真・擬・態

雨野

真・擬・態

 気に入らないことばかりである。私は猛烈な圧力で人間様を型にはめ圧縮し成形せしめんとする様に狭苦しい四畳半で目覚めた。今日もだ。今日も目覚めてしまった。眠っているうちに息の根が止まらないか、恐竜絶滅を完遂させた隕石が味をしめて降ってこないか、などと期待して数十年が経つ。快眠だ。ちくしょう。

 そしていつも通りに憤った。憤りとは、無駄に蓄積されたエネルギーの放出である。なぜ私の人生のベクトルは全てが上手くいかない方向を向いて綺麗に揃い突き進んでいくのか甚だ疑問である。上手くいかない日常を過ごす私の精神面は過剰に圧縮されたに違いなく、目覚めてからの数時間、圧縮された精神面が元に戻ろうともがくのだ。この時に放出されるエネルギーこそが憤りであり憤怒であり感情の活火山大噴火に間違いない。日々をなんとなく受け入れたりするなと叫んでいるのだ。妥協というやつだ。

 生きていく上で妥協とは素晴らしい。欲しいものが買えない時も、好きな女に想いが伝わらない時も、給与明細を見た時の落胆も、すべてを乗り越えさせてくれる。「まあいいか」はこの数十年で覚えたたった一つの魔法の言葉である。お辞儀を教養する死の魔法使いだってこの呪文の前では無知無力無意味である。凸凹だらけの人生という道をなんとか致命傷を受けずに歩いてこれたのはそのおかげであることは間違いない。間違いないのだ。

 しかし、その『妥協』は今になって私を苦しめる。あの時こうしていればよかっただとか、手を抜かなければ良かっただとか、そんな気持ちばかりふつふつと湧き上がってくる様になる。見えもしない人生のルートが複数見える様になる。しかし、そのどれを選んでも上手くいかないことなどわかり切っている。そして適当に選んだ道の先でまた嘆く。憤る。その繰り返しである。

 私は四畳半の窓から外を眺めた。見慣れた風景の一つであるこむら川が目に入る。どぶのような色をした、流れているのか流れていないのか、そもそも川なのか水たまりなのかすらよくわからないその川は私の人生の行く末を暗示しているかのようである。淀み溜まり沈む。その色を見るたびに心が重たくなる。

 二日酔いの頭痛に顔をしかめながら立ち上がると床が呪われた魔物の断末魔の様な悲鳴をあげた。築五十年の歴史を持つこのアパートの渾身の雄叫びである。室内は日光を憎む世界中のヴァンパイアが集結しそうなほどに日当たり最悪、いや皆無である。電気をつける。つかない。そういえば電気代を払っていない。私は苛々としてため息と共に壁に後頭部を打ち付けた。上の階、下の階、左右の階全ての部屋から壁ドンと床ドンの大合唱が響き渡る。周囲の部屋とのコミュニケーションを大切にするあまり壁を障子紙の様に薄くしてあるのであろう。私はこの偉大なコンセプトに何十度目かの感銘を受け顔をしかめた。ここまで読んだ暇人、お前達のことだ。お前達はこう聞くだろう。なぜこんなところに住んでいるのか、と。それはもちろん金が無いからである。『無い』というのは『少ない』というのを表す奥ゆかしい意味ではない。『無い』のである。全くもって無い。存在しない。健康的で文化的で最低限度の生活を送ることすらできない私の家計は火の車を通り越してもはや真っ白な灰である。ただでさえ少ない私の給料から税金やなんやらといった名目で金は毟り取られ、電気代ガス代水道代といった公共料金に、人より多くかかる食費。私という存在を維持するだけで金がかかる。誰に頼まれて生きているわけでも無いというのに。不公平だ。人間の維持にかかるコストくらい国が、もしくは神が負担するべきであろう。


 こうして外をぼんやりと見ていると、このアパートへ引っ越してきたことを思い出す。昔のことを思い出すのは歳をとった証拠である。私は小説家になりたくてこの街へ来た。もう十年以上前のことである。文章というものは誰にでも書ける。文字を連ねれば単語に、単語を連ねると文章である。その中で人形遊びをさせれば小説の完成である。ほんの少しの内容をぱんぱんに膨らませて偉そうに語れば評論で、役に立たないことをさも役に立つかの様に書かれていればエッセイだ。この街に引っ越し、私は原稿用紙の中で動き回る何かを必死に想像し創造した。書いて書いて、書きまくった。時にそれは人であり、猫であり、ロボットであり、吸血鬼であり、天狗であり、異世界であった。

 文章の中で人形を動き回らせるのは作者の勝手である。しかし、原稿用紙の外にいる人たちの心を動かさなければその文章に存在価値は無いのだと気付くのはその数年後のことである。この様に読者の心を動かす能力を人は才能と言う。

 これに気付いてから私の人生は散々に無為なものとなった。自分の文章は誰の心を動かすこともない。つまりこの文章に存在価値はない。ただ、文字の死骸がうず高く積み上がったものを、私だけが必死にこれは小説だと叫んでいるだけなのである。砂漠の中心でオアシスの存在を謳っても誰も聞きやしないのだ。

