カッコーの巣を食らえ

ラブテスター

カッコーの巣を食らえ

 小学校五年生の夏、幼なじみの大吉おおよし 桐子きりこは、もういじめられていなかった。

 ある日、人が変わったような形相でいじめグループの親玉——唐須からす 葉子ようこ——に掴みかかり、指の股に挟んでいた二枚のカッターの替え刃で、あわれな彼女の頬を顎から耳まで撫で切ったからだ。

 床の上で顔を押さえて両足を虫みたいに暴れさせている唐須から視線を上げ、血のついた指とカッターの刃をぶらっとさせて教室の全員をゆっくりねめ付けた桐子を、もう嘲笑の目で見る者は誰もいなかった。

 

 

 二枚刃でやるのは昔の女不良スケバンの手口で、あれでやられた傷は下手くそな医者だとうまく縫えないで痕が残るんだよ、相当覚悟キマってなきゃ出来ないな——と夕飯のときに父親が話した。大吉家はうちのすぐ横なので、お隣に聞こえたらどうするの、と母親に結構きつめに叱られていた。

 

 

***



 大吉家に、俺は今日も入れて貰えなかった。

 桐子が出掛けていて家にいない日、今は休職している桐子の母親——まどかおばさんしかいないタイミングを見計らってドアベルを鳴らしたのだけれど、「ごめんねえ丹孤塁にこるくん、桐子に勝手に入れちゃ駄目って言われてるの」と俺のDQNネームを添えてあっさり断られてしまったのだ。

 

 いまの桐子は、桐子の姿をしている偽物で、本人じゃない。俺はそれを確信していた。

 なら、ほんとうの桐子はどこだ。今どこで、どうしている。

 一人で、さみしがってるんじゃないか。怖がってるんじゃないか。お腹を空かせて、泣いているんじゃないか。

 それともとっくに、桐子の振りをしたに、桐子はどうにかされてしまったのだろうか。

 だとしても、俺は何もせずにいるわけにはいかない。

 桐子への陰湿ないじめに気づいていながら、俺の弱さ、臆病さから知らない振りをして——今の事態に至らしめた。だから俺には義務が、どんなに遅くとも桐子のために何かする義務があるのだと思った。

 

 

 桐子が、何か血なまぐさいことを始めていたのは知っていた。共働きの両親がともに不在の夕刻に、家の裏手で。何か怪しげな本を首っ引きにしながら、小鳥や、ハムスターか何か——それらを刃物と、ライターで起こした火でどうこうしていたのを知っていた。

 俺は、それを見て、桐子の家の裏庭に増えていく盛り土の小さな塚を見て、あんな気味のわるい奴いじめられて当然だろ、俺はとにかく誰であれ馬鹿なことをする奴と関わりたくないだけなんだなんて自分を正当化していたけれど、いま思えばどう考えても、始まったいじめから目を逸らしたのが先だった。それまで一番そばにいた俺が助けてやれていなかったから、桐子はあんなことに手を染め出したのだ。

 ——たった一人で、何をしてでも必死に自らを救おうとしていた桐子を軽蔑するなんて資格は、真っ先に逃げ出した俺にはなかったのだ。

 

 

 大吉家の裏手に回る。桐子が作っていた、無数の盛り土が一面、大地がわずらった腫瘍のように広がっている。

 俺はその光景を横目に、家に沿うように置いてある物置きロッカーの天板を掴まえ、足裏で横板を何度か蹴って天板の上に体を持ち上げた。ここから桐子の部屋の窓はすぐ上だ。まだいじめが始まっていない頃、桐子と親しく話せていた頃は、こうやって夜半に桐子の部屋に忍んでよく遊びに行っていた。別に正面から今晩はと言えばふつうに入れて貰えるのだが、いちど父親に知れてとことん揶揄からかわれてから、こんな風に大人の目を盗んでこそこそするようになった。そのときも父親は結構きつめに母親に叱られていた。

