言葉のない屋上には二輪の百合が咲いている

かんなづき

言葉のない屋上には二輪の百合が咲いている

 場面緘黙症ばめんかんもくしょう


 小学生の頃から私に出始めるようになった症状だ。


 話したいのに、話せない。家族とは普通に話せるのに、学校だと緊張で体が固まって、思うように声が出せなくなってしまう。喉の奥が締まる。


 ほんとは色んな人と仲良くなって、いっぱい喋って、笑いたいのに。


 どうしても、そうすることができない。





 周りからは、理解されることなんてなかった。


 授業中、音読ができなくて先生に叱られた。

 給食も食べることができなくて、みんなから変な目で見られた。


「“あ”って言ってみて?」


 喋れない私は、そうやってからかわれた。


 それでも、何も言い返すことができなくて、ただただ悔しかった。




 “ありがとう”が伝えられない。“ごめんなさい”と謝れない。


 “おはよう”すら、言うことができない。




 笑顔なんて、とっくに忘れてしまった。




 そんな私の所に、一人の天使がやって来た。


美波みなみちゃん。おはよっ!」


 中学二年生の時、隣の席になった雛村ひなむらさん。私は下の名前で京香きょうかちゃんって呼んでいた。心の、中でだけど……。


 私の肩を優しく、とんとん、って叩いて私に笑いかけてくれる。胡桃くるみ色のボブカットを弾ませたその奥に光る笑顔が、とてもとてもかわいい。


 おはよう、と返せない私は、ぎこちなく笑顔っぽい表情を作ってお辞儀をするように顔を傾ける。


 こ、これでもっ……精一杯の、お返しなんだけど……。





 京香ちゃんは、嫌がらせを受けていた私を救ってくれたヒーローだった。


 唯一、私のことを友達だと言ってくれた。


「美波ちゃんは、なぁんにもおかしくないよっ。だって、とっても可愛いもんっ」


 からかい屋を追い払った後、そう言って抱き締めてくれたあの時間を、私は鮮明に覚えている。



 バニラアイスの舌触りに似た彼女の優しい声。


 肺を埋め尽くす、お花のシャンプーの香り。


 制服越しに感じた、彼女の柔らかい胸の奥で波打つ温もり。



 彼女は私の身体を離して、ぼさぼさになってしまった私の髪を小さな手で整え、ずれた眼鏡を両手で上げてくれた。輪郭がはっきり映る世界の真ん中に、彼女の笑顔が見えた。


「私、美波ちゃんと仲良くしたいなっ」


 彼女はそう言ってくれた。





 その夏、私は彼女との時間のほとんどを学校の屋上で過ごした。


 誰もいない朝の時間。昼休み。放課後。


 白いセーラー服の間を潜り抜けて私たちを透かすような夏風に二人で身をゆだねる、言葉のない不思議な時間。お花のシャンプーの香りが時折運ばれてくる。


 ただそれだけでも、私はなにか幸せに近いものを感じていた。





「ねぇ、美波ちゃん」


 “ん?”


 一学期のテストが終わって、夏休みを待ちながら蝉の聲に鼓膜を揺すられるようになった頃、彼女は不意に口を開いた。


「私、美波ちゃんが好きっ……」


 “えっ……?”


 彼女は少し恥ずかしそうに口元を隠しながら俯いていた。彼女の真っ白な制服は、太陽の光を全反射して輝きながら風に揺れていた。


「もちろんっ、友達としてもだけど……こっ、恋人として、好き……」


 私の右手に、彼女の指が絡んできた。


「こんなこと言ったら、美波ちゃん、動揺、しちゃうかなっ……」


 彼女が恥ずかしさを隠すように笑った吐息に、寂しさの匂いがした。


 恋人。


 女の子同士って、もしかしたらへんてこかもしれないけど、好きなことに変わりはない。彼女の気持ちも、私の、気持ちも……。


「わ、私もっ……!」


「え?」


 喉が締まって苦しい。でも、伝えたいっ……。


 私は、蝉に負けないように喉を震わした。


「私も……す、す、すき、だよっ……」


 言えたっ。


 彼女に、初めて伝えられた言葉。


 “おはよう”なんかじゃなくて、“ありがとう”でもなくて。


 京香ちゃんは、ふふっ、と解けるように笑った。


「じゃあ、両想いだねっ」


 私はゆっくり彼女に視線を移した。全く同じタイミングで、彼女も私の目を見つめていた。


 真っすぐ。


 私も彼女に指を絡ませた。


 ゆっくり、ゆっくり、顔を近づける。


 私の、大好きな人。たった一人の友達。初めての恋人。


「えへへ……ちょっと、恥ずかしいね……」


 彼女は顔をほんのり染めて笑った。ほんとうに、かわいい。


「ずっと一緒にいようね。これからも、ずっとずっと……」


 “うんっ……”