 ここまで読んだ暇人。お前達はきっと文章を書くのに才能など必要ないと綺麗事を言うのだろう。だがそれは過ちだ。お前らだってどこか心の奥底で気付いているはずだ。才能は必要なのだと言うことを。それを趣味だ、自分の生きる理由だなどと大層なきらきらで飾り立てているだけのことだ。それにだって気付いているだろう。私は飾るのをやめたお前達なのだからわかるのだ。


 こんなくだらないことを考えていないで準備をしなくては、と押し入れからしわくちゃになったアルバイトの制服を引っ張り出す。押入れが閉まらなくなった。このアパートの持ち主はシュールレアリズムに傾倒しているらしく私の部屋は四角形では平行四辺形である。一言で言うと歪んでいる。それは人の心の奥底やこの国の内部を表しているかの様である。こうして書くと深い。だがこのアパートの存在は深いと言うより不快である。押入れの中は腐海といってもよい。そう、この国。この国の話をしよう。この国はやり直しがきかない国であると思う。受験。就職。試験。乗り越えられなかったものには誰にでもできる仕事しか与えられない。私は斜に構えすぎるあまり地べたに横たわるほどに斜に構えた男である。肥大化したプライドを怪獣の着ぐるみの如く着こなす男である。そんな仕事をやる気になどなれなかった。

 その誰にでもできる仕事を必死でやることが、本当に素晴らしいことであると気付くのも数年後のことであった。私は、将来自分が偉大で絶大で強大な小説家になるものであると根拠の無い自信をダイヤモンドの如く硬く鋭く尖らせていた。ここまで読んだお前達であればその自信がダイヤモンドでなく鉛筆の芯レベルの黒鉛であったことは想像することは容易いだろう。

 その結果が今のアルバイト生活だ。アルバイトは週に三回。誰にでもできる仕事を、これしかできないであろう人間達がやる気無くこなすだけである。出勤した私を見る目はいつも生温かい。この歳になってまでアルバイトなのか、という言わなくても伝わる思いが職場内の空気の大半を占めている。その分酸素が少ないに違いない。どうりで息苦しいわけだ。狭っ苦しいわけだ。生き辛いわけだ。

 そうだ、私はお前達が羨ましいのだ。建前をきちんと使い、プライドを押し隠し、平然と人間のふりができているお前らが羨ましい。これを読んで笑うのだろう。お前とは違うと蔑むのだろう。その通りだ。私と、お前達は違う生き物である。いや、私だけが生き物になり損ねたのかもしれない。


 私が挫折したのは本物の『才能』というものを見たからである。その人物の描く文章は光り輝いていた。文字の一つ一つが、その人物の言動が、動作が、全て原稿用紙の中で生きている様に思えた。作者の存在自体が完璧な小説の設定にすら思えた。それならば私はその周囲にただふわふわと存在する名も無きモブである。居ようが居なかろうが一切問題はなく、誰とでも換えが効く。その私が作り出したものも同じだ。私は自分の書いたものを読み返し、ダイヤモンドではなく黒鉛が汚らしい藁半紙の上をのたうちまわっていることを確認した。その日から、文章は、いや、単語の集合体は書いていない。

 時間はアパートから見るどぶ川のように淀み、本当に流れているのかと、そしてこの生活はこの先ずっと続いていくのか、と私を不安にさせる。挫折し、全てに憤ることしかできなくなった私にとって、この街にしがみついていることは唯一の生きている理由になりつつあった。夢を追い続けていると言い張れる存在で無くては、生産的な存在でなければ。もしこの街を出て、たった一つのしがみつくところを失った時、私は自分が何であるのかが分からなくなる気がした。自分の中の、少し目を凝らせば見えてしまう自分の正体に怯えた。どぶ川の河口へと流れていった時間が作り上げた化け物に殺される気がした。

 だから今日も、私は見ぬふりをした。

 気に入らないことばかりである。私も、これを読んでいるお前もだ。

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 ここまで書いてみて、こんな愚痴は小説にはなり得ないな、と思った。これは私の生活よりもひどい生活を必死に考え、ミキサーで絞った後のかすのような存在である。やはり才能のない私に文章は向いていない。やめだやめだ。書くのなんてやめだ。

 私はここまで長々と書いた文章、ミミズがのたうちまわった様な字が躍り狂う原稿用紙を少し大きめの空き瓶に詰め込み、窓から見えるどぶ川、いやこむら川に放り捨てた。瓶は、ゆらゆらと、それでも確かに流れて行き、私の視界から消えた。存在価値のない私の文章を引き受けてくれる母なるこむら川に感謝を捧げよう。私は背筋を伸ばし、敬礼のポーズをとった。その緩くも確かな流れを羨ましく感じる自分がいることに気付く。

 あの瓶を開けてくれるものは居るのだろうか。瓶の中に紙が入っているのを見て、異国からの文章であるのか、恋文か、いや小説なのかと期待して開け、小説に擬態したただの愚痴を最後まで読んでしまった暇人達が後悔し地団駄を踏むのを想像した。

 そして私は少しだけ愉快な気分になり、筆を置くことにした。

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