 桐子の部屋の窓に取りつき、ガラス戸を引き開ける。正直閉まっていると思っていたのだが、まるであの頃のようにすっと開く。桐子は今もこの窓を施錠していないのだ。俺はその意味が心に引っかかり数秒停止した。けれど、その場合ではないと気を取り直してまた動きはじめる。

 部屋に入る際に靴を脱ぐ代わりに、用意していた、口紐をゴム紐に替えた巾着袋を足に履く。これならばいざというと時にもこのまま外へ駆け出せる。

 部屋に降り立って、記憶にあるファンシーな桐子の部屋とあまりにイメージが異なっていて戸惑う。いや、部屋にある物、家具や装飾は同じなのだ。ベッドもシーツも、机もその上の可愛らしい置き物も。しかし俺が桐子の部屋を訪れなくなってもはや一年は経つのに、それらの位置は時間が止まったように俺の記憶と寸分違わず変わらずに、またその上、それら全てに汚泥と夕闇がかかったように部屋の空気がどんよりとしている。

 果たして俺はこの部屋の中、目当ての物、もしくは手掛かりだけでも見つけられるのか、そう思ったとき——

「やっと来たんだな」

 思わぬ方向からの声に驚き飛びすさり、たたらを踏んで向き直る。

「そう身構えるなよ、お前が見捨てたいとしの桐子だぜ」

 そこに、出掛けているはずの桐子がいた。

 何かのボスキャラの第一形態みたいに、少女の姿をしながら足先を揃えて両手を低く広げて。俺を挑発するような、桐子なら絶対にしないような軽薄な笑みを浮かべていた。

「こいつを取り返しに来たのか? 今さら遅いけどな」

 俺はその言葉を無視して右手のクローゼットに駆け寄り、一気に引き開ける。薄暗いながらもかすかにある光に晒されたものは——

「何だ? 随分と分かってる風だな、誰かの入れ知恵か?」

 次のそいつの言葉を、今度は取り合う余裕がないという理由で、俺は無視する。

 さっきの言葉を、スルーしつつも俺は、『取り返す』という言い回しがあったことに安心しかけていた。取り返す、ということがまだ有効な状態なのかもしれないと思った。

 しかし。クローゼットの中にあったものは。

 まるで、巨大なカエルの卵。

 ぶよぶよとした透明なゼリー様の塊がとぐろを巻き、芋虫のように節をつくる膨らみごとに——人間の内臓が、おそらく、桐子の内臓——胃や肺や、腸、目玉や歯に舌、そして筋肉に骨——が孕まれ脈打っていた。

「おやよかったな、桐子との感動の対面だ」

 背中から、桐子の声で話しかけられる。

「もっとも、皮と脳はこちらに借りているよ。返さないけどね」

 俺は振り向く。桐子がいる。桐子の姿をした、桐子でない者がいる。

「脳ってな、欲しがる奴がいないんだ。食ったらうまいけどそれだけだからね。器官として個人的過ぎて、本人の魂にとってしか使がない」

「桐子を返してもらう」

 俺は精一杯のを利かせて声を出す。そして鼻で笑われる。

「やめとけ。どうせ、それには刃物も火も通りゃしない——それより、一人で乗り込んでくるとはな。勇気があるんじゃなくて舐められてるだけかな。おれ様を、その辺の野良神が祟ってるとでも思ってるのか?」

 そいつは桐子らしさなど全くなく、上下の歯ぐきまで剥き出して笑う。

「あのガキがすがろうとしていたのは確かにこのへんの土地神だよ。ただ近くに大社たいしゃもない辺鄙な土地だから、いたのは零落したけちな低俗神だがね。だから酒やみたいな文化的な味が分からんで、もっと直接的な血肉を欲した。そして、そういうのならばよその土地から来た

 そいつは愉快そうに続ける。

「おれ様はみるみるすくすく育って、あわれな桐子が祈っていた何かの神も一口で喰っちまった。あれ何だったんだろうな。味も素っ気もなかったな」

 口を開けて、小指の爪で歯の間をくような真似をする。

「それでも桐子チャンは実にいい子チャンだから、本に書いてあったことを丁寧に守って、ちゃんと毎日欠かさず可哀想な儀式をしたけれど、そもそも相手が途中で入れ替わってるんだからどうもこうもない。あの子はこのおれ様に、大いなる怒りを買ったというわけさ」

