴が。


 戦が始まる前に通っていた神殿は、破壊の限りを尽くされ、反抗の象徴とでも言わんばかりにそのまま捨て置かれた。

 そしてどうしてもユス教を受け入れられない隣人は、連れて行かれてそのまま戻らぬ人となった。

 そういった物事が、人々の中から反抗心を奪い取り、彼らを腑抜けにしていった。


 群衆は穴に一人、また一人と逃げ込んだ。そしてその抜け穴の中で、細々とルクス神を偲ぶ道を選んだ。こうして、段々とユス教は人々の間に入り込み、彼らのかたくなな心を柔和にさせ、広まっていった。

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