 汗が滴る方が速く感じるほどゆっくり、彼女の唇に触れた。柔らかくて温かい幸せを噛み締めるように目が勝手に閉じる。


 蝉の聲は、遠くどこかへ飛んで行ってしまった。





 その翌日、彼女は虚血性心不全でこの世を去った。


 急死だった。




 信じられなかった。信じたくなかった。




 もちろん、お葬式には行けなかった。緘黙症もあるし、何より怖かった。


 輪郭のぼやけない私の視界の真ん中ではなく、黒い遺影額の中に納まった彼女の笑顔を見るのが、怖かった。


 もう、戻ってこないんだ。私の隣には、いないんだ。


 ずっと一緒にいようって、言ってくれたのにっ……。




 なぜだか、後悔ばかりが頭に浮かんだ。




 私がちゃんと喋ることができていたら。


 もっと気持ちを交換できていたら。


 緊張せずに、好きだよって言って、抱き締められていたらっ……。


「京香ちゃんっ……」





 気持ちを立て直すには、夏の夜は短すぎた。

 なんで太陽はそんなに、毎日元気に上がって来れるんだろう。


 私は部屋に閉じこもって、一人でたくさん泣いた。





 言葉のない時間。


 目まぐるしく回っていた世界の片隅で、私たちが肩を寄せ合ったあの時間。


 彼女の寿命は、誰にも知られずにすぐそこまで迫っていたのだ。





 もっと、いっぱいお話したかった。


 大好きって言いたかった。


 まだ、傍にいてほしかったっ……。





 “さよなら”なんて、言いたくないよ……。





 夏休みも半分が過ぎそうになった八月十三日。京香ちゃんのお母さんが家にやって来た。


 その日は、私の誕生日だった。


 私の場面緘黙は、たとえ家にいたとしても家族以外の人に対しては症状が出るから、お母さん相手ですごく緊張した。


「この度は、ご愁傷さまです……」


 私のお母さんは食卓にお茶を出すと、お盆を前で抱えて深く頭を下げた。私もそれを真似て頭を下げる。


 京香ちゃんのお母さんも静かに頭を下げて、正面に座る私の目を見た。もちろん私は直視できなかった。


白濱しらはま美波さん」


 お母さんは私の名前を呼んだ。全身に力が入る。


「今日はあなたに、届けたいものがあって来たんです」


 と、届けたい、もの……?


 私の前に手紙と白い箱が差し出された。


 これは……。


「京香が、遺していったもの。美波ちゃんの誕生日になったら、渡しに行くんだって、前から用意してたみたい」


「ぇ……」


「今日が美波さんの誕生日なんだよね。あの子は自分の手であなたに渡したかっただろうけど、もうそれはできなくなってしまったから。受け取ってあげてほしい」


 そ、そんなっ……。


 私は震える手つきで、手紙と白い箱に手を伸ばした。





 美波ちゃんへ


 お誕生日おめでとう!

 白い箱はプレゼントだよっ。美波ちゃんの名前にピッタリなもの、頑張って見つけたから、喜んでくれると嬉しいなっ。


 私ね、美波ちゃんと一緒にいると、すごく幸せな気分になれるんだ。不思議だよね。おしゃべりもなにもしてないのに、隣にいるだけで良いんだよ? 


 出会えてよかった。友達になれて、本当によかった。


 大好きだよ。これからも、いっぱい仲良くしてねっ。



 京香より





 プレゼントの白い箱の中には、砂浜のきれいな貝殻で作られた指輪が入っていた。宝石なんかよりもずっときれいな貝殻。


 白濱美波という、私の名前そっくりの指輪。


 気付いたら、眼鏡のレンズに雫が溜まっていた。


 隣にいるだけで。たったそれだけで幸せ。

 彼女は、そう思ってくれていたんだ。


「っ……」


 やばいっ、涙、抑えられないなっ……。


「あの子は、美波ちゃんのことが本当に大好きだった。家に帰ってきたら、美波ちゃんの話しかしないんだもの。すごく楽しそうにして」


 そ、そうだったんだ……。


「その指輪も、ペアで買っていたの。あの子の部屋に、もう一つがある。おそろいでつけたかったみたい。まるで夫婦みたいね」


 彼女のお母さんは、優しく微笑んだ。


 私はその指輪を手に取って、左手の薬指にはめた。小さな白い貝殻が、彼女の笑顔みたいに輝いている。




「ずっと、一緒だよ」


 そう、彼女が言ってくれているみたいだった。





 それから、五度目の夏がやって来た。


 私の症状は依然として続いていたけど、小中学生の頃に比べたら、だいぶ軽くなった。少しであれば人と言葉を交わすこともできるし、家の外に出るのにもあまり緊張しなくなった。


「京香ちゃん、久しぶり」


 彼女の命日。私は欠かさず、彼女に会いに行った。


「今年も暑いね。日焼けしちゃいそう」


 お花を添えて、線香をお供えする。


 元気、してるかな。


「私ね、今法律の勉強してるの。めちゃくちゃ難しいや……」


 彼女の言葉は、返ってこない。

 昔は、反対だった。彼女の言葉に対して、私は何も返すことができなかった。


 こんなに、さびしいんだね……。


 左手薬指の指輪。ペアのもう片方は、納骨の時に一緒に骨壺に納められたと聞いた。ここに、彼女と一緒に眠っている。


「京香ちゃんっ……」


 会いたいよ。抱き締めたい。キスしたい。


 熱を持ち出した目頭を冷ますために上を向いた。鋭い日差しに目をつむる。





 あぁ、だめだめっ。寂しいのは、きっと彼女も一緒。


 ずっと、一緒。


 遠くにいるけど、誰より近くにいるんだから。


 大丈夫。


 頑張ろう。恥ずかしくないように。


 いつか彼女の所へ行った時、いっぱいお話できるように。





「また、来るね」


 私は左手を握り締めて、墓地を後にした。

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