 そこまで語って、そいつは黙ったかと思うと俺の顔色をじっと伺っているらしかった。そして俺に動じた風もないことを見ると、フンと鼻を鳴らす。

「やはり、承知の上か。どこまで掴んでる? それによってはただでは済まさんぞ」

 俺はそれには答えず、、記憶にあることだけを語る。

「カッコーみたいだ。カッコーの托卵っていう行動とよく似てる」

 『カッコーの巣の上で』、という映画を父親と見たことがある。スパイダーマンとかに比べて色々と地味で、でもやってることが何というかモラル的には派手というか豪快というか、俺には上手く言えないし内容をあまり理解できてなかった気もするけど、でも見終わってみると面白い映画だったという感想ではあった。

 それでもやっぱり、小学生の俺には刺激の強いいかがわしいシーンが多くあったので、俺にそれを見せたことがばれた父親はまたも母親に結構きつめに叱られていた。

 また、その映画については特にタイトルの意味が俺は分からなくてそのことを後で父親にたずねた。父親は、まず俺にカッコーという鳥の托卵という生態を説明して、それから、自分の卵を他の鳥に育てさせるからカッコーの巣というものは実際は存在しない、このタイトルの意味は本来存在しない場所で——という意味なのだとスマホの画面をそのまんま読みあげながら教えてくれた。

 さらにその時の話を踏まえて、父親は、と教えてくれた。

 ちっちゃい女の子がハマりがちな罪の無いおまじないのうち、あいつは何かに祈りを捧げる類のものにすべり込む。托卵されたカッコーの雛みたいに、捧げられた物を一緒に食って一緒に、だけどより強力に育って、まつられる座を乗っ取ってしまう。

 そうしたら後は元々の神の擬態フリをしつつも、ある日突然怒り出すのさ。お前の儀式は何もかも間違っている、我を侮辱している! とね——

 そいつの正体は、山羊の頭をした、はるか大陸の向こうで人間の女をたぶらかして魔女の集会をやらせていた悪魔だ。つい二十年ほど前、強力な悪魔祓いエクソシストに見つかり神の裁きを受け、その体は三百に分かたれて、それでも尚見苦しく世界中に散り散りに逃げ延びて——

 その欠片どもが、いまやあわれにも子どもの女をかどわかしては血と魂を啜ってようやく生き長らえている。右手で溶解し、左手でほしいままに凝結させる、いまわしき悪魔よ!!

 

「糞ガキがアア!!」

 俺に名前を叫ばれて、悪魔が激昂する。

「神に見つかったら、どうする! 貴様、魂を八つ裂きにしても済まされんぞ!!」

 桐子の、目と口から炎がほとばしる。俺は腰に携えていたボトルの一つを開けて、その顔に浴びせる。あっという間に炎は消え、代わりに焼けつく音と臭いが立ち込める。でも、桐子の顔は傷ついていない。

「聖水が……なんでこんな辺境のクソ田舎に!」

 悪魔の悲鳴に構わず、俺は次のボトルを開ける。悪魔は怯えて後ずさるけれど、俺はそれを自分の頭からかぶる。

「……聖、油?」

 茫然と悪魔がつぶやく。そこでハッとしたように辺りを見回す。今ごろ気づいたのだ。

 でももう遅い。

 桐子の部屋のドアが内へ吹き飛び、炎がうず巻いて部屋に入ってくる。

 慌てて窓に飛びつく悪魔の背中を俺は見送る。体に浴びた油にたちまち火がついて、俺は熱くて転げ回る。しかし、もうただ逃げても間に合うとは思えない。とっくにこの家は火に包まれているだろう。這々ほうほうていで窓を乗り越える悪魔の背中を見ながら、このまま駆け寄って取りつけば桐子の体を犠牲に一時的に悪魔を無力化できるのかも知れないとは思うけれど、俺はそれをせずにただただ見守る。円おばさん、ちゃんと嘘の電話で呼び出してもう家にはいないはずだけどそれは上手くいっただろうか、無事だろうかとそればかりが気がかりでいる。

 

 

***



 

 桐子がいじめられ始めた当初、俺は止めに入っていた。すでに男子も交えた暴力が加わっていたいじめに対抗するために、俺も手を上げ、いじめグループの相手を蹴りつけた。

 それで後ろへ倒れ込んだ一人が、柱の角に頭を打ちつけて皮膚がぱっくり割れ、大量に出血した。

 学校は、桐子へのいじめは全く無視したまま、俺の起こした流血騒ぎだけを大いに取り沙汰した。

 俺は相手の親、そしてなぜかいじめグループの一人一人の家を訪問して謝罪して回らされ、それですっかり参った俺の精神は、正義とは何か、人を守るとは何なのかがさっぱり分からなくなっていた。

 そうして俺の助けを望めなくなった桐子が、怪しい呪いに頼り始めたのは知っての通りだ。

 

 そんな俺に、父親は、お前が桐子ちゃんのために何かしたいなら俺はその手助けができる。俺はもう基本見守ることしかできないけれど、俺の導きは必ずしも神の国へ近づくための手引きではないけれど、それでもお前があの悪魔から桐子ちゃんを救いたいなら、俺はお前に語って聞かせられることが沢山ある。そう言ってくれた。

 人間は神のように全能ではないから、善を成すために善のみではあたわず、また悪を成すとも悪のみでは終わらぬところがある。

 お前は暴力で人を傷つけたけれど、それは相応に許されないことではあるけれど、その罪を恐れてその後桐子ちゃんを助けなかったのは善いことなのか? 正しいことではあるのだろう。罪を繰り返さないよう自らを戒めたお前は間違ってはいない。いかな理由であれ、たとえ正義のためであれ、暴力が免罪されることはない。

 ただ——

 間違わなければ、それでいいのか?

 お前は、自分が罪人になることを恐れて、桐子ちゃんの魂を見捨てるのか?

 

 

***



 桐子の家は燃えた。

 これは勿論俺がしたことで、俺の罪だ。

 けれど警察は、明らかに怪しい俺をさほど疑わなかった。状況証拠が示す一端は確かに俺を犯人だと指さしていたけれど、動機が無かったためだ。……明確な物的証拠がなかったということもあるが。

 ともあれ、それはそうだろう。誰にも俺の本心、俺が桐子の家を燃やした理由、俺が犯したもう一つの、そしてなど想像もつかないだろう。

 

 俺は、

 悪魔崇拝の儀サバトでは、悪魔のよろこびのために炎がつけ回され——そして、供物くもつとして人肉が饗される。中でもとりわけ、子どもの肉が好まれる。

 俺は、あの場所で自分を生け贄としてあの悪魔に捧げたのだ。

 

 悪魔祓いに討たれ、その体を無数に砕かれてなお滅びず逃げ延びた悪魔は、しかし二度と神に見つからないためにサバトを、それに似たものさえもむしろ必死に避けていた。

 その一方で他の神の儀式にもぐり込み、知らぬ神の姿に身をやつし細々と生き長らえていた悪魔は、まさにカッコーのようで——

 そしてまた、そんな悪魔にとってサバトとはもはや実在しない、してはいけない儀式——まさに、カッコーの巣であったのだ。

 それを俺によって実演され、にえを受け取ってしまった悪魔は、たちまち神に見つかって、影も残さず滅ぼされた。

 ほんのひと欠片だけれど、確かにあの悪魔は死んだのだ。

 

 

***



 

 全身に火傷を負って入院している俺を、先に回復した桐子が毎日見舞ってくれる。

 桐子が持ってきてくれる果物や、手作りのお菓子は美味しかったけれど、やはり何と言っても最高だったのは、桐子が初日に持ってきてくれた、今回の顛末を力ずくで白状させられた父親が、相ッ当にどぎつく母親に叱られていたという土産話だった